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遺人

何か大きな功績や発見をした人を偉人と称する。


そこには多大な思考と試行があったはずだ。


あたすは思う。


偉人と呼ばれる その人達は自分が追究したモノが偶々 時代やニーズ 角度からヒットしただけなのではないかってね。


詳しくはないし知識もそれほどあるわけじゃない。


芸術や科学なんかは想像しやすいかもしれないね。


大きな要因として 人の根底にある拭えない部分と密接に繋がっていることが挙げられるんだけどね。


人っていうのは面白いもんで そのチャレンジや1つの答えを出す過程の中で それぞれの発見をする。


脈を打つ心臓と止まらない時間が機会を容赦なく与え続けるんだ。


どんな環境や境遇だとしても。


あなたとあたすは違う。


いつの時代もそうだけども 流行り廃りって あたすからすると世間や他人にコントロールされているようにしか見えないから 凄く違和感が強いんだよなぁ。


日本人に根付いている協調性や集団主義的な考え方が どうも足枷や首輪のように巻き付いて 個人性を創っていくことを邪魔している。


違うから面白い。


違うから捉え方が広がる。


違うから互いを知る中で言葉を交わす。


仮に全く同じなのだとしたら お互いに違和感や擦れ違いが起きないのだから わざわざ話さないよな。


考えている事の方向性が似ているのか離れているのか。


完全に把握をする為じゃなくて 確認をしたいから言葉や声があるとしか辿り着かないんだよね。


年齢の浅い人達が個性を持ちたいと願いながらも いわゆる量産型と呼ばれるファッションやメイクを結局選んでしまう。


同調圧力や流行りが本心や本音を封じ込めて 本人の表現にブレーキを踏ませているのが世間や社会。


世間は相変わらず流れを行くだろうけど 自分にも他人にもペースやベースがあるんだから歩幅を合わせる義理なんてないからさ。


私事になるし解ってほしいとか微塵も期待もしないことなんだけどね。


学校での好きな授業って『国語 道徳 音楽』だったんだよね。


この年になってから改めて思い返してみると この3科目に惹かれた理由が深く突き刺さるのよな。


誰だって伝えたい想いや願いがある。


その方法は人の数だけある。


だからといって数学や理科が好きな人を嫌いになるかと言われれば むしろ知らないことばかりで面白いから好きなんだ。


だからね。


まずは自分と隣のクラスメイトは全く違う存在だということ。


自分が否定されると認められていないと感じるように 誰かも否定されたら悲しいんじゃないかっていう想像力。


学力を培う前に心力を育てていてほしいんだ。


そうすると真っ直ぐ樹木が空を目指す。


逆にすると伸びるは伸びるんだけど どうも真っ直ぐは伸びないみたいなんだよな。


これもまた人それぞれだから楽しいわけでさ。


直立不動だと尊厳はあれど ツッコミどころが少なくて取っ付きにくそうだね。


それが集中に繋がる側面もあるしなぁ。


真っ直ぐ伸びれば偉人になれるだろうね。


偉人の『偉』ってエラいらしい。


上から目線な気がして そんなつもりじゃなくても映し方が下手だよな。


素直に評価されればより一層 伝導率上がったのになんてなりそうでさ。


あたすが勝手になってほしいのは『偉人』じゃなくて『遺人』なんだけどね。


『遺す人』にならもう あなたとあたすもなれているし これからも遺せるだろうからさ。


しかも偉そうじゃないでしょ?


あなたがあたすとの違いを感じるように。


思ったことを口にした時された時 その人の心力は剥き出しになる。


聞きたくないと耳を閉ざすか。


それが自分とは掛け離れた考えだとしても 一度 受け止めるか。


受け止めた上で 自分の本音に心を宿し伝えるか。


正直 どんな反応を示したとしても あなたにしか伝えられない経験や想いがあるのだ。


あたすがこうして書き記しているようにね。


みんなで遺していきましょう。


後悔を残すよりは 何かを遺したと感じた方が命も気楽だよ。

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