《幼女》のこと【1】――聖ロザリンド


〔テスト投稿〕本文は自作ですが別のところから転載・改稿しています。

これは《幼女》についての私の勝手なイメージです。

《幼女》というと、小さな体格とそれ相応の力、つまり筋肉量に比例する力はあまりないことが想像される。幼く経験が浅いゆえの知識不足や非力ゆえの必死さから目的を達成するために《容赦しない/加減がない》(大胆ともいえる)行動に結びつく。

また《幼女》は庇護を必要とする。庇護者への信頼から(あるいは信頼を得るために)その言いつけに対して従順である一方、庇護を断たれないため半ば脅迫的に信頼しなければならないのであって、いかなる状況においても自己判断によって守るか否かを決定することをしない(あるいは、できない)。《教条主義的》と言える。

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【お断り】〇 現実の幼女と言われる年代の女性を観測して、その実態について言った内容ではありません。〇 創作物に登場する《幼女》として描かれる人物の表象のなかでも私個人が観測した範囲での認識かつ、恣意的に取捨選択した情報のみに絞って言及しています。〇 まともな研究とかではありません。

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大分いい加減な話ですが、ご興味があれば以下より
わたなべまさこ『聖ロザリンド』の話をしています。

私が《幼女》と言って真っ先に思い浮かべるのは
ロザリンド・ハサウェイ〔わたなべまさこ『聖ロザリンド』1973〕だ。

ロザリンドの歳は8-9歳―― 幼女です。

執事とかいるような良いとこの娘で、天国に行けなくなるから「うそをついてはいけない」というママの教えを頑なに守っている。タイトルからも察せられるように宗教的な世界観をもつ作品で、信仰の拠り所である神のいる場所(天国)を目指すことを目的にその教えはある。

そうです。ママの教えは神の教え。「うそをついてはいけない」から、ロザリンドは自分に正直だし、冗談や戯言も本当のことだと思い込む。うそをつく人を罰するためだったり、約束を守らせよう(うそにしない)という親切心だったりで動物や人を殺します。

あるいは、“自分の行動にうそがない”ということなのか、いかなる結果になるにしても彼女の動機こそが行動の意味だ。だから、故意に殺す場合もあれば、不本意に殺してしまう場合もある。

作品はひたすらロザリンドが殺人を重ねていく様子を描いている。旅行で滞在している屋敷での親戚一家皆殺しからはじまり、事情があって放浪の旅をすることになった道中でも次々と人を殺していく。

「死んだら形見にあげる」と言われればすぐにでも殺して遺言状どおり手に入れるし―― 「風邪が流行ってる」と聞いたら薬を飲めば治ると信じて疑わず“強い薬”と言いきかされていた殺鼠剤を飲み水用の井戸に混ぜて施設のシスターたちを全滅させるし―― 「天国の娘と三人一緒に暮らす」という女が蒸発した男を捕まえて心中しようと同時に服毒することを迫るも男だけは飲まなかったので爆殺したり―― します。

(ここに挙げたのはほんの一例)

殺しを重ねてしまうのは血縁を遡ると殺人鬼がいて、その性質がロザリンドに受け継がれている! みたいな。今こんなこと言ったら差別じゃんよ、という話もあるけれど昔の作品だということと、元ネタがあってそこで言われてる設定をほぼそのまんま語ってる※ という事情がありそう。
※ こちらのサイトが詳しい

とにかく、ロザリンドは殺すという手段に訴えて「うそをついてはいけない」という思想信条に基づき、自分に正直に、目的のために必死に行動する。そんな幼女です。

……ちょっと横道にそれるけれど、《幼女》についての考察を挟みます。

殺人は相手を自分の意に従わせる最も《容赦ない/加減のない》行為と言えるのではないでしょうか。幼女の幼さ・経験の浅さ・非力さ・必死さと、残虐な手段とはたぶん相性が良い。翻って、自分の思い通りにしたくて殺人(残虐な手段)に訴えるほど容赦ない必死なところに《幼女》味を感じる! とかいう物の見方ってある気がする。

《教条主義的》なのは《幼女》が庇護を必要とするからで、《庇護者の言いつけを守る》という振る舞いによって、「あなたを愛する・信じる・疑わない」ことを庇護者(あるいは、そうなり得る人や存在)に示す。そうして、庇護者の責任感に訴えるのではないか。

〈愛してる/信じてる/疑ってない〉という態度を示したって庇護してもらえない場合はあるんだろうけれど、やっぱり《幼女》は完全に自立して一人でどうにかやっていくことは難しい。自分で判断なんかしたら庇護者は裏切りととったり、責任を放棄して見做すかもしれない。

庇護してもらえないかもしれない、という危機的状況になり得るので頑なに《言いつけを守》ろうとする場合もあるのかな?

なんにせよ《幼女》は庇護者―― ようは《自分の外にある》基準とか判断とか決断とかを拠り所にしている。自分の行動が正しいか間違っているかの裁量はすべてそこに丸投げしている。無責任である一方、言いつけの前には無力とも言える。

さて、《教条主義》は折り合いの悪い事実に対応しきれなくなると綻びが生じてくる。教義を信じ続ける-従い続ける-守り続けることが困難になったとき、きっぱり教義を諦めると事実が待っている。事実を嫌い、拒むとき、事実を無理矢理教義に当てはめて歪めようとしたりする。

それでも、変えようのない事実、ごまかしようのない事実はある。そんな事実に直面したとき、《教条主義》即ち《従うことが絶対》という約束事を破らざるを得なくなる。

約束を破ったものは、その教義によって裁かれます。

ママのことが大好きなロザリンドは、天国に行けなくなるから「うそをついてはいけない」というママの教えを頑なに守る。件の通り、ロザリンドは残酷な手段であっても躊躇なく実行する。残酷だから裁かれなければならないか? 否、行為の印象と行為の意味は別ものだ。意味の上では確かにうそをついていないので、言いつけに従った行いといえる。

ママの教えは神の教え。
だから、言いつけを守る限りロザリンドの行いを神は許す。

けれども、ロザリンドはその思想信条に基づいて“自分の行動にうそがない”子、信じたいことを信じる態度も正直に行動に移す。だから、本当のことでも「信じられない」「うそだ」と思ったら、相手がうそをついたと見做し《罰として》傷つけるということも起きてくる。

“それ”は本当ではなくてうそだ。
そう決めたのは、天国にいる神様ではなかった。ロザリンド自身だ。

“それ”はうそではない。本当の事だった。

本当をうそにするために「うそをついてはいけない」と《ロザリンドが》罰をくだそうとする。けれども、本当のことは本当なので、ロザリンドの行動はその思想信条「うそをついてはいけない」をもってしても正当化することができない。神の教えを拠り所とする、だた神の子でしかないロザリンドに他を罰する権限はない。それができるのは神様だけだから。

神の教えに背き、自身の決定によって残酷な行為をしようとしたとき、ロザリンドは裁かれなければならないのです。

はい、

ネタバレを避けるためかなりボカしましたが、『聖ロザリンド』は幼女がめちゃくちゃ人を殺しまくる殺人鬼で、動機がヤバい! テクがすごい! ロザリンドかわいい! というお話です。流石に人殺しまくって何もないわけはなく、天罰っぽいものがくだされます。

ロザリンドが「うそだ」と信じたかった本当の事がなんだったのかは、単行本を読みましょう。ラスト付近の盛り上がるとこで、わたなべまさこ先生の迫力あるコマ割りや構図のとり方とか、パパの乙女チックなビビり仕草とか、ロザリンドの内面をとらえた表情の変化からの行動力など、見どころいっぱいです。まんがを読みましょう。

《幼女》の話をしていたので、そこに戻ります。

私がなんで《幼女》の話をしたかったかというと、私が注目する《幼女》が放り込まれている物語の展開の傾向が似通っていることについて細かく考えたかったのでした。―― 他人からしたらどうでもいことでしょう。

これは個人的に観測した範囲のことから考えた出まかせのような話になりますが、そんな話をしてこの記事を締めます。

※ ※ ※

《幼女》が、『聖ロザリンド』のように教条主義的であったり、あるいは自分の意思決定で判断を下せない立場であるとかで、所属する集団における立ち位置や信じる教義にそぐわない・違反する振る舞いをすると、その報いを受けるみたいな話型はそこそこあるように思います。

じゃあ、集団内の掟とか思想信条の規定に逆らうなど約束ごとを破り罰を受ける話型で、罰を受ける人はみんな《幼女》なのか? というと違います。《幼女》性はおそらく、


  ・ 集団や思想の庇護を必要としている
  ・ 集団や思想に決定を委ねている(約束事を守っている)
  ・ そのため自分の決定と集団や思想の決定との区別が曖昧


という3点が揃っていると醸し出されるように思えるからです。

もし、自分の意思決定であることを自覚して掟なり規定なりを破るのであれば、庇護を突っぱねる主張といえる。つまり、《幼女》が庇護を必要とする存在であるとは先ほどから言っていますが(しつこくまた言いましたが)、主張するという行為によって庇護を自ら求めない存在になるということ。それは《幼女》とは性質の異なる存在といえるし、成長という文脈で語られることもあるだろうし、そもそもが《幼女》ではなかった“《幼女》の皮を被った別のもの”だった、という話かもしれない。

《幼女》には罰せられるという覚悟がありません。自分は約束を守っているから庇護されていると信じて疑わないからです。ゆえに身に降りかかった罰(約束を破ったことへの報い)と言えるような出来事を「これは罰だ」とは認めにくい。だから、客観的に《幼女》の行動を観測する立場にある読者が”庇護者との約束を破ったから罰を受けたのだ”と理解できるような話の流れと解釈したとしても、約束を破った行いをした当の《幼女》は(一時的にショックを受けることはあるかもしれないけれど)相変わらず《幼女》のままだったりする。

集団や思想の庇護を必要としているし、集団や思想に決定を委ねている(約束事を守っている)気でいる。自分がやりたいことは約束に基づいて実行しているという認識が頑なであるために自分が約束に反しているという事実に気づかない。

幼女自身の認識において庇護する存在とは半ば融合しているかのようであり、実際、幼女の行動は庇護する存在の意向に沿う行動として描かれもします。

そのため、客観的に物語に展開されている情報を読むかぎり《幼女》の本心は見えづらかったりします。約束を守るために行動しているのか? 自分の目的のために行動しているのか? 基本的には約束の範囲で行動しているため、区別がつきません(区別する必要もない)。しかし、罰せられた行動は約束を破った行為だから《幼女》自身の本心が浮き彫りになります。

ロザリンドは「うそをついてはいけない」という神さまの約束を守って行動していたけれど、信じたくない事実を知らされたため事実を伝えた人がうそを吐いているという“うそ”を吐いて、その人を罰しました(加害を加えた)。

もし、ロザリンドが手をくだした人物がうそを吐いていたならば《天罰》なのか《ロザリンドが相手がうそを吐いていると信じたかった》のか、という区別が《「うそをついてはいけない」が神さまとの約束》ゆえに曖昧になります。

けれども相手の言ったことは“本当のこと”だったので、ロザリンドの《事実を信じたくない》という本心は浮き彫りになったし、なにより、ロザリンドの加害は天罰にはなり得なかった。なぜなら、この時のロザリンドの行動は《「うそをついてはいけない」という神様の意思》とは無関係な行動だからです。

以上で言及した、庇護者との約束を破った《幼女》のことをまとめます。


 ・ 《幼女》は庇護を必要として約束を守り行動するので、
   庇護される限りは、その行動に本心が含まれているかどうか
   客観的には区別がつかない 

 ・ 《幼女》が庇護を求めるものとの約束を破り罰を受けることで
   客観的に《幼女》の本心を区別することができる

 ・ 《幼女》自身は庇護者と自身との区別が曖昧で、
   罰を受けたという自覚はないし、庇護者を疑わず、
   庇護を不要とする者へと変化しない相変わらず《幼女》のまま


私は、そういった話型にある《幼女》のことが気になっているのでした。

……と、なにやら、ここへ来て宣言してる(汗)。自分が何を思ってこんなものを書きとめたかったんだろう、というのを書きながら考えるという手順のなってない文章でしたが、もしも読んでくださった方がいらしたらスミマセン。構成もごまかすのもへたくそで。

「自分の動機を知りたい」というのが目的でした。

ここで考えたことの流れで『源氏物語』の若菜巻~ 女三宮について書けたらいいな、とか思ってます。いつになるかは未定。

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