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【スーパーネタバレ感想】「スパイダーマン:ノーウェイ・ホーム」

みなさんこんにちは。こんばんは。
2022年も既に7日が経過しているわけだが、未だに正月気分が抜け切らずボンヤリしている。なんのやる気も出ないので天井を眺めたり、昼寝したりしているうちに(それはいつもか…)、「こんなことでは駄目だ!」と思い立ちランニングをしに出かけたが、ちょっとした段差に足を取られ盛大に足首を挫いてしまった。やはり、慣れないことはするもんじゃない。まったく.......なんてそんな話をするために今日は書いているわけではないのだ!

「スパイダーマン:ノーウェイ・ホーム」を観てきたよ。そういう話である。例に漏れず今日観たばかりであり、昨今のMCUはどの角度から感想を書こうか悩むことが多い。さらに僕にとっては大変思い入れの強いスパイダーマンの映画ときてしまえば、こはいかに……といった感じである。とは言え、悩んでいても始まらない。先に結論めいたことから書いて行こうと思うが……その前に!

今回の投稿ではタイトルにあるようにバカみたいにネタバレをしていくつもりである。「ネタバレをせずに感想を書く」などという特殊な芸当は持ち合わせていないうえに、個人的にはなんでもかんでも「ネタバレだ!」と騒ぐ輩は全員死んだ方がいいと思っているので公開初日だろうが関係なく無配慮にネタバレしていく。まだ観てない良い子の皆はこの先読まないように。警告しましたよ。ここまで言ってるのにわざわざ未見で読みに来るやつは、相当なバカか文字が読めないかの2択だと思うので、もっとたくさん本とかを読んでいただきたい。それでは行ってみよう。

ざっくりと本作の結論を言うと「泣いた…すげぇ泣いた…けどめちゃくちゃモヤモヤして仕方ない」というのが率直な気持ちだ。本作はサム・ライミ版からリアルタイムで追い続けて来たファンなら(全世界に20億人ぐらいいると思うが)、咽び泣くような仕掛けがここぞとばかりに用意されている。そればかりかMCU全体のテイストを外さない爆笑ポイント、大興奮のアクション、アガらずにはいられないアレコレが山ほど詰め込まれた超娯楽大作である…ファンにとっては。「スパイダーマン:ノーウェイ・ホーム」は究極のファンムービーだ。「アベンジャーズ:エンドゲーム」にもその向きはあるが、それとは比較にならない程に「ファンに向けてのみ作られた」映画である。ありとあらゆる要素がファン心理をピンポイントで狙い撃ちし、「これを楽しめなければファンじゃない!」と言わんばかりの勢いで観客の思い入れを刺激する。ツボを押されまくったファンは射精しながら、ダラダラと涙を流す。

僕もそんなファンの端くれとして、大いに笑い、大いに泣いた。「マルチバース」という天才的なアイデアにより、超絶怒涛の勢いでカムバックするヴィランとヒーローたち。思い入れが爆発する。かつてグウェン・ステイシーを救えなかった後悔に囚われて生きてきたアンドリュー・ガーフィールド演じるピーターが、今度は高所から落下するMJを救う。トビー・マグワイア演じるピーターとオットー・オクタヴィアスの再会。そして「大きくなったなピーター」と声をかけるオットー。かつて対峙してきたヴィラン達を「救えなかった者たち」として、その善性をもって救済するスパイダーズ。そんなことをされたら泣くに決まっているのである。だって子供の時から観てきた人たちだもん!ファンだもん!

しかし!しかしである。号泣しながらも感じるこのモヤモヤの、居心地の悪さの正体は一体何なのだろうか?無い知恵を絞って考えてみると、あるポイントに突き当たる。それは各々の作品で各々描かれてきた「キャラクター」が、いつの間にか(それも非常に巧妙な手口で)本作特有の「設定」へと成り代わっているということだ。本作でカムバックしたヴィラン達は皆、それぞれ登場した作品で既に死を遂げた人物ばかりである(サンドマンだけは生き残っているが)。その救済すら既に描かれたキャラクターだっている。本来であればそこで描き切っているはずのキャラクターたち。しかし、本作でカムバックさせるにあたり過去に描かれ切ったキャラクター性は一旦剥ぎ取られ、「あの作品に登場したヴィラン」という非常に単純化された「設定」を割り振られてしまう。単なる「設定」に貶められてしまうと言ってもいいかもしれない。ハッキリ言ってそれは過去作の価値を棄損していることと同義ではなかろうか?ドクター・オクトパスは「スパイダーマン2」で死んだ。彼は背中に装着されたアームと自身の研究への執着心に囚われながらも、最後の最後で微かに残った人間としてのなけなしの良心によって自分のケツを拭く。そんな彼の過去は限りなくソフトな形で都合良く葬られてしまう。描かれたキャラクター性や物語は収奪され、「過去作に登場した人物と同一のヴィラン」といった設定だけが残る。それ故に、「複数のユニバースを部分的に統合した」本作における過去作との連続性にはどうしたって齟齬が生まれてしまう(確かにマルチバースという構造上、過去作すらも単一の時間軸には存在しないという可能性もあるが、そんなことまで観客が汲み取る必要がどこにあると言うのだろうか?)。

しかし、そんな細々としたことは何の関係もないのである!だって、君たちファンのための映画なんだから!ファンのみんなだったらそこは目を瞑ってくれるよね?といった作り手の思惑を、ファン側が最大限飲み込むことで本作は成り立っている。物凄く意地悪な言い方をすれば、今作は「単に昔のキャラをリサイクルしてきて、後付けで色々と手を加えただけ」という見方だって出来るわけだ。しかし、そんなことは作り手もファンも百も承知である。分かった上で、「ファン心理と思い入れへの刺激」という本作のストロングポイントを最大化するために、ファンは作品内のありとあらゆる欠点には目を瞑るという共犯関係。その中では、作品内の事実も観客側の現実も限りなくシームレスだ。そして、ファンの妄想は晴れてスクリーンに具現化される。キャラクターのリサイクル自体はアメコミの長い歴史において、絶えず繰り返されて来た伝統行事のようなものだ。世界観の仕切り直しだって度々行われて来た。しかも、その場凌ぎの展開や浅はかなタイアップといった、しょうもない動機に基づいてである。そういった展開を、MCUにおいて用意すること自体は「コミックの実写化」という観点からはむしろ正しいとも言える。しかし、それらは別に「ファンとの共犯関係」を指し示すものではなかったはずだ。

僕はこのような映画のあり方に何とも言えない居心地の悪さを感じてしまう。「そんな難しく考えないで、ファンなんだから素直に楽しめばいいじゃないか」と言われればその通りだし、別に楽しんでないわけじゃない。しかし、僕がいま楽しんでるものは「映画」なのか、「それ以外の何か」なのか判然としない感覚に襲われることが近年、多くなってきた。戸惑いにも近い感覚だ。それは、MCUというアートフォームの革新性そのものかもしれない。映画の枠でありながら、映画とも言い切れない「何か」。ドラマや連続活劇とも違う「何か」。そう言った意味で、マーティン・スコセッシの「マーベル作品は映画ではない、あれはアトラクションだ」という言葉が、本作におけるファンの熱狂と比例するように重みを増してきているように感じる。

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