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言語論的転回

 自分のよりどころは何なのだろうか?

 何らかの書物や思想が、自分の生き方に大きな影響を与えた経験のある方も多いかもしれない。

 自分にとってそれは大学時代に触れた「現代思想」であり、その中でも大きく影響されたのが、フェルディナン・ド・ソシュールの差異の概念である。

 フェルディナン・ド・ソシュールは、は、スイスの言語学者で「近代言語学の父」と呼ばれている。

 ソシュールの有名な概念の一つに「言語論的転回」がある。

言語が現実を構成するという考え方は、言語を事物のラベルのように見なす西洋哲学の伝統や常識の主流に反していた。たとえば、ここで言う伝統的な考え方では、まず最初に、実際のいすのようなものがあると思われ、それに続いて「いす」という言葉が参照するいすという意味があると考える。しかし、「いす」と「いす」以外の言葉(「つくえ」でも何でもいい)との差異を知らなければ、私たちは、いすがいすであると認識できないだろう。以上のようにフェルディナンド・ソシュールによれば、言語の意味は音声的差異から独立しては存在しえず、意味の差異は私たちの知覚を構造化していると言う。したがって、私たちが現実に関して知ることができることすべては、言語によって条件づけられているというのである。
ある人が使用する言語表現は、完全ではないかもしれないものの、その人の思想の一つの表現であることに変わりはない。すなわち、その人が使用する言語が備える文法や語彙などの制限により、喩えれば、その人の思想の元の形に覆いを被せてしまうようなことになってしまうものの、言い換えれば、"思想が持っている形を言語という覆いでくるんだような"(conformal)状態にはなるものの、他者にも把握することができるような具体的な形状を持つことになる。
他者の思想を把握するということを導く行為は複数あるにせよ、もっとも根拠のある科学的方法として採用され、20世紀で盛んに研究されたのが、この言語の分析による方法であり、この思想分析の具体的方法論の転換を言語論的転回(linguistic turn)と呼ぶ。 
 

「言語論的転回」Wikipediaより

 少しわかりやすく書いてみる。

 私たちは例えば、「水を飲む容器」を「コップ」というように、日常的にモノにそれを指し示す言葉が1対1で対応している、と考えがちだ。
 しかし、ソシュールによれば、「コップ」はコップ以外のもの(例えば「湯呑茶碗」や「コーヒーカップ」)ではない「コップ」であるという「差異」によって、世界は構成されている、という。

 もう少し簡単な例を挙げると欧米(一部を除く)では魚は一般的に「fish」だが、日本は「鮪」「鱈」「鰻」・・・・といろいろな魚をその種類によって分けている。
 逆に日本で「肉」といえば「鶏」肉、「豚」肉、牛「肉」というように、動物の名前+肉だが、欧米ではそれぞれ「Chicken」、「Pork」、「Beef」という固有名詞がある。

 これは、それぞれの文化によって違う世界が切り分けられているのであり、神がモノに言葉を名付けたのではなくて、欧米では「fish」で足りるが、日本では「fish」の中でも「鮪」「鱈」とそれを切り分ける必要があったから、言葉が生まれたのだ。(もちろん「鮭」=「Salmon」というふうに固有な名刺をつけている例もあるが)

 


 とにかくソシュールの「差異」の概念は強烈で、近代までの「世界は言葉でいいあらわすことができる」といったような西欧のロゴス(言語)中心主義をひっくり返すような概念だった。

 大学生の自分にはかなり難しかったが、「今まで当たり前に信じてきたことが当たり前じゃない」というコペルニクス的転回にモラトリアム期の自分は非常に衝撃を受けたことを今でも覚えている。
 
 
 実生活で「差異」の概念を使うことはまずないだろう。

 
 しかし、自分の思考の組み立ての原点となっていることは確かだ。

   
 自分はあなたではないから自分なのだ。 

 あなたも自分ではないからあなたなのだ。 

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