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「生娘のシャブ漬け丼」を食べるには牙が要る

「今の若者には牙が無い。」「牙が抜けている。」
それらの言葉に対する言葉として
「いや、牙を抜かれたんですよ、貴方たちに。」
今度はそれに対し
「いやいや……。」「それは違うよね。」
苦笑い、一笑に付す……そんな反応を示す。
いや、貴方たちのせいだ、それは違う……
と、しばしそのやりとりが繰り広げられたスタジオ、4/29放送の朝まで生テレビでの一場面である。
 
これより少し前、ある出来事が起きた。
「生娘をシャブ漬け戦略」である。
 
私は牙が有るだの無いだの、そんな議論はくだらないものだろうと思っている。牙の無い生き物なんて、この地球上にいくらでもいるのだから。食べるのに必要な歯は有っても、獲物を捕らえる牙、犬歯というものを持たない生物は、それを有するものと同じか、それ以上に存在しているのではないだろうか。
そして、そういったものたちが、牙有るものたちに一方的に狩られているのかというと、決してそんなことはない。
その脚で駆け逃げるだけでなく、時には強烈な一撃を見舞うこともあれば、駆ける勢いで突進していくいことも、しばしばある。
牙は無くとも角は有るぞ、と、その角を振り回し、突き刺し、投げ飛ばすもの。
あるいは、角も無くとも、ただその巨体をもってして一撃のもとに吹き飛ばしてしまう、己の身体そのものが武器のものもいる。
逆に、分厚い皮フや甲を持つ、或いは鋭いトゲや毒を持ち、「守り」に重きを置くものだっている。
 
生存戦略はそれぞれだ。
 
シロナガスクジラ、地球上で最大とされるこのホ乳類を、海洋の生態系の頂点に君臨するシャチが襲う映像を観たことがあるだろうか。
巨体とはいえ、シロナガスクジラはたった一頭、キラーホエールとも呼ばれるシャチが、それも群れで襲うとなれば、あっさりと決着はつくだろう、と思っていた。
でも、そうではなかった。
シャチはいわゆるハクジラ、その口には鋭い歯が並んでいる。
対するシロナガスクジラはヒゲクジラ、オキアミ等をこして食べるのに適したクジラヒゲが口の中に生えている。
「牙が有る方が絶対有利だろう。全員で襲って、あっ、という間に狩りは終わるんだ。」
映像を見始めたときは、そう考えていた。
しかし、シャチは群れで取り囲み、追い回しはするものの、勢いよく襲っていくことはしない。しばらくすると、徐々に、徐々に、体当たりを重ね、少しずつ弱らせていく。そして、海生ホ乳類に必要な「息継ぎ」つまり呼吸をさせまいと、白鯨の上へ次次に圧し掛かってゆく。
やがて、白い巨体の動きはどんどんと鈍り、ついにはゆっくりと沈みはじめる。
後を追う様にシャチたちが潜ると、辺りの海面が赤く染まりだすのであった。
 
私は悟った。
 
ハクジラかヒゲクジラか。牙が有るか無いかではない。
自分と相手を比較し、そうしてどう立ち回っていくのか、それを勝負が決まる瞬間まで繰り返し、続ける。
勝負というのは、そうやって決まっていくのだ、きっと。
 
あの巨体、最初からぶつかっていっても、当たり負けするか、逆に自身が尾ビレの強烈な一撃を受けてしまうかもしれない。だからまず、皆で取り囲み、逃げられないよう「檻」を造る、相手の体力が少しずつ弱まってきたら、徐徐に攻撃を加えていく、更に弱ったところで止めにかかる、文字通り「息の根を止める」……
見事な、あまりにも見事な戦術である。しっかりと練り上げられた工程、「シューティング・プラン」の様だ。
 
きっと、牙が有る無いうんぬんの、そんな話ではないのだ、大事なことは。
 
ホウライエソという魚、これは深海魚なのだが、物凄い牙を持っている。この牙の使い方だが、獲物を傷付けて弱らすというよりも、逃がさないようにするための檻としての性格が強いとされている。そして皮肉なことに、この牙ゆえに、捕らえた獲物を呑み込むことができず、そのまま餓死してしまうことがあるそうだ……。
凄い牙を持つ生き物の話をしたので、今度は持っていそうでそうではなかった生き物の話をしよう。
テリジノサウルスという恐竜は、ティラノサウルスやヴェロキラプトルと同じ獣脚類というグループに属し、更には両前脚には巨大なカギ爪を有していたが、その歯は多くの獣脚類の様な牙ではなく、その形状から木の葉を食べる植物食恐竜だった、と考えられている。ただ、多くの古代生物がそうであるように、この恐竜の食性はまだはっきりとはしておらず、魚を食べていたとする説もあり、広義で肉食恐竜であった可能性もある。
ただ、肉食が大多数を占めるグループ内で、植物食を選択していったというのなら、何とも興味深い話である。
 
さて、2022/04/16とあるマーケティング講座にて出たとされるのが、冒頭の「生娘をシャブ漬け戦略」である。
田舎から都会へ出てきたばかりの若い女性に狙いを定めマーケティングを展開していく、つまり、まだそういった女性は都会に染まっておらず右も左も分からないだろうから、そういった「生娘」である内に中毒状態「シャブ漬け」にすることで、常に一定の女性リピーターを得ようという戦略のようだ。
 
……こうやって改めて文章にしてみると、「姑息」という言葉がピッタリであるように思えてならない。
この言葉には「一時しのぎ,間に合わせ」といった意味がある。つまり、根本的な解決はしていないということである。
 
ある書籍に載っていたエピソードだが、そこにはとある出版社に勤務する女性の話が描かれていた。
「雑誌を女性に読んでもらうには、どういう誌面にすればよいか、という編集会議を50~60代の男性幹部たちがしていたが、日曜日にママ友4~5人に集まってもらって彼女たちに意見を聞けば、おじさんたちへの数十万円の給料の10分の1の金額で、遥かにいいアイデアが出せる」
というものだ。
 
……まさしく、そのとおりであろう。
最近知った出来事で、「若い人材が入ってこない」と悩む金属加工会社へ、デザイナーがオシャレな作業着を提案したところ、当初反感を買ったようだが、その効果はバツグン、結果は直ぐに出て、若者、それも女性も含め、そのオシャレな作業着に好感を覚え、続々と入社しているとのことだった。
 
これも1つのマーケティングであり、要(カナメ)は雇用される側のニーズに対して、する側がそれに応えたか、ということであり、それが本質ということになる。
私はもう若くないが、それでもあの作業着は着てみたいと思う。作業着だけに限らず、その衣服がオシャレで惹かれるものであるなら、今度はそれを着た自分を想像するのが、人というものではないだろうか。
個人的な考えだが、オシャレでカッコイイ作業着を目にすると、今度はそれを着た自分を想像する、すると、作業着を着て作業をする自分を想像する、オシャレでカッコイイ作業着を着て作業に励む自分もオシャレでカッコイイ!……という風になるのではないだろうか。
 
何にせよ、本質を見極めることは肝要だろう。
先の生娘シャブ漬けなんたらは、全く本質を捉えていないのではないだろうか。
まず、男性に高い外食を奢ってもらおうが、あるいは自身で食べられようが、牛丼を食べたいときには食べるものではないだろうか。人には、無性にそれが食べたくなる時がある、そうではないだろうか。或いは、その人の仕事や生活様式といったもので、食事が限定されてしまうこともあるだろう。でも、そういった理由で何か特定のものを食べていることを「中毒状態」というのは、可笑しくはないだろうか?
そして、私自身、何度か件の牛丼チェーン店にて食事をしたことがあるが、そのとき、女性客はしっかりいた。それも色んな世代、業種の人がである。個人で来ている人もいれば、子供連れ、家族連れもいた。
都会だろうが地方だろうが、朝だろうが昼だろうが夜だろうが、関係ない、彼女たちは確かにそこに居て、そして私たちは同じ空間で同じもの、同じようなものを食べていた。
外食というのは、男性に奢ってもらうだけでなく、他にも理由がある、いや、きっとそちらの方が遥かに多いだろう。
 
大事なのは、その人が、その時に、その場所で、それを食べたいと思えるようなものが在るか、そこではないだろうか。
 
そういったことに気付かないで、あの発言をした、かの人物こそ何かの中毒状態だったのではないだろうか……。
そもそも、シャブ漬けなんていう言葉は、先に述べたように中毒状態それも「薬物中毒」のことを意味する、いわゆるスラングであり、そんな言葉を平然と使うなんて、貴社は反社会勢力と繋がっているのか、そういったものの表の顔や隠れ蓑か何かなのか?と勘ぐりたくもなる……。
 
ここで牙の話に戻る。
戦略、生存戦略において大事なのは牙そのものではないというのは、先に述べたとおりだ。要は有る(在る)ものを、どこで、どう使うか、それにある。それが本質であろう。
前述のシャチならば、その最大の武器は、高度な知能と群での連携、チームワークであり、それが長期的な戦略の基幹となっている。そしてそれを生かした戦術を執ったからこそ、巨大なシロナガスクジラを獲ることができたのだ。
姑息なことが必要な場面というのは、実際、多々在るものかもしれない、しかし、それが上手くいくかは、根本がしっかりしているか如何に係っているのではないだろうか。
 
素人考えではあるが、女性客をより獲得したいなら、何故、あえて都会に出てきたばかりの「生娘」をターゲットにするのだろうか。「新規顧客」を獲得したいのかもしれないが、それならば、まず「今いる顧客」に焦点を合わせる方が理に適っているのではないだろうか。
それが根元であり、本質であると思う。
彼女たちの要望に応えていけば、自然と獲得できる女性客は増えていくと思う。周りの人、つまり、同じ女性たちが利用しているのなら、その人も自然と利用するようになるだろう、という考えである。
いちいち、ごく一部のグループに狙いを定めて、彼らを彼女らをシャブ漬けにしようと奔走するよりも、あとはほぼ、ほったらかしで次々と連鎖的に顧客を獲得できるのなら、遥かに少ない労力で済むと思う。
 
思うに、某牛丼チェーン店にとっての牙は牛丼を始めとしたメニューで、それに絶対の自信を持っている、それで次々と咬みつけば、女性客、特に新規の女性客の獲得は簡単である、私が想像する「生娘シャブ漬け戦略」はそうゆうものだ。
シャチの例でいうなら、シャチは、とにかく、次々とクジラに咬みつく戦法をとっている、ということになる。
実際のところはわからないが、前述のシャチとクジラの経緯からいえば、その戦法、戦術では狩りは失敗に終わることになるだろう。つまり、某企業が本当に生娘シャブ漬け戦略をとっていたら、数年、あるいは数か月後には、業績はガタ落ちとなっていた、ということになる。
だとするなら、あの発言から始まる、新商品発表見送りや芋づる式とも言える「外国籍採用問題」といった一連の騒動も、長い目で見れば、かの企業にとっては必要な劇薬だったのかもしれない。
無論、そこから容体が改善するかはまた別の話、「あとは本人の生命力に任せましょう」ということになるが。
 
「森が動かぬ限りその地位は安泰」「女の股から生まれてきた者には殺されない」
シェイクスピア作「マクベス」にて、マクベスに「王になる」と告げた魔女たちの、その予言の続きである。
森が動くわけはなく、女の股から生まれてこない者などいない、そのはずであったが、後に、木の枝葉をまとい隠れ蓑とした敵軍が進軍して来る、それはあたかも森が動いているかのようであった。更に、敵将は未熟児であったために母親の腹を裂いて取り出された、つまり産道を通らず、女の股から生まれてこなかったという生い立ちを持っていた。
インド神話の「ヒラニヤカシプ」と「ナラシンハ」の物語では、ヒラニヤカシプは創造神との約束により「神にもアスラ(悪魔)にも、人と獣にも、昼と夜にも、建物の中と外にも、地上でも空中でも、そしてどんな武器にも殺されない」不死身の身体を持っていた。しかし、頭部は獅子、身体は人間の姿の「神でも人でも獣でもないナラシンハが、昼でも夜でもない日暮れに、建物の内でも外でもない門の下にて、地上でも空中でもない膝の上で、素手で引き裂いた」ことで、あっけなく討たれたという。
マイクロソフト創業者のビル・ゲイツが、「今現在、最も恐れている挑戦者は?」と訊かれた際の返答は、
「何処かのガレージで全く新しい何かを生み出している連中だ」
であった。
「驕る平家は久しからず」という言葉がある。
画面の向こう側や、その更に向こうにいる人々は、驕り高ぶってはいないだろうか。もしかしたら、彼らの言う牙やその使い方よりも、より優れたものが既に在るのかもしれない。
時空を超えてなお、戦うという本質は変わらなくても、戦い方はその都度変わるはず。
牙うんぬんの話、その考え方が古臭くはないだろうか。そんなことでは、それこそこれからの時代、新たな戦いの中では生き残れないのではないだろうか。彼らの言う牙は、今なお研ぎ澄まされたものなのだろうか、そうだとして、コレクションの様なものではなく実用性に足るものなのだろうか。
 
ふと浮かんだ疑問、そうして、ここでタイトルとなっている言葉へと行き着いたのだ。
「生娘のシャブ漬け丼を食べるには牙が要る」
 
もっとも、5/27の放送を見る限り、未来にはまだ希望が在るように視えた。
そこにいた可能性の獣たちは、先月、同じ場所に座っていた大気の牢獄の中の魔術師たちよりも、はるかにしっかりとこの国と、世界と、過去と、未来と、そして自分たちを見つめていたように映った。
なんとかなりそうだ。
 
牛丼の一杯を彼らに捧ぐ←

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