極限の中で生き延びるためのストーリー
ロシアがウクライナに侵攻してから1ヶ月。
毎日流れてくるニュースが紛争の(これは戦争と言ってもいいのかもしれないが)悲惨さを物語っている。
(twitter https://twitter.com/nhk_news/status/1506888082565611520より引用)
特にウクライナ東部のマリウポリの被害が激しく、多くの建物が被害を受け、多くの市民が避難できずに取り残されているそうだ。
このマリウポリの現状を映像で見ると、東日本大震災の被災地を思わずにはいられない。
昨日、ウクライナのゼレンスキー大統領が日本の国会議員向けにメッセージを伝えていたが、直接的な言及はなかったものの「東日本大震災を基盤に日本人に共感を求めた」とみる識者もいる。
東日本大震災以降、僕らは有事に備えて防災用のグッズを買いそろえたり、ハザードマップをつくるなどしてきた。
だが、それはあくまでも自然災害への備えだ。
僕らは、他国から侵略されたときのことを考えてはいない。
今回のロシアのウクライナ侵攻は、自然災害とは異なる日本の有事に対して、改めて考えさせられる契機となった。
ゼレンスキー大統領は、自国民に対して「祖国を守るために、自由を守るために戦おう」と訴え、総動員令を発出した。総動員令により、18~60歳の男性は招集の可能性があるため基本的に国を離れることができない。
しかしながら、ウクライナ国民もゼレンスキー大統領の姿勢に共感し、支持率は90%を超えているという。
実際、他国から攻められたとき自分はどうするのか?
ワイドショーのコメンテーターと国際政治や紛争に詳しい学識経験者の間で、「逃げる」or「戦う」の激しいバトルが繰り広げられていた。
『逃げる』派は「太平洋戦争ではもっと早く降伏していれば犠牲者が少なかった。ウクライナも多くの国民が犠牲になる前に降伏して戦争を終わらせるべき」 といい、『戦う派』は 「いま、ウクライナが降伏することはジェノサイドのリスクを孕んでいます。太平洋戦争でも戦後すぐに国内が安定したわけではなく、そこかしこに占領軍によって蹂躙された人々がいた。そのほかの戦争でも同様のことが起きています。もしその後に“平和”が訪れるとしても、そこまでに生じる犠牲を無視することはできません。しかし、それ以上に問題なのがここで降伏することはウクライナにとって『国としての死』を意味するということです。ゼレンスキー大統領のスピーチにあった通り、彼らは自分たちの存在を賭けて『生きるか死ぬか』の瀬戸際で戦っているんです」という。
(文春オンライン「戦争の本質は文学的」「降伏はジェノサイドの危険性を孕んでいる」日本人に“降伏論者”が多いワケと見逃されている《恐るべき代償》より引用)
ウクライナは日本とは違う歴史を持った国なので、軽々しくどちらがどうだと断言することは差し控えるが、核を保有していない(であろう)ウクライナを日本と置き換えた場合、アメリカの傘に守られていれば安心という僕らの無意識が揺り動かされたのは事実である。
「日本でプーチンのような独裁者を生まれたときに憲法9条がその抑止力となる」などというお花畑のような言説をいまだに主張している政党もあるが、現実問題として仮に中国や北朝鮮などがミサイルを撃ち込んできて、戦争状態となった場合、戦争を知らない僕らは逃げるしかないのであろうか?
戦後リベラルが守ってきた平和と民主主義があったからこそ、今の僕らがるのもまた事実である。
しかし、武器を持たずに、戦わずに「世界平和」となることなどできるのであろうか?
世界が秩序を保つためには、核や武力による抑止力による緊張関係を続けるしかないのであろうか?
一つだけ言えることがあるとするなら、僕らが生き延びるためには、どんな戦禍に見舞われても、どんな状況にあっても「生きる意味をもつストーリー」が重要であるということだ。
極限状態になると人は、自分のためではなく誰かのために、何かのために頑張ることができる。
ウクライナ人が徹底抗戦するのも祖国のことを思ってからのことだし、親は命を張って子どもを守るであろう。
結果、その「利他性」のストーリーが、生きる意味を見出し、恐怖に耐えて生き続けることができる。
ウクライナまでは8000km。
時間にして15時間かかる遠い彼の地をこれから訪れることはないかもしれない。
今こうしている時間にも、いつ攻撃されるかもしれない恐怖の中、誰かのために戦い、生き延びている人々がいる。
自分は、誰かのために何ができるのだろうか?
今日も、またウクライナの報道が自分をざわつかせている。
(参考:残酷すぎる成功法則「エリック・バーガー」著 飛鳥新社)
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