私以外の私

「私以外私じゃないの」という言葉をきき、そんなことは無い、と連想したこと。(2016/3月)昔のblogを削除したため、2020年3月転載

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電車から外をみていると線路沿いの金網に親子がおり、抱かれた子どもが電車に手を振るのが見えた。時間にしてわずか1〜2秒だが、一瞬の共感作用で自分も子どもを抱き上げる親になり、電車を見送るような気持ちがした。

以前芸大の助手をしていたときに見た、学生が作ったアニメーション作品を思い出した。ベランダで洗濯ものを干すお母さん、河川敷で野球する人など、車窓からの一瞬の情景をスローモーションでとらえるアニメーションだった。

作者も一瞬ごとにその人の生活に入りこんだり、なりかわってみただろうかと思っていた。

鶴見俊輔著「思い出袋」に以下のような記述がある。

”これは『夜と霧』にある話だが、アウシュヴィッツの強制収容所に閉じ込められたフランクルは、おなじ仲間の老女がいきいきと毎日をすごしているので、どうしてかとたずねた。すると、彼女は道に見える一本の樹を指さして「あの木が私だ」という。”

自分を牢の外の木と同化させる想像力だけで心身を保てたのか、と感銘をうけ、『夜と霧』を確かめたところ、そんな箇所はなかった。女性は確かに木に救われてはいたが「あの木は友達だ」といったに過ぎない。また生き生きとした老女ではなく、まもなく病死する若い女性だった。

「夜と霧」全編には、高い精神を保った人間が強く生き延びた記述があるので、誤読とまで言えないが鶴見氏の記憶違いであり、木への同化は全くしていなかった。

「思い出袋」冒頭に

"八十歳になった。子供のころに道であった、ゆっくりあるいている年寄りを思い出す。その身振りに自分が似てくると、その人たちの気分もこちらに移ってくる"

とあった。対象を自分にひきこんだり、相手のそばに身をおいてみるのはこの人自身が考えるときのやりかただったろうかと思う。

OMSBのアルバム”Think Good”収録”Orange way”という曲では冒頭、帰路につくランドセルの黒人の子(日本語を喋る、おそらく混血の子か)を見て、浮いていた過去の自分を思い出す描写から歌いだされる。その後、

"わりい黒人にはなるなよ、ズルをせず真面目にがんばんだぞ"

と説諭、鼓舞するようなフレーズに変わる。途中から、

"俺はいわない、勉強が大事"

などの言葉が出て、父親からの言葉だということが次第に推測され

”自分が自分であることを楽しめ、人は人であることを知れよ”

というサビ(というのだろうか)のフレーズにつながる。しかしこれは誰が誰に向けた言葉なんだろうか。彼の父が彼自身に向けて本当に言った言葉ではない、と思う。

・自分によく似た他人の子(ら)に同朋としての言葉を与える
・子である自分に、架空の父としての言葉を与える
・まだ生まれていない我が子に、父としての言葉を与える

というように、幾つかの自分が含まれているのではないか。

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すでに子育てを終えた年配の同僚T氏は、子どもが小さいときのことを振り返って

「自分がもう一度子どもとして生き直しているような気がした、だから楽しかったですよ」

といっていた。

きっと子どもになると同時に、その自分を見る自分の父親にもなっていたんじゃないかと思う。「私」が子の中にも、父の中にもいる。

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※「私以外私じゃないの」いまだに曲はきいたことない。

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