ナイトドミナントふりかえり


■演技の組み立てのこと



すでに上演された作品(かつ、かなり稽古場で見ていたもの)を、改めて上演するのは難しい、、というのがスタートでした
というのも、WIPでは制作補佐だったのですが、稽古場オタクなのでかなり通っていまして、
どうしても台詞をWIPの演者さんの音で覚えてしまっていて、それと連動させてセリフを発している感じになってしまい、そこから脱するところから始めることにしました

自分ならどうそのセリフを発語するのか?というのを確認するところからというか

あと、得地さんのセリフはかなり文章っぽい、というか、口語らしくないので
それを俳優の生理で話すよりは、書かれているもの、決められていることを読む、というか起こる運命として語る、みたいなイメージがあって
それはお布団劇団員の緒沢さんの演技のイメージに依るところが大きいのですが、
言葉と身体が分離している、言葉を発するために体があるイメージ・発声される音が軽い・ドライ・生理で話すのではなく予定されているから発する、みたいな
なので、わたしはこの役でこのセリフ言います、というスタンスがまず私の中で前提としてありました
あと去年のムニ年末の小野さんの新作に引き続き、やはり言葉とその距離感というのは私の中でアツいテーマなので今回もそれをやろうという作戦でもあったわけです。

戯曲にはじつはちょっと変更プロセスがありまして
稽古中に、「台詞を直す」ワークをして、
(今回は「病」でテーマのプロジェクトだったので、「治る/治す」「直る・直す」みたいのもモチーフとしてずっとありました)
それは得地さんの台本を、割り当てられた役の人が、それぞれのキャラクターの登場シーンを言いやすいように書き換える、というものでした
でもなんというか、私的にはそれは全然直ってない、というか、良くなってなくて、
やはり得地さんの文体が好きだし、そこが魅力だから、私が(俳優が)言いやすいことが良しとされる?直っている状態とされる?みたいのはピンと来なくて
逆に作品としては不健全?不健康?みたいなイメージもあったり
得地さんにもそのことを伝えたし、得地さんとしては直されるという体験、俳優に直すという体験をしてほしかったという一貫でのワークだったということで
その直したのをさらに得地さんが直して、上演台本にいたりました。そのことで今回はキャラクター同士のダイアログに、かなり俳優の喋り方や人称の使い方が反映されました(それも面白かった)

で、このときに気づけたら良かったのですが、今考えると、キャラクターに各俳優の口語の調子が入っていたあたりから、少し生理というか、対話する中でのグルーヴ感?ももっと作戦だてて稽古するべきだった、、、という反省もあり

というのも今回はかなり設定が凝ってるストーリーや展開があって、さらに「病」をテーマにしているので各キャラクターのポジション(健康なのか、病気なのか、治っているのか、等々)とかも明確に見えている方が、キャラクターやその価値観が分かりやすくなり、お客さん的にはよりエンタメとして楽しめるよなっていうのに、劇場入ってから気づいて
展開が早いので客を置いてかないためにもテンションも含めてわかりやすいダイアログ(関係性とか、ある話題をどう思っているのかとか)を目指すのが吉だったな、とかなり遅くになって気づいたのは反省点です

気付かないうちに、最初に想定していた演技のイメージをゴールにしてしまった、プラス、音や節が先行しないようにするので結構気を取られてしまい
劇場稽古後からめっちゃ軌道修正したけど、対話のことはいままでの見地でやったので、何かを試せたとかはなかったな、、、ダイアログを積み上げていくのに必死だった感じ

木を見て森を見ず、、、もっといろんなところにアンテナを張るぞ、次の目標

そういえば、ラストのハムレットとレアティーズのやりとりはお互いまじで分かり合えない(というか引き受けられない)シーンだったから、
あそこにつながるようにもっと演技のベースとしてコミュニケーションを大事にする?というか、なんとかコミュニケートしようとしてたほうが(自分のスタンスからの意思表示?それを受け止めてもらえるようにというアプローチ?があったほうが)アツかったな、と今更になって気づいたり


メモ
台詞を「出す・発する・話す・喋る・扱う」とか、続く動詞がいくつかあると思うけど、そのことに自覚的になった方がいいかも
今回は発することに重きを置きすぎちゃった感じ。喋るとか、普通に楽しんでいこう

メモ
前回からやはり本番の自分があまり俯瞰できない、これはダイアログができているかどうかにも関連するような気もしてきた、もっと対話に重点置けば見えてくるようになるのだろうか




■病とキャラクター



2年のプロジェクトで「病」「治る/治す」「望まない/望まれない性質」などなど、テーマについていろいろ考えたけど、一体演技に乗ったんだろうか、
今回私はオフィーリアで、健康な人、という立ち位置だったんですが
WIPの時のオフィーリアを演じた大関さん(今回はホレイショーを演じていました)が、健康な人をやるって難しい、いってて、
やってみると確かに、、、逆にプレッシャーがあるというか

今回の作品では病を戯画化したキャラクターという設定があったので、健康な人が少なかったのですが、
病気の人がいることによって健康(健常)とみなされるひとが相対化される感じもしたし、
ケアをする側の人間(病院が舞台だった)という立場から、病気の人(患者)への接し方みたいなことも考えたり

健康な人からすると、やはり健康であることはいいことだし、治るのが良いと信じられている、みたいな、健康な人側の信念、というか
それはマジョリティ側の信念でもあると思うんだけど
健康かどうかを測っているのが仮に社会なのだとしたら、その健康の概念によって病気の人をつくるのも社会だし、健康とされる人をつくるのも社会だし、それって少数派の人を多数派の世界に適用できるように矯正することなのか?とか
ある意味オフィーリアはマジョリティで、管理する側で、矯正する側で、、、みたいな
オフィーリア自身は元気だし善人なんだけど、そういう揺るがなさみたいなものは意識しました
あと偏見も平気で持ってる感じとか、(「王子は(繊細だから>病気だから)創作とか向いてそう」)、してあげるという目線とか(「狩りでも誘ってあげたら?」)

マジョリティ側だからこそマイノリティ側を助けよう、みたいなのが、微妙に偏見や立場を補強している感じもしたのですが、そのこと自体オフィーリアには見えていない、何故ならマジョリティだから、
だけど絶対に悪い奴には見えたくないし、なんならほんとに善人なので、そこは好かれるキャラクターにしたいみたいな気持ちでした。

健康な人(ケアする側の人)が病気の人(患者)にどう接するのか、とか、どれくらい身体的に近寄ることが可能なのか、とかも気にしてました
今回オフィーリアの主な患者はハムレットだったわけだけど、事故によって後天的に障害を抱えた兄(でもちゃんと薬を飲んで社会に適応し働いている)や、上司のホレイショー(ケアをする側の人間)が実は障害を持っていた(というかつくられた人間であり自分とは違った)という反転が後半にあったり、結構いろんなタイプの「病気の人」と接していて
それにグラデーションが出せたかは分からないのですが、かなり面白かったです
もっと早く、ダイアログについて指針が出せていたら、、、!もっとそこも取り組みたかったぞ自分、、、!

あと、物語後半でみんな南の街(リスク保持者とみなされたものが集められた区画)に移送されるのですが
そこでも健康な人って健康にふるまうんだろうな、とか
逆に、リスク保持者たちが集まる街に行くことで、やっとオフィーリアも「私は健康だ」と意識せざるを得なくなるというか
より健康な者としてみんなを励まそう、みんなの役に立とうみたいな気概が増す気がする
それこそ、わたしが健康な人を演じるプレッシャーに似たものをオフィーリアも感じるかも、とか

最後の一転してオフィーリアが患者になっているところで、
「自分のことを健康だと思ったことないんです」というのは、逆に今まで健康だった証(患者になることで初めて自分を不健康と定義する?)ともとれるし、実は健康に見えていたオフィーリアも病気を抱えていたかもしれない?(健康なつもりで働きすぎて急に動けなくなる人もいるみたいな)とも取れるなと思っていて
ポジション的には健康な人としてオフィーリアを演じていたので、かなり前者よりになったとは思うのですが、いろいろ受け取る人によって違ったらいいな、とかも思っています

メモ
参考図書、少ないですが 
リハビリの夜 熊谷 晋一郎 著(医学書院/2009)
居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 東畑開人 著(医学書院/2019)
病いの哲学 小泉義之 著 (筑摩書房/2006)

テーマからキャラクターを考えるの、面白かったので、これからもやっていきたい


■役を兼ねる


今回オフィーリアとかねて幽霊も演じていたのですが
得地さんの意図としては、本来のハムレットなら狂って死んでしまうはずのオフィーリアが、健康な人物として描かれていて、その俳優が死んだ人(幽霊)も演じたら面白いのではないか、という直感があって、オフィーリアの俳優が幽霊も演じています(前回のWIPでもそうでした)

幽霊はもう現世にしがらみがないので、楽しそうにしててください、みたいなオファーが最初にあって、すごく腑に落ちて
というか、死んだ人がどうせ見えるのなら元気で楽しそうにしていてほしいよねという個人的な願望もあり、
幽霊はかなり無責任に、役というよりは、(ニコニコしているという皮は被っていたのですが)俳優自身が紛れ込んでみんなの演技を見に来ている、みたいな居方を試していました
あと、かなりどこに向かって声を出しているのか分からない感じ?ハムレットと話しているようで話していない感じになりました(これはオフィーリアと区別をつけようと半分無意識にしていた節もある)



■声を大きくしてください


声を大きくしてほしい、というのは、劇場入りするとよく言われるのですが、
私の体感だと、今回の場合劇場が要請する声の大きさよりも大きい声が必要みたいで、それはたぶん、作品世界が要請する声の大きさだったのかもしれない。

とにかく、全体的にもっと大きな声を出さなくてはいけない、そういうオーダーがあったので
しかし私はこれがほんとに苦手

声のボリュームを底上げすればいいだけなのだけど、そうしようとすると私の場合相手役との距離感が分からなくなってしまい、声が大きくてもどこにも届いていないのでは?みたいな現象が起きる
あと、細やかにやってたつもりの所が、声を大きくすることによってつぶれてしまい、声の大きさに回収されていくのを感じる、

わたしはずっと演劇をやってる割になぜか発声があまり身についてない気がしていて、
発声練習だけならできるのだけど話す時にはうまく使えないというか
だから、大きい声にしてくださいっていうのは、私からするとかなりそこにエネルギーが割かれるので、演技してる最中にそこに気が割かれるのがつらい
(だからみんな発声方法を身に着けているのか、、、!すごい、、、!)

高橋さん(ハムレットを演じていました)への演出で、「細かいことまでやってくれてると思うので、それをもっと客席にも見える形で(大きくして)やってほしい」という得地さんからのオーダーがあったのですが
それを高橋さんが次の時にはやってて、大変尊敬しました、、、
表現をつぶさずに、サイズを上げる、ということは出来るんだな、、、
というか、声を大きくする、ていうのは、演技のサイズを上げる、ということも付随するのかもしれないと初めて気づいた、、

で、出来るんだな、、、までは分かったのだけど、わたしはそのへんまだまだ未熟でした、、、
おそらく、声量を上げる以外に、アウトプットを大きくする、という作業が必要で、
それは身振りであったり表情であったり、動きの緩急であったり、音の高低のつけ方、なのだとやっと見て取れたのですが
そこまででした、、、一つ一つ作業しないと私は大きくしてくださいというオーダーに対応できなさそう、、、
苦手なことも出来るようになりたい、、、
大きな表現って、私がスカしているせいで心の中でどこかまだ抵抗があるのかもしれない、でも絶対にできたほうがいい、、、
絶対にできたほうがいい、、、までは思えた回でした、これも成長、、、



なんかトピックごとにバラバラなうえすごく雑感ですが(演技メモのつもりだったけどただの感想になった)
ふりかえりでしたー

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