時間が総べる世界と生権力

生権力とは

 生権力という言葉がある。ミシェル・フーコーが提唱した概念で、「ルールに従えば殺す」という旧来の権力からもう一歩先に進み、「ルールに従う人間を作り出す」という権力の概念だ。
 私はこの概念をとても気に入っている。このnoteではこの概念に関する私なりの解説と、この生権力という概念の正しさを論じよう。
 そもそも、この生権力の力の源はどこから生み出されているのだろうか。単に人を支配するだけならば単純な暴力でも十分事足りるだろう。ならば、人の人生までも支配する支配欲だろうか? 自由と平等を望む人間を政治権力の座につけたりすれば逃れられるのだろうか?

 結論から言うと、この権力の源泉は単純な算数の論理から生み出されている。だから、自由と平等を望む人間ですらこの生権力からは決して逃れられない、それどころか会社や家庭といったミクロな領域でも十分に生権力は力を振るうのである。

協力のメリットと支配の必然

 当たり前の話をしよう。一人の人間が一秒に使える時間は一秒である。当然だ。では、二人の人間が協力すれば一秒に使える時間は何秒か。当然ながら答えは二秒である。では、三十人が協力するならば? 答えは三十秒となる。
 ふざけているように見えるだろうが、これこそがスケールメリットの本質であり、人類が群れを成す理由なのである。たった一つの作業を複数人で行うことにより、一作業に大量の時間を注ぎ込んで効率化し、一人ならば一日かかる作業を一時間で終わらせ、作業の結果を分配することで同じ結果を高速で得る。
 これにより限りある人生であっても大量の余暇を生み出し、その余暇でさらなる作業の効率化や他の作業を行うことができるようになる。そしてそれを本という形で語り継いでいけば、今まで積み上げた時間の全てが人類全体の豊かさに直結する。こうして、人類は大幅な進歩を遂げたのである。

 人類は数万年の昔からこれを行ってきた。それが大自然において勝利するための必須条件だったからだ。人類に限らず、生命の歴史とは、すなわち「時間をより効率よく使ったものが勝利するゲーム」で勝つためにはどうすべきか、という記録でもあるのだ。
 子孫を残すことを放棄した思想や民族、或いはもっと大きい視点で見た生物種が容赦なく滅びるのも、実のところこのルールにおける敗北条件を満たしているからに他ならない。

 では、何をすればより効率的に時間を使えるだろうか。これには二つのアプローチが存在する。無駄を省くことと、技量を高めることである。一般に、技量を高めるには単純にテクノロジーの進歩や個人の学習の効率化などが必要となる。これらは人を支配したからと言ってどうにかなるものではないため、権力の源泉にはなりにくい。権力の源泉となるのは無駄を省く方である。

 もっとも単純に無駄を省く方法は、情報共有の手間を省くことである。しかし人が協力するためには情報共有が必要だ。それを省くならばツーと言えばカーと答えるような強力な精神のパターン化が必要となる。ここまで言えばもう答えは一つだろう。この精神のパターン化をしたいがために、人は生権力を振るうのである。

終わりなき権力の連鎖

 この精神のパターン化には決して終わりがない。より効率の良いパターンを求める必要はあっても、パターン化自体は常に正しいからだ。そしてそれを支えているのは「単位時間あたりに使える時間の差が興亡を決める」というこの世界そのもののルールである。

 自由と平等に代表される、いわゆるリベラル思想はこの時間に対する視点から見ると「個人が自ら時間配分を最適化することを旨とするように精神をパターン化し、最適化された個人をうまく組み合わせて全体でもほぼ最適解を得る」ことで勝利する思想であると言える。
 この思想そのものは先進国を作り出すほどに強力なものだが、しかしそれでも全体最適ではない。いずれ個人は死ぬし、リベラル思想もまた最適化された個人をうまく組み合わせるのが難しいという点に弱みを抱えているからだ。

 かくして、精神のパターン化をどこまでどのように行うかという吟味は無限に続いていくのである。

ありがとうございます。