寿司ペロ論 資本とマテリアリティ


https://twitter.com/coolpoko_ono/status/1671813160435843072?s=20

https://www.j-cast.com/2023/02/01455253.html?p=all

さて、ここに二本の記事がある。いずれも、回転ずしというワードがある種の特異性を帯びている昨今に登場した記事である。片方はクールポコという、ブームが過ぎたもののその餅を搗きながら悪態をつくという独特な芸風から正月番組でたまに地上波に姿を見せる、20代後半以上しか知らないであろう芸人と、かたや60万人程度が登録する、いわゆるインフルエンサーのyoutuber(筆者はこれで初めて知った)が、それぞれ回転ずしのボックス席で上半身裸(に近い恰好)をしたという記事(と、tweet)である。

いずれも数十万人以上の耳目に触れたようであるが、これらに対する人々の反応は大きく違う。前者に対しては、その面白おかしさを笑う人が多く、後者については非難が多かったという。さて、彼らがなぜその動画(画像)を挙げたのかといえば、程度の差はあれ、現在世間をにぎわせる高校生が、回転ずしにて醤油さしをなめ、その様子を動画に収め、それが拡散された事件に起因するものであったと思う。いずれも、回転ずしのボックス席で上裸になるという同一の行為を行いながらなぜ、このような反応差があったのか。

高校生の件(以降、下品なワードながら、世間一般に倣い、すしペロと呼称する)が、そもそもなぜあれだけ炎上したのかについてを手掛かりに考えたい。そもそも寿司ペロは、マテリアリティを現前させたところにその炎上原因があったと思う。寿司は、そもそもマテリアリティを現前させた料理だろう。寿司(回転寿司でない)で有名な数寄屋橋じろうのように、そこに来た客と店主のコミュニケーション、さらには店主の技量、こだわりは、すしを単なる料理から、マテリアリティを伴った何か高尚な、文化的存在に昇華させる。そのために次郎は真夏であろうが手袋をつけて体温を維持し、客を厳選し、そのクオリティを保とうとする。彼らはコメや魚をべたべたとさわり、加工する。常に物質とのふれあい、さらには客とのふれういを前面化することで、すしには付加価値が付き、それは高級料理として扱われる。対して、なぜ回転ずしが庶民に普及したかといえば、それはすしにおけるマテリアリティを徹底的に消失させ、回らない寿司においてその構成部分のち、元来主たるものと言えない「食事」部分を前面化させることで、値段を落とし、一般市民でも消費可能な次元のものとした点が、理由として挙げられよう。回転ずしのコメは、職人の指圧をもとにそれを再現する機械によって握られる。魚はその舌ざわりや食べやすさをもとに加工され、コメの上に載せられる。回転ずしでも人間は寿司を加工するが、それはあくまで機械の補助であり、彼らが次郎のように客と会話することもない。当然、回転ずしでは客が数万円を出したり、それを食べるために高尚な格好をする必要もないのである。

回らないすしを食べることが包括する、コミュニケーションや、調理過程のマテリアリティを消去し、寿司の食事としての性質を全面化する。さらに言えば、回転ずしにおいてはそもそも調理者と運ばれる寿司にも乖離がある。回らない寿司屋ではカウンターで握られた寿司が客の前に、調理者の手で直接運搬される。また、注文も口頭で行われる。すなわち注文→調理→食事の流れは一連のコミュニケーションであり、であるから調理者は時に消費者の注文過程にまで口を出すことが許される。一方で、この流れは、回転ずしでは徹底して機械化される。注文者はタッチパネルで注文し、特にトレーニングを積んでいない人間が、機械の補助として調理したすし(ここでは、製品に近い)をベルトコンベアに乗せる。ここで流れたものを消費者はキャッチアップし、口に運ぶ。この流れは匿名の下であり、そのためどれだけ消費者が下品な食べ合わせをしようが、下品な恰好であろうが、酒をむやみに注文し、酔っぱらっていようが、それらは匿名であり、非難のされようがないのである。

また、席についても、すし屋はカウンターが並べられ客がフラットである。そして調理者と向き合うことで食事は行われる。一方で回転ずしはベルトコンベアを取り囲むようにして、ボックス席が配置される。よこの席にどのような人間が座っているかはわかりようがない。

如上の通り、回転寿司はその匿名性を維持し、そして調理におけるマテリアリティを消去している結果、”どのようなこともできる”。事実として、仮に高校生が醤油さしをなめる様を、そもそも撮影せず、撮影したとしても、(当初彼らがやっていた通り)せいぜい仲間内での共有にとどめておけば、それが明らかになることはなかった。

寿司ペロという行為は、この匿名性と、マテリアリティのなさによる潔癖性によりブランディングが保たれていた回転ずしの庶民性を、揺るがせたのではないか。べたべたと米を触ることもなく、包丁で肉塊を切ることなく、あたかも初めからその形状であるかのように加工された製品が、ベルトコンベアにより流され、流れ作業で消費できていた、”製品”の構成物に対して、粘膜という、職人の手以上になまめかしい、マテリアルが触れた。元来、このような事態が起きる可能性はあったわけであるが、それは無視されており、それを動画という形で、前景化させたのだ。

もう一つ、それを行った行為者についても無視できない。これを行ったのは、匿名な、一般人の高校生であった。彼はその見た目は金髪であり、お世辞にもお上品ではない格好の高校生である。いわゆる田舎のヤンキーであろう彼は、おそらく悪乗りにより、この行為をしたのだ。

この高校生は、資本ではない。例えばテレビタレントのように、照明によって毛穴や鼻などの粘膜を、プロの化粧やフォトショップにより加工され、消去されたタレントは、資本である。かれらの表象はテレビやメディアにより流通する。彼らは資本になる。かれらの表彰における粘膜のなさは、マテリアリティのなさを支える。そして、かれらの画像は日常に浸透することで、消費の対象となる。誰が彼らの画像を対象に、疑似恋愛や自慰行為や、話しかけなど行ったとて、それは(隠匿する限り)タレント本人の耳目に及ぶことはない。すなわち、その消費について匿名性があるのである。

資本にはこのように、匿名性がない。だからこそ、彼らの行為もまた匿名性を帯びるのである。一方で、田舎のヤンキーに匿名性はない。例えば、直接的にヤンキーを見たことがなくとも、身近な”荒い人間”や”電車で見たちょっとやばい人”などの、良くない人間のイメージを人々はもともと持っており、それを高校生に投影できる。この意味で彼には固有性があるのである。すなわち、すしペロの高校生は、固有性をもち、その粘膜というマテリアリティを持ってして製品に接触することで、回転ずしの空間の、清潔性をも破壊したのである。

回転ずしの横の席には、電車で見たやばい人や、田舎のヤンキーがいたかもしれない。いや、自身が今座っている席を、以前に利用していたのは、彼らかもしれない。そのような恐怖を呼び起こしたのが寿司ペロであったのかもしれない。

冒頭の事件に戻ろう。クールポコは、この意味において資本である。彼らはテレビに登場し、体毛や男臭いマテリアルを前景化しつつも、それ自体が資本となる。彼らの行為は匿名性を帯び、マテリアリティを消去する。事実として、彼らが搗き、べたべたと触った餅に対して不快感を抱くだろうか。おそらく、抱かない人のほうが多いであろう。彼らは明らかに資本となる。

https://twitter.com/Casabuuu/status/1671816271418253312?s=20

これはクールポコについたリプライの中で、現状最も上に表示され、2万人がlikeマークを押し、”良い”と評するものである。これは、ただクールポコの上裸の男を、先ほどの画像から切り抜き、拡大して張ったコラージュ画像である。この画像自体の評価はしないが、これはクールポコに資本としての性質があり、加工を行える対象であるということではないか。

事実として、このリプライ群の中にはこれを基としたコラージュがいくつかついている。その中に、クールポコの画像を切り抜き、彼らとおそらく全く関係ない芸能人の不倫画像にコラージュしているものも見受けられる。クールポコは資本であり、匿名性をもち、マテリアリティを持たないから、彼らと全く関係ない場所に配置できるのである。

一方で、youtuberについては、程度の差はあれ、まだ資本ではない。せいぜい60万人が知る程度であり、彼らは多くの人にとって一般人であり、その在り方は田舎のヤンキーと変わらない。一般人としての固有性を持つのである。

youtuberの動画にコメントとして、以下のようなものがあるという

「まあこれくらいなら全然いいっしょw 炎上ではない おもろさが勝つw」

「これでも叩かれるんや 世知辛い世の中やな笑」

面白さがかつというのは、彼らの行為が資本のものであるということである。資本として、彼らが提供する面白さのほうが、また彼らが上裸になるというギャグ(資本)のほうが、回転ずしの清潔性と同一化したのである。

事実、このyoutuberたちは資本化しつつあるのだろう。かれらが動画内で延べたというのが、アパレルブランドとのコラボであることからも、それはその固有性を離れ匿名性をてにしかかっていることの証左になる。

さらに言えば、彼らのチャンネルのサムネイルのいくつかを見る限り、かれらの上裸は定期的にネタとして出されており、資本の構成物の一環であるようである。

ところで、この動画において、youtuberらは寿司ぺろに伴い、回転をやめた回転ずしに対して以下のように述べたという

「なんとね、回ってません。俺はこうなると思ってたよ。回転寿司は無くならないけど、回んなくなる」

回転ずしはその回転をやめる。それは、その潔癖性を崩されたからこそ、"回れなくなる"のである。

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