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【書評】且座喫茶(いしい しんじ 著 淡交社)

11代伝蔵の書評100本勝負15本目
 小説をたくさん読んでいるわけではないけれど好きな小説家は何人かいます。
 小学生の頃は人並みに?星新一でデビュー(ファンレターを書いたら返事が来たのが自慢)。その後井上ひさし、遠藤周作、そして北杜夫の王道ラインを歩みつつ、中高生の頃は見栄を張ってドフトエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフ、ソルジェニツィンのロシア文学という迷路へ迷い込みました。もちろん?芥川龍之介、夏目漱石、森鴎外ラインも横目で見つつです。そして徒然なるときにはシャーロックホームズ、エラリークィーン、アガサクリスティーの海外推理小説を開きました。その後も一時的なブームはあるものの(谷崎潤一郎は選集を持っています)生きている作家ではいしいしんじが好きです。
「且座喫茶」(しゃざきっさ)は小説家いしいしんじの茶道に関するエッセイです。どうもいしいしんじは小説家であると同時に茶人であるようです。冒頭に説明があるように本書は茶人「いしいしんじがお客となって茶事や茶会に参加し、亭主のやりとりや茶室で感じたことを綴」っています。そして「且座喫茶」とは禅の言葉で「しばらく座ってお茶でも飲もうよ」という意味らしいです。ですから本書を手に取る時には寝転がるのではなく、座ってお茶を飲みながら読まれることをお勧めいたします。

「いしいしんじはどんな小説家」と尋ねられたら僕なら「柔らかい小説家」とこたえます。この場合の「柔らかい」とは「わかったと思って握りしめようとしても柔らかくて手応えがなく握りしめることができない」という意味です(苦笑)。
 いしいしんじの小説は「大人のおとぎ話」と評されることがあるように時に「荒唐無稽」な展開を見せます。と同時にアウトラインというか舞台設定は「もしかしたらそういうこともあるかもな」と思わせるようなリアル感があります。例えば「海と山のピアノ」という短編集の中の「ふるさと」は次のように始まります。

 わたしのふるさとはひとつところに落ち着いたことがない。二年に一度は村ぐるみでの「村うつり」がある。四国って土地だから行政からほっといてもらえるのかもしれない。

 恥ずかしながら僕は最初「村うつり」をか真に受けて読み進めていました。次の一文「四国って土地だから行政からほっといてもらえるのかもしれない。」も四国の関係者を敵に廻しそうですが、僕にとっては妙に説得力がありました(褒め言葉のつもりなんですけど)。
 このようにいしいはじめの小説はありきたりな表現ですけど現実と空想がいったり来たりします。そして読了後は「なんだか分からんけど好きだなあ、この作品」となることが多いのです。まあ、ファンならば同意できるかは置くとしても「この感じ」は分かってもらえると思います。

 ところで本書「且座喫茶」は最初彼の小説を読む時とは違う印象を持ちました。何だかとっても「まじめ」なんです、そして「真剣」なんです。別に彼の小説が「ふざけている」わけじゃないんですけど、時には荒唐無稽なこともあるので、それに比べると随分とまじめです。小説とエッセイに違いと言われればそれまでなんでしょうけど、「茶」の持つ力いしいしんじを「まじめ」にするのかもしれません。それでも最初に先生の門をくぐった時はアロハシャツにジーンズといういで立ちだったので僕らいしいしんじファンをホッとさせるんですけど。

最初は「まじめ」とやや疑問に思いながら読み進めていくと、やっぱりいつもの「いしいワールド」炸裂で、自然と「お茶の世界」に引き込まれていきました。そして自然と僕のささやかな「茶道」体験を思い出しました。幼稚園の時、今から思うと園長先生がお茶の先生で、茶道の真似事の時間がありました。美味しいお菓子を頂けるのでとっても楽しみでした。その後、30代の数年間茶道を習っていたことを思い出しました。いしいしんじと違って正座の辛さと所作の多さに負けて足が遠のいてしまいました。しかし本書を読むと「今度は続けることができるかも。また始めようかな」と思っています。気の迷いのような気もするのでこの思いは少しほっとこうと思いますが。
ただ僕にとって一番大事なことは実家の庭に木の酒樽で作った茶室があることを今までとは違った感覚で認識したことです。

年季が入ってます

冒頭の画像が茶人でもあった亡き祖母の茶室です。長年風雪に晒されていますから、実際に茶室として使用するには相当の「マネー」がかかります。しかしながら本書を読了後「あの茶室をちゃんとして免許皆伝のいしいんじにお茶を点ててもらいたい」と妄想してしまいました。「妄想で終わればいいだけど」とニヤニヤしながら呟いている自分が怖いです。



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