言語論的転回
自分のよりどころは何なのだろうか?
何らかの書物や思想が、自分の生き方に大きな影響を与えた経験のある方も多いかもしれない。
自分にとってそれは大学時代に触れた「現代思想」であり、その中でも大きく影響されたのが、フェルディナン・ド・ソシュールの差異の概念である。
フェルディナン・ド・ソシュールは、は、スイスの言語学者で「近代言語学の父」と呼ばれている。
ソシュールの有名な概念の一つに「言語論的転回」がある。
少しわかりやすく書いてみる。
私たちは例えば、「水を飲む容器」を「コップ」というように、日常的にモノにそれを指し示す言葉が1対1で対応している、と考えがちだ。
しかし、ソシュールによれば、「コップ」はコップ以外のもの(例えば「湯呑茶碗」や「コーヒーカップ」)ではない「コップ」であるという「差異」によって、世界は構成されている、という。
もう少し簡単な例を挙げると欧米(一部を除く)では魚は一般的に「fish」だが、日本は「鮪」「鱈」「鰻」・・・・といろいろな魚をその種類によって分けている。
逆に日本で「肉」といえば「鶏」肉、「豚」肉、牛「肉」というように、動物の名前+肉だが、欧米ではそれぞれ「Chicken」、「Pork」、「Beef」という固有名詞がある。
これは、それぞれの文化によって違う世界が切り分けられているのであり、神がモノに言葉を名付けたのではなくて、欧米では「fish」で足りるが、日本では「fish」の中でも「鮪」「鱈」とそれを切り分ける必要があったから、言葉が生まれたのだ。(もちろん「鮭」=「Salmon」というふうに固有な名刺をつけている例もあるが)
とにかくソシュールの「差異」の概念は強烈で、近代までの「世界は言葉でいいあらわすことができる」といったような西欧のロゴス(言語)中心主義をひっくり返すような概念だった。
大学生の自分にはかなり難しかったが、「今まで当たり前に信じてきたことが当たり前じゃない」というコペルニクス的転回にモラトリアム期の自分は非常に衝撃を受けたことを今でも覚えている。
実生活で「差異」の概念を使うことはまずないだろう。
しかし、自分の思考の組み立ての原点となっていることは確かだ。
自分はあなたではないから自分なのだ。
あなたも自分ではないからあなたなのだ。
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