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2024/7/23(火)の宿題:バカ舌と外側のコーヒー

 『今日の宿題』(Rethink Books編、NUMABOOKS)に毎日取り組んでみる3日目。

 菅野康晴さんからの出題(要約)

同じ味のコーヒーを好きな器でのむときとそうでもない器でのむとき、なにがかわるか。コーヒー→本 器→装丁 におきかえたときは?

※出題全文は素敵な言葉で書かれているので『今日の宿題』で読んでほしいです。

 コーヒーの味は、よくわかっていないと思う。コーヒーは好きだししょっちゅう飲むけれど、正直な話、おいしい泥水だと思うときがある(バカ舌人間の目も当てられない感想なので各方面に謝らなければいけない。ほんとうにすみません。これをパートナーに話して以来、パートナーはコーヒーを飲むときに一瞬「泥水って言ってたな……」と思い出すようになったらしい。これも申し訳ない。そしてこれを読んでくださったあなたもそうかもしれない。重ね重ねすみません)。
 このような有様なので、私は他の人よりコーヒーを「器」や「空間」で飲んでいると思う。
 毎週のように通っている喫茶は、灯りが極限まで絞られた店内で、私語禁止、コーヒーを淹れる音とアンビエントミュージックだけが聴こえる店だ。コーヒーは深煎りだけ。素朴な手作り土器みたいな器で出てくるのがまた良い。まるくてすこしごつごつした飲み口。暗い空間で真っ暗な飲み物を啜るのってかなり落ち着くのでやってみてほしい。
 いつもの器で、あの空間で飲まなければ、私はあの店のコーヒーの味はわからないかもしれない。

 本はどうだろうか。これもまた「装丁」で読んでいる気がする。多分それだけじゃない。「タイトル」もとても重要だ。本屋で見かけて、装丁とタイトルの良さで購入する本はいくつもある。高瀬隼子さんの『水たまりで息をする』の単行本は装丁もタイトルも素敵すぎて手に取った。それ以来高瀬さんの作品は大好きで、刊行されたものはすべて持っている。
『水たまりで息をする』のタイトルが違ったら、装丁が違ったら、手に取っていなかったかもしれない。そしたら高瀬さんの作品に出合うのはもっと遅れていたはず。

 コーヒーを器と空間で飲み、本を装丁とタイトルで選んでいるなら、中身が違ってもわからないし、中身の良さを味わっていないということになるだろうか?
 できればそうは考えたくない。
 コーヒーも本も、器がなければ飲めないし読めない。
 それなら、コーヒーはその液体だけが本体なんじゃなくて、器も構成要素として、つまり外側のコーヒーと考えることはできませんか? コーヒーを飲む空間それ自体も、一番外側のコーヒーと言えませんか?
 本はもっとイメージしやすい。タイトルも装丁も、紛れもなく本の構成要素だから。作者が誰かというのも、本から切り離せない構成要素だ。それだけじゃなくって、それを読んでいたときの環境とか、自分の状況とか、そういったものすべてを含んで大きな本とも言えそうじゃないですか?

 自分には中身を見極める力なんかないと思う。外側の構成要素も全部含めて、良いとか悪いとか好きとか嫌いとか判断している。だけどそれって誰でもそうなんじゃないか? 中身だけを正確に味わえる人はいるのでしょうか。

 今日は大胆なことを言っている。毎日調子が違っておもしろい。




 noteの作法がわからなくて勘でやっている。人の文章を読むのは楽しい。


(菅野康晴さんについて)
『生活工芸と古道具坂田』という書籍が面白そうなので読みたい。このペースで行くと、読みたい本が毎日増えることになる。それはとても幸せなことだなあ。
 先日、コーヒーを飲むために古道具屋でカップアンドソーサーを2組購入した。眺めているだけで素敵な、満足のいく外側のコーヒーを買えたといえる。


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