試行と上演の差

冷静になってきたので、おわれる、の振り返りです


意味と輪郭、平面と立体

こんなことを考えながら頑張ってたんですけど
結果を言うと、言葉とイメージを単語によってはある程度固定化させながら上演にもっていきました、ぐぬぬ
意味ではなくイメージっていうのは、ぎりぎりなラインだな、、、

完全に敗北、、て感じなのが、言い方を決めたところがあって(全部ではない!数か所!)
声をここに落とそう、はぎりOKな気もしたけど(それはもう誰に言ってるのかってことだし)
ここはノッキングさせよう、とか、息を吸って止めてから言おう、とか、台詞の吐き方まで(見え方まで)決めてしまったのは、くやしいな
言い方を決めるのは、そこに至るプロセスを簡単に省略できる力も持っているので、私は出来るだけそうしないように注意しているのだけど
今回は、使ってしまった、、、
言い方を決めるといっても、稽古の蓄積や、体感にある統計から決めていったことではあるので、とってつけたわけではないのですが、
でも体感は個人的な手応え(それは実際の演技の良さとは関係ない)に依存しているところもあるので、ちょっと、何とも言えない、、、

前提を言うと、私個人はですが、同じ演技を繰り返すことができません
いや、見た目同じように繰り返すことは、おそらくそこに神経割きまくればできると思うのですが
(というか過去そのようにして真面目に同じことを繰り返せるように稽古などしていました、それはクオリティを担保する方法になり得たので)
そこ以外に神経が割けない、すなわち、あるはずのコミュニケーションや衝撃が見過ごされ損なわれるってことで、、、
え、演劇で見たいのそこじゃない?と思ってから、再現性はある程度台詞やミザンスが担保してくれるということにして、
同じように繰り返すことより、舞台上のあらゆることを優先させた演技を指向するようになりました

話を戻して、
じゃあなぜ、言葉のイメージを固定化させたり、言い方や扱い方を決めた箇所をつくったかということなんですが
ちょっと驚くほど、客観性が失われてしまったからで、これではクオリティを担保できないと判断したからです
なぜ客観性が失われてしまったのかは、ちょっとまだ原因が分からないのですが
おそらく、言葉と対峙することにエネルギー使いすぎてしまって、私のキャパシティでは他のことを受け取る余裕がなくなってしまったのかな、と思います

今回言葉は私の外にあるものとして作っていたので、一応開いている状態、内省的にはなっていなかった、はずなのですが、(私の場合内省的になると外界の情報を拾いづらくなります、)

にもかかわらず舞台上の情報を全然拾えず、それは相手役の情報もおそらくそうなのですが、なによりも舞台の時間の流れかたとか、客席を含めた空間とかが掴めなくなってしまいました
テンポ遅いなと思っていても実際はすごく早かったり(と共演者も演出家も言ってた)、客席の集中力が高いのか散漫なのかもわからなくなり、

つまるところ、舞台上の自分の判断(とそれに伴う振る舞い)に自信が持てなくなってしまって、だから私の統計の良いもの(実際のよさとは関係ない)を頼りに、ポイントポイントで決めている方法を取って、ぶれないように対策を取った、という経緯です

ただ、演出の小野さん曰く私の演技は稽古時からそんなにぶれていないらしく、でも私の中ではぶれがすさまじいというギャップがあり、つまりは己の安心を取った方法とも言えます

ださい、、、

そして読み直すとあれだな、言葉への執着がありありと出ているので、やはり他のことをする余裕がなかったんだろうな、
視野が、、狭い、、、

稽古するのと観客を前にした上演は、全然違うものだなと、改めて

上演まで一貫させるのは難しかったのですが、でも試したいことに沿って稽古できたという点では、目標に沿って実行できたという点では、良かったです。
(前回記事の言葉でいうと)おそらく平面にはならなかったと思うし、どこまで立体になったかはあれだな、稽古中に立ち上げたものがあって、上演時は日和ったため少しプレスした(押し固めた)感じになったのかなと推測します
というかそもそも、こんな決まり切らない状況で人前に立つのがおかしいんだろうか、目標の設定ミス、、、?
と一瞬思ったけど、ふつうに実力不足なんだな、、、引き続き試していきたいことだな、、、今興味あることだし、、、

振り返ってみると、今回の戯曲は、具体的なことには言及していなかったので、言葉から受ける広がりがすごくて、だからそれをやってみたかったのかな、と思います、
ひとりの被害者の話ではなく、あらゆる人や魂の話だとも思っていたので、それをやりたかったのだともいえる
そうなってたかは、観てくださったかたにお委せします、、

精進精進~

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