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「ザ・バットマン」〜ちょいネタバレ感想〜

「ザ・バットマン」を観てきた。そういうことだろ??

なんかいい感じの始め方が思いつかなかったので雑にスタートしたが、そういうことなのだ。「3時間はなげぇなぁ」などと言いながらも、劇場で観る機会を失ったが最後、二度と観ることはないという確信があったので観に行った。家で3時間の映画なんて観ないに決まってる。

長尺である上に、「バットマンの単独作品とかもういいよ...」という気持ちが個人的にはあって(世の中的にも相当あったと思うが)、全く期待していなかったというのが鑑賞前の正直な気持ちだ。予告編も画面が暗すぎて何が何だか分からないし、以前の数作と比べて今回の作品はどう差別化が図られているのか?という点も判然としなかった。まぁ、つまらないんでしょうな....

しかし、いざ観てみるとそんなテンションで観に行った俺、失敬!!と思わざるを得ない程に楽しんでしまった。

ハッキリ言って超面白かった。確実に今年ベストに挙げるであろう傑作である。

本作を語るうえで、まずバットマンという人物の根本について考えていきたい。バットマンことブルース・ウェインは億万長者であり、表の顔は慈善活動であったり雇用の拡大のために活躍する社会的地位のある大人である。容姿端麗で数々の女性と浮名を流すプレイボーイでもある。そんな人物が夜な夜なコウモリのコスプレをして街のチンピラたちをぶん殴っては回っている....これはあまりにおかしい。控えめに言っても狂気じみている。なぜ彼はこんなことをしているのか?その理由は明快で、そこがゴッサム・シティだからということに尽きる。虚栄と巨悪が渦巻くゴッサム・シティは、そうでもしないと持たないほどに、どうしようもない街だからだ。 

バットマンという荒唐無稽で狂気的な存在を描くには、それに応じた背景が絶対的に必要だ。何も自然主義的なリアリティのあり方だけが全てではない。その映画に適したリアリティや背景が描き込まれて、初めてキャラクターの説得力というのは生まれるものだ。バットマンのとち狂ったあり様は、ゴッサム・シティというとち狂った街との繋がり無くしては語れない。バットマンを語ることは、ゴッサムを語ることとほぼ等しいのである。

80年という長い歴史があるバットマンがそうであるように、ゴッサムもまた多様な媒体で多様な描かれて方をしてきた。とても全てはまとめきれないので映画化作品に絞って書いていくが、まずはティム・バートンが監督を務めた「バットマン」「バットマン リターンズ」の2作品。特に、その後のジョエル・シュマッカーの2作品に至るまでのゴッサムのビジュアル・イメージを決定付けたのは「リターンズ」であろう。アール・デコとロシア構成主義が混在したランドスケープは画面に圧倒的な豊かさをもたらし、巨大なセット特有のヌケ画の無さが「いずれ人を発狂させるであろうこの世のどん詰まり」とも言うべきゴッサムの閉塞感を湛えている。また、極めてセット的で誇張されたビジュアルがドイツ表現主義的な領域まで到達し、作品全体に厚みを加えているのだから驚くべきことだ。そこではバットマンも、彼の写鏡とも言うべきキャットウーマンとペンギンの2人のヴィランも皆一様に疎外され、絶望し、発狂する。

シュマッカー版の2作品は、「リターンズ」のビジュアルを継承しつつも、より多様な要素がない混ぜになったバロック的とも言える量感溢れるランドスケープを実現した。前作にあったようなゴシックな味わいの古城が映ったと思ったら、次のシーンでは途端にレトロフューチャーでアジアンな街並みが広がっている。これらのキッチュで騒がしいゴッサムの姿は、シュマッカーが志向した「怪鳥人間バットマン」ライクなポップさとマッチしており、役者陣の全力演技も相まって、物語やキャラクターに充分な説得力を持たせうる強度があった。

そして、クリストファー・ノーランの3部作である。ここではバートン&シュマッカー版とは打って変わって、モダンで自然主義的なリアリズムに基づいた街として描かれている。個人的にノーランのバットマン3部作には色々と言いたいことはあるのだが、最大の不満は正しくゴッサムの描き込み不足にある。端的に言って、狂気的な人間に狂気的な行動をさせうる「腐った街」に見えないのである。一台数億円もするというIMAXカメラで撮られた、やたらとワイドなルックは「リターンズ」の情報量に比べると、いかにもスカスカで間の抜けたものに見える。決してそれ自体がダメだと言うことではないのだが、どうしてもバットマンというキャラクターの背景としては相応しいものには思えない。別につまんなくはないのだけれども…

そして、DCUE以降のザック・スナイダーでの2作。これに関しては、ザックの性癖である「コミックのコマをそのまま映像に置き換えて観ましたよ」という上澄みをすくったような描写しかされていない。ユニバース化という巨大な計画もあったためか、ゴッサム・シティの描き込みはほぼスポイルされてしまっている。そのうえ、作品の内容もトホホ…といった感じで、このことに関してはもうあまり思い出したくはない(余計なフォローをしておくと、スナイダーカットは「ザックの映画」としては満点であった)。

しまった、前置きが長くなってしまった。ここからが本題である。今回の「ザ・バットマン」は如何にして巨悪が渦巻く退廃の街・ゴッサムを描き出したのか?今作の監督を務めたマット・リーヴスは驚くべきことに、1920年代から30年代の禁酒法時代のシカゴを思わせる大犯罪都市としてのゴッサムを現出してみせた。公権力と巨悪が手を携える邪悪なシステムとしてのゴッサム。虚飾に塗れ、権力者たちは平然と嘘をつき、街の治安などはそっちのけで私腹を肥やす。そして、貧しい庶民たちは分断される。誰も信用に値しない巨大な闇の中で、若きブルース・ウェインは迷路に迷った鼠の如く右往左往する。特に、街の実力者ファルコーネとその右腕であるペンギン周りの描写は強く30年代的な大犯罪都市を意識させられる。顔に傷を持ったペンギンはもろにアル・カポネ風味であるし、ギャングと公権力と市民が交差するラウンジは「スピークイージー」と呼ばれたもぐり酒場よろしく、汚職と賄賂の温床となっている。さらにはラウンジで働くセリーナ(キャットウーマン)のボブカットとミニスカートという出立ちは、禁酒法時代に現れた「フラッパー・ガール」を強く想起させるものだ。ちなみに、公共の場で男女が入り混じる飲酒文化も、この当時のもぐり酒場が発祥とされている。利己的な虚栄と悪徳、その割を食わされる庶民の間に生まれた分断。バットマンはこの病んだ街の闇に潜み、彼もまた暗闇から見つめ返す。それはバットマンがバットマンである背景として、この上なく相応しいものだ。

本作のバットマンは活動を始めて2年目という、設定になっている。彼はゴードン警部補からの信頼を得て、まわりの警官からは白い目で見られながらも自警活動を続けている。何度も擦り倒されたオリジンをすっ飛ばし、ちょうど良いところから映画がスタートするのがとてもいい。今作のバットマンはこれまでのバットマンと違い、大変にエモい人物造形になっている。病んだゴッサム同様に、彼も心を病み、億万長者の御曹司でありながらバカでかい屋敷に引きこもり、人前に姿を現そうとはしない。ウェイン・エンタープライズの仕事は全く行っておらず、ほとんど世捨て人の様相を呈している。素顔の彼は人と目を合わさず、常に陰鬱としており、ゴッサムの絶望に飲み込まれ壊れかけた彼の心は、脆く危ういギリギリのバランスで成り立っている。そして、ひとたびコスチュームを身に纏えば、鬼神の如き形相で犯罪者に怒りの鉄槌を下す。これはエモい。超エモい。どん詰まりの街で若きブルース・ウェインには「怒る」ことしか出来ない。この陰鬱さと烈火の如き怒りを併せ持ったエモいバットマンを、ロバート・パティンソンは見事に体現している。たしかにこれは新鮮なブルース・ウェインである。そして、その怒りは街の悪党のみならず本来守るべき市政の人々すらも恐怖させる。この時点での彼はまだヒーローではない。

「ヒーローになる前のヒーローを描く」ために本作は、フィルム・ノワールの形式を取った。ゾディアックキラーを思わせる劇場型殺人犯・リドラーから挑まれた謎解きのために夜を駆ける。大都市の孤独と心の病み、腐敗した役人、残忍なギャング、そしてファム・ファタールと本作はフィルム・ノワールの定石を丁寧になぞっていく。さらには、多くの人物や事件を迂回しながら、核心に迫っていくこの感じ。観てる側にとっては混乱をきたしやすいうえに、鈍重にも感じられる展開は正しくフィルム・ノワール的だ。追えば追うほど真実が迷宮入りしていくこの感覚が、不安定なバットマンの危うい内面とゴッサムの巨大な闇をより一層引き立てる。バットマンはヒーローというよりかは探偵として事件の解決を図る。古くより「世界最高の探偵」というあだ名があるように「探偵モノ」としてのバットマンのありようは、彼の原点であるとも言える。その意味で本作は、バットマンの人物造形自体は目新しいが、全体としては原作への原点回帰を強く志向しているのだ。

エモい男のフィルム・ノワール。幼い頃のトラウマと、邪悪な街が生んだ悲劇の主人公としてのバットマン。物語は終盤に至って、そんな彼の欺瞞を鋭く暴く。満を辞してバットマンと対峙したリドラーは彼にこんなことを言う。

「両親を殺された可哀想な孤児だが、ブルース・ウェインは親の遺産で建てられた高層ビルの上から俺らみたいな下々の者を見下ろしてるだけじゃないか」

今作のリドラーの出自はブルースと類似している。しかし、幼い頃から身寄りもなく、困窮し、社会に見捨てられ、孤独で悲惨な人生を歩んできたリドラーは偽善的な特権階級が平然と非人間的な嘘を吐き、「自分だけよければ良い」と言わんばかりの姿勢で私腹を肥やすことが許せない。ブルース・ウェインも確かに悲劇的なバックグラウンドを持った人物だ。彼自身もそれを知っている。しかし、お前は「富裕層の白人男性」という誰が見ても特権的な人物だろうが!お前が高層ビルの広い部屋で自らの特権性を自覚せず、感傷に浸っている間、俺たちが社会の底辺で何をしていたのか知ってるか?地べたを這いつくばるしかない人間のことを想像したことはあるか?それは特権階級の欺瞞そのものではないか!リドラー問いかけは、分断された現在の社会だからこそ鋭さを増す。

そこから話は馬鹿正直なほど、王道のヒーロー譚へと突き進んでいく。洪水により沈んだゴッサムの街。市民たちが今にも水に飲まれようとしている。戦闘を終えたバットマンは彼らの姿を高所から見つめている。そこで彼がどんな行動を取ったか…怒りに身を任せ、悪を叩きのめすのはヒーローの仕事ではない。弱き者に、いま困っている者に手を差し伸べ、希望を見せるのがヒーローの仕事ではないのか。暗闇から街を見返し、恐怖で敵を制するヴィジランテが、いま目の前で危険に晒されている人々のもとに文字通り「下りる」。そして、彼らの先頭を切りその手に光を携える。

本作は斬新なバットマン像を提示していながら、本質的には原点回帰であり、ヒーローという存在の基本中の基本を改めて語り直した王道の作品である。このようなモチーフは繰り返し描かれてきた自明な事柄のように思えるが、自明な事柄はそれが自明であるが故に、繰り返し描かれるべき強度がある。本作は多くの引用を連想させる作品となっているが、そのチョイスも王道極まりないと言って良いだろう。白人と黒人がタッグを組んで謎に挑むのは、まんまフィンチャーの「セブン」だし、ゾディアックキラーをモデルにしたリドラーの犯行手口も王道のハッタリだ。オープニングカットは「ダークナイト・リターンズ」や「キリング・ジョーク」といったモダン・エイジの作品群に直接的な影響を与えた「ダーティー・ハリー」の引用だろう。さらには30年代的な犯罪都市を舞台していながら、70年代ネオノワールの作品群(「チャイナタウン」「コールガール」などなど)の影響も感じさせる。もちろん「ジョーカー」と同じく「タクシー・ドライバー」もだ。「夜のダイナーに佇む都会の孤独」という何万回と擦り倒されたノーマン・ロックウェル的なモチーフも何の恥ずかしげも無く登場する。

本作は間違いなく続編への扉が開かれているだろう。個人的にはこの世界観を跋扈する奇人たちの物語の続きを観たいと思う。満を辞してヒーローとなったバットマン。果たして彼はゴッサムを変えることは出来るのか?いや、そう簡単には問屋が卸さないだろう。ゴッサム・シティの闇は我々が思っているよりも遥かに深くどす黒く、彼の足を取り続けるのだ。


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