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虹彩法(KOOSAIHO)- 虹の色彩論 -



〈出逢い 〉

 1996年10月28日、北海道スケッチ旅行をしていた霧多布岬でのこと。

 その日は未明から、海に映った月明かりに見とれて、ながいあいだ夜の海の景色をたのしんでいた。

 それは、天の高いところにあった月が、西の地平線へと沈み、東の水平線あたりが仄かに白みはじめたそのころであったと記憶している。

 海も陸も360度が真っ平らにみわたせるその場所で、境界線にそって天球をつつみこむ虹を見た。

……虹は、空の一番高いところまでを淡い紫色に染めあげて、気がつくと、自分も風景もすべてが虹につつまれていた。

『あー、これが自然をあらわす色なんだ‼』
 そのときわたしは、虹につつまれてゆくこの星を見ていた。


〈 虹彩法(KOOSAIHO) その1〉

 絵を描くといえば、通常、デッサンからはじめてその後に色を塗る、と考えるのがあたりまえのことであり、色から描いて形をあらわす。と言えば、なにか奇異に感じられるかもしれません。

〝虹彩法(KOOSAIHO)〟と名づけたこの描法は、通常おこわれる描法とは違った観点に立ち、まず色を描くことからはじめてゆきます。

 なぜ色から描くのか? と問われたら、それは、自然界の色彩には線というものが存在しないから。と、答えることができるからです。

 なぜなら――、観察する意識を、物の形から色彩へと移行したとたん、線と見えていたそこに、さまざまな色が現れ出す。ことになるからです。

 線とは、物を捉えようとする人間の意識が作りだす概念であり、
デッサンとは、
「わたしは、物を、このように捉えている」と、表明することにほかなりません。

 それとは逆に、色彩のほうは、捉えようとする意識を解けば自由になる。
……つまり『線』は、人間において自由であり、
『色』は、自然界において自由であるのです。

 そこでこの描法は、その色彩のほうに意識の目を向けることで、今までおこなわれてきた絵画の方法に、新たな視点を提示できるのではないか。と考えます。

*

雨上がりの大空に架かる虹は、なぜ人の気持ちを捉えて、美しく輝くのでしょう。

 それは、『人の内面を表す色だから』と考えることは、夢物語の絵空事なのでしょうか。

 自然界の中には、この鮮やかに輝く虹の色が、お互いを損なうことなく、浸透し合い満ちている様子を観察することができます。

 ここで言う〝虹の色〟とは、光源にある、ものを物として見せている大本の色彩のことで、物質性に縛られない色を指します。

 通常色といえば、物質的に定着したものをいい、ここで使用するクレヨン(オイルクレヨン゠オイルパステル)も物質の色であるため、自然界に浸透したこの〝光の描く色〟を、描き現すことはできません。
 描いたものは、あくまでも物質的な色に過ぎません。

 しかしこの物質の色が、人間の意識を介して、物質性を越え出て精神性へと高まってゆくことができる。と、言うことができるのです。

 ここでいう精神性とは、自然のものをつぶさに観察したり、芸術作品に触れて感動を覚えた経験をお持ちの方であれば、どなたでもご理解いただけるのではないかと思うのですが、敢えて言わせていただくならば、
 人は、目にした物に、物質では到底表現できないような事象を発見したときに、思いもしなかった感情が、心の奥底から湧き上がって来るのを禁じ得ません。

……つまり、心の震え(感動)を覚える。

 そしてそのときの感動が、物自体によって引き起こされたのではなくて、その物の物質性を、なにものかが、精神的な高みへと引き上げたことによって、惹き起こされたのだ。
――と気付くことができます。

 それはすなわち、
自分の意識の働きかけが、精神的な働きをそこに見出したのだ。
――ということを。

 そしてこの、自己の働きが〝光の描く色〟に触れてゆくときに、見えないベールが取り払われて、物質界に縛られない、色彩世界が開かれてゆくのです。


〈 虹彩法(KOOSAIHO) その2〉

 そこで〝虹彩法〟は、この自然界の光の描き現す虹の色を、一色、一色、分けて観てゆくことからはじめてゆこうと考えます。

 なぜなら、自然界にある光の描く色が、絵の具のように混ざった状態で見えてくるのではなくて、一つ一つの色が、独立していながら重なり合い、浸透する姿(音でいう和音のように)になって見えてくるからなのです。

 それは、自然界のありのままの現れであり、混ざってしまう色とは(混色した状態から元の独立した色として取りだせなくなるのは)、絵の具の持つ特性である。と言うことができます。

 そして、この絵の具のもつ特性こそが、人の認識を、高みへと導いてくれるのです。

 そこで虹彩法は、自然界の〝光の描く虹の色〟が、あらゆるところに重なり合った姿で現れるために、先ずは、そのひとつ一つの色を識別することからはじめて、ひと色、一色と、重ねてゆくことを行ってゆきましょう。というわけです。

*


こうして、自然界の色彩の方に目を向けてゆくことで、普段何気なく見ている風景の中にも、実は、様々な色のあることが観察されるようになってゆきます。

 それは、奥行きや運動といった、通常、色には見えない、違う要素のことです。
(色を観察するときに、物の輪郭を見ないようにうんと目を細めると、色の状態が観やすくなります)

 それは、遠近法的に表現される奥行きでも、筆の捌きによる動きでもなく――、

 たとえば、一枚の葉っぱの中には、葉っぱの厚さをはるかにしのぐ色の深さが観察されますし、光の中に移ろい変化する、色彩の様子を観察することができます。

 つまり、写真に写した生物と、実際の生物との違いのように、立体的かつ動的な姿として――です。(印象派の作品には、その表現の試行錯誤が見て取れます)

 また、太陽光線のつくる影の中では、美しくバランスのとれた虹の色が観察できるのに対し、人工の照明によって作られる影の中では、色と色の浸食とも思える、バランスを欠いた姿が観察されます。

*

自然界の色彩をつぶさに観察してゆくとき、そこに実に多くの事象が現れ出して、秘密の出来事を打ち明けてくれる。そのように感じられてきます。

 しかし、その様子を描き現そうとしても、そのことを意識した途端、それらの色が沈黙してしまい、何も語らなくなる。
――と、感じられるに違いありません。

 それは、自然界の色彩が、シンプルに見えながらも実に複雑に重なり合い、しかも移ろいやすく、わたしたちの目も、意識も、その動きについてゆくことに全く慣れていなから、という理由が考えられる。……のですが、

 自然は――、そのように不自由である意識の状態に、もっと、自由でありなさい。と、導いているかのようでもあります。

 空を見上げて、じっと観察をつづけていると、この自然界に見る色の深さとは、ひとつ一つの色たちの個性の織りなすすがたであり、動きとは、それら色と色が、触れ合い、ぶつかり合うときに、高揚し、衰退し、生成し、壊れゆく――、瞬間瞬間に繰り広げられてゆくドラマなのだ。――と、認識するとき、
やがて、肉眼で見る物質よりも、もっともっと緻密で繊細な粒子が見えるようになり……、

 自然界には、このような出来事が充ち満ちていて、そこに触れたときに、
わたしたちは、感動を覚えずにはいられなくなるのだ――! 
との思いが――大空に舞い上がり、羽ばたく翼になるのを覚えるのであります。

 このように、神秘に包まれた自然界の色彩に思いを馳せ、観察と描写を繰り返し試みながら、色彩の本質であるものに近づいてゆきたいと考えます。


〈 自然界の色彩  その1〉

 自然界の色彩は観察する者によっても見え方が異なる。――という事実を、スケッチ会の現場を通して教えられます。

 また、止まることなく活動する自然界の色彩は、移ろいやすい自分自身の内面(意識)にも似ている。――と、観察が進むにつれ、そのように感じられてもきます。

 しかし、だからといって、そのことで描くことが容易になるわけではありません。

 逆に、慣れは、自分の思い込みに走り、画面上の色をにっちもさっちも動けなくして、濁らせてしまったり、
 あるいは、それまで壁であったものが突然取り払われたような気分になり、これまでの手法を一新したために、自分の今いる地点が分からなくなって行き詰まる。
――といったことになりかねません。

 そのため、制作しながら惹き寄せてしまうそれらの囚われを、いちいち吟味ぎんみしながら排除してゆく、注意力と判断力が厳密に求められる。ことになります。

 自然界の色は、自分が青を欲すれば青が現れ、黄色を欲すれば黄色が現れ、赤を欲すれば赤が現れる。……といった具合に、自分の内面に依存するかたちで現れてきます。

 そのため、描き手が、自分の考えでもって空は青以外の色であってはならない。とか、太陽は黄色以外の色であってはならない。とか、いやいや、太陽は赤でなければならない。
などと、決めつけてしまうと、人と人とのコミュニケーション自体を悪くして、
自然の姿とは別ものの、人間関係の方に頭を悩ますことになってしまいます。

 実際、こんな話を聞いたことがあります。

 昔ある方が、小学校の絵の授業の最中、空の中に黄色を発見して、空全体に黄色を描いたのだそうです。

 すると先生から、
空の色は青色である。――と、みんなの前で注意を受けてしまい、
そのときから、絵を描くことに大変な苦手意識を持つようになってしまった。
……ということでした。

 同じような経験をお持ちの方もいらっしゃるのではないかと思います。

 そしてこのことは、前述した自然界の色彩本来の在り方からすれば、由々しき問題である。ということになります。

 しかし、もしもそのときに、その方の観察が空だけに止まらず、風景全体にまで及んで――、
『黄色は!、赤は!、いや、青や、紫や、いやいや、ピンクもオレンジも、もっともっとたくさんの色たちが、空も……、海も……、山も……、そして野の草花や、虫や、鳥や、月や、星々までも照らして輝いている!』ことが発見されていたら、
苦手意識は、密やかな楽しみに変わっていたかもしれません。

 空を例にあげて言えば、日中の、青く輝く空全体であったり、あるいは、白くはっきりと浮かぶ雲であったり、霞がかった空やグレーの雲の中であったり。……と、様々ではありますが、普段見慣れた青や、白や、灰色といった空や雲の中に……身を潜める、
黄色や、紫や、ピンクや、オレンジといった色たちが、
ところにより鮮やかに、ところにより緩やかに輝いている様子が観察できます。
(先述したように、うんと目を細めて観察してみてください)

 その現れ方は実に捉えようがなく、時間帯や季節、大気の状態にもよりますが、観察している、その人のそのときのこころもちによっても変わる。……としか言いようがないほど、まるで生き物のように変化しているそれらの色たちを観察することができます。


〈 自然界の色彩  その2〉

 日の出前……、夜のとばりが白みはじめて一日の幕が開かれてゆきます。

 明るさは、次第に黄色味を帯びながら、徐々に夜の帳の中へと浸入し、同時に、退潮する暗がりの中から……鮮やかな青が姿を現します。

 明るさは、空全体を包み込むように広がりながら、一日の、その清らかなはじまりが、喜びに溢れるエネルギーに充たされてゆく……、と感じることができます。

 みるみると高まりゆく明るさは、やがて昇りくるものをたたえるように、水平線辺りを赤みがかった色に染め上げながら……、
 すると、訪れる者に道を譲るかのように、
 あるいは、生まれくる者を息を潜めて待つかのように、
――突然静まる。

 と、静寂を割り、空全体を揺るがす轟きとともに、
色彩の根源である放射する光が、厳かに……、その姿を現しはじめる――

 このときの風景と、夕暮れどきの風景を写真に撮って見比べても、大した違いは感じられないかもしれません。

 しかし、この両方を、じっくり観察しながら絵を描くとき、その違いは歴然となります。

 朝の風景を描くと元気を貰う。
「もう一枚描きたい」という気分になれる。

 しかし、夕陽の風景を描いた後は、
 まるで……泥の中に身を沈めているような倦怠感けんたいかんに襲われる。

 そしてそのときに、朝を染め上げてゆく黄色と、夕暮れを染めてゆく紫色を、視る(体験する)ことになります。

 しかしこの色は、普段わたしたちが見ている色や、写真で捉えることのできる色とは性質が異なり――、

 言うならば、〝生命感覚〟で視ている。そのような性質のもので、

 朝の、清々すがすがしい気分。

 夕の、もの哀しげな気分。

……のように、内的に感じられる色なのです。

 つまり、朝の色、夕の色という、
〝時〟に応じた、〝基調となる色〟のあることを体験します。

 これを仮に、〝時の色〟と呼ぶことにします。

 この〝時の色〟の一日の変化に注目すると、
 オレンジ色に染められてゆく朝焼けの色は、背後に黄色という基調の色を持ち、その明るさによって、朝が導かれてゆくのが感じられます。

 やがて明るさは、徐々に強さを増しながら、その基調を活動するオレンジ色に変え、日中の一番陽の高くなる頃には、焼けるような輝き(明るさ)の中に、〝赤〟本来のすがたである〝最大の生成と最大の破壊〟を持つエネルギーを感じることができます。

 こうして、一日の移り変わりの中で最高潮に達した〝時の色〟は、
その強い陽射しの中に徐々に影の色を交えながら、
黄昏時には、いつくしみあふれる哀慕の色……赤紫色(パープル)に染まりながら、
日没の頃には、西の空を染め上げてゆく、哀しみにも似た茜色あかねいろの中に、
ふところ深い紫の浸透を感じることができます。

 こうして、陽の光が退潮してゆくなか、やがてどこまでも深い群青に導かれるように、
〝時の色〟は、夜の帳の中に青く深く沈み込み、
夜特有の活動に入ってゆきます。

 やがて、闇の深さが満ちて夜の活動も終わりに近づくころ、
 ほどけゆく闇のなかから緑がすがたを現し、
〝時の色〟は、新たな朝に迎えられてゆきます――

 このように、それぞれの基調の色が、それぞれの気分、つまり人間の感情と深く関わっていることを、自然界の色彩を観察しながら感じることができます。
(しかも、その時々の〝時の色〟の中にも虹色の変化があり、更にその中にも……と、幾重にも重なり合う虹の連鎖として感じられます)


〈 自然界の色彩  その3〉

 さて、自然の光の色を観察しながらのスケッチが進むにつれ、徐々に、大気に充ちている虹の色の様子が観察できるようになり、更に、影の中に輝く色も観察できるようになります。

 自然界の色彩は、明るい場所であっても暗い影の中であっても、緻密で透明な輝きに満ちています。

 そして、このときの色は、先述したように、肉眼の奥にある〝生命感覚〟で視ているような感じ方で、肉眼で見るよりもはるかに実感を伴います。
 つまり、自分の外側の現象ではなく、自分の内側に生じてくるかのように。

 このように書くと、何か、いぶかしい話しではないのか? と、疑われるかもしれません。
 しかしスケッチの現場に来て、物の形に向かう意識を止めて、意識の焦点を、風景全体に広げるように観てゆくことで、概ねそのうちの何色かは直ちに観察できる。……ことを、
スケッチ会の現場で確認しています。

 特に、先にも例に挙げた、小学校低学年からそれ以下の年頃には、既成概念で固まった大人とは違い、はるかに柔軟な感性でそれらの色を観察することができる。
……ことも確認しています。

 例えば、ある観光名所に向かっていたとします。

 そこに突然、目の前に広がる光景が現れて一瞬息を呑む瞬間のあったときのことを、思い起こしていただきたいのですが……、(観光名所に限らず散歩の途中であったり)

 その瞬間、囚われのない自然の色彩が肉眼を通り越して心の奥にまで届いていた……ことが考えられるのですが、
 しかし、この〝光に溢れる色彩〟は、先にも触れたように、留めて観察することができません。

 掴もうとした瞬間にはすでに取り逃がしてしまい、……もぬけの殻となった場所に、どこからか持ってきた、あるいは自分の中で作ったイメージで埋め合わせる。
 ということになり、感動はたちまち別のものに変化しています。

 そして、もしもそのとき、『緑の色は、黄色と青によって作られる』という概念でもって絵を描きだしたとしたら、
自然界にある〝光のすがた〟が……、絵の具によってどのように変化しているのかが解らなくなる。
 つまり、自然界にある光のすがたを人間の頭でもって〝概念化〟しようとした途端、
 絵の具の持つ〝光〟の要素が見失われ、その事実も一緒に見逃されてしまう。……ことになる。
 ということが。

 これは勿論、ここに述べている内容を含みます。
 だからこそ――、
〝概念化〟してゆくことで失われてしまう〝ひかり*1〟を、
 再び取り戻す試みが必要である。と――、強く感じるのです。

 人は、大人になりながら、出来事を概念化する方法を身につけてゆく。

 なぜなら、現実社会がそのようである。と、知るからで、
そしてそれが、社会を形成してゆく上で必要なことである。と、学ぶからです。

 しかし……、そのことによって、失われてゆくもののあることも識ることになる。

 これは、大人になりながら学んでゆく、人間にとって必要な出来事であり、取りも直さず、自らの人生を通して負うことになる課題。
――なのではあるまいか。


*1 このとき〝光〟は、内的な意味になるので〝ひかり〟とした。


〈 自然界の色彩  その4〉

 つまり――、
 人は、光(=ひかり)の要素を失う、という、観念的にのみ関わっていたら気づかれなかったであろう出来事に、
〝生命感覚〟をもって関わってゆくことで、
描くという行為はどこまでも内面化され、
〝生きる〟という問題を表出させてゆくことになる。

 このときに――、

『光であるものの〝ひかり〟を失う――とは、一体、どういうことなのだ?』という問いが発せられ、
問いは、自分自身の内面に向かって突き進む、自問自答する〝牙=やいば〟を持つ。

――ことになる。

 しかし一方、このような内的な問いを生じさせることなく、観念的に、あるいは無感覚的に(非生命的に)この問いの前を通り過ぎるとき、問いの吟味は為されないまま、絵の具は、素材のまま画面の上に乗せられてゆく。――ことになる。

 このときの絵と、幼児の描く絵を混同することは見方の誤りとなる。ので、その点に触れたいと思う。

 幼児を含む子供の思考は、脳を経由して営まれる大人の思考とは異なり、はるかに直に素材に触れている。――ことが考えられるのであり、
 子供の思考は、そこに、素材の持つ内的な〝ひかり〟を見るからこそ、
 あるときに見た記憶が心の核に留まったまま、大人になってもなお、消えることなく遺り続ける――のであろう、と。

 子供の絵が天才であると言われる所以ゆえんは、
 感じたものを、感じたままに現している。……ところに見出されるのであり、
 それは、子供にとっての自然であり、生きるための必要なのだ。

 すると……子供に、大人の喜ぶような絵を描かせようとすることは、この天才を阻害し、創造の芽を摘んでしまう。ことになりはしまいか。

 子供が、喜んで描くものを理解してゆくことで、はじめて、創造の芽は育まれ、成長する、発展する姿を見届けることになるのではあるまいか。
――と。

 思考という、脳の活性化でもって世界を見るようになる大人になってはじめて、
「光であったものから失われゆく〝ひかり〟とは……、一体何であるのだ?」という問いが発せられ、
 そこに、〝生きる〟という問題が生じ、――辛苦が生まれる。
(このときの辛苦は、飢餓やいじめといった外的要因のもたらす辛苦とは別の、もちろんそのことも含むが、どのような状況の中にあっても生起する、自己の内側からやってくる、内的要因(内省)のもたらす辛苦。を指す)

――ことを考えるとき、

 人間の生命そのものが、

つまり――〝生きる〟ことが、

〝ひかり〟を求める。――のではないか。

 その道標となるものを、
 宗教が……、人を生かし、
 芸術が……、素材を生かし、
 哲学が……、思想を生かし、
 政治が……、社会を生かすことで、
 示してゆくのではないか?

――が、しかし、
 この問いを見失うとき、
〝生きる〟という問題は、外的要因に渡され、
自分の外側に問題を抱えるような格好になる。

そして――、その外的要因となされた問題が、まといになり、本人に基づかない様々な幻影に姿を換えて、本人自らの姿をも変身させる。
――ことになる。

 それが進むと、外的要因に渡された〝生きる〟という問題が、人間に対して悪戯わるさをする要素にすがたを換える。
 それが……、いじめ、事件、事故、飢餓、紛争などなどの社会的問題に結びついてゆくことになる。――のではないか。
(しかしこの先の話しは、本題を脱線しそうなので、ここまでにします)

 他方、内的要因のまま残された〝生きる〟という問題は、そこに問題を抱えるから、内的な牙で噛み砕かれることで、問題の核心にある〝答え〟も、解き明かされる可能性を残すことになる。

 この――、内的に進められてゆく作業の過程で、大人になりながら既成概念化されて見えなくなる、幼児の頃に見ていた世界観が……、
 輝きを取り戻すかたちで、現実世界を照らし得る光となって、育って行けるに違いないのだ。

 こうして、〝生きる〟その人の努力の成果として、辛苦という〝影〟の中にある〝ひかり〟を、見つけだす機会を得ることになるのではないでしょうか。

 つまり……、光である自然界の色彩を、光を持たない絵の具という素材で描き現そうとする試みは、

 外的要因でない〝自分〟の中に、

〝ひかり〟となる要素を見つけだそうと試みる、

 どこまでも意識的な作業なのだ。

 そして、この意識的な作業を通して克服されてゆく過程が、目には見えないが、素材を通して明かされるからこそ、

 人は、そこに、感動を覚える。――のではないのだろうか。

 自然界の光は、人間によって一旦その外的〝光〟を失う。
……しかし、人の内的な営みを通して、再び内的な〝ひかり〟へと変換され得る。

 という事実を、自然界の色彩は教えてくれる。
 いや、そこへと導いてくれる。


〈 自然界の色彩  その5〉

 もしも絵の具が、下にある色を損ねることなく重なり合うことができたとしたら、見た目には、自然に近い輝きを描き現せるのかもしれない。

 それは、テレビやPCやスマホのモニターのように光線を利用した重なりとなって――。

 しかしそのように便利な絵の具ができたとしたら、
 先にも述べた、表現の内容となる意識的な作業が失われ、
 人は、絵の具という素材を通して、意識を高めてゆく〝道〟を、
 見失うことになりはしまいか……と、以前より危惧していたが、
 近年のテクノロジーのもたらす限りなく視覚的な映像は、
 網膜に受ける刺激を直接的に脳に伝達して、人間の内的な作業を阻害し、
 得られる収穫物を奪っているようにしか見えない。
……のは、わたしの眼の誤りだろうか。

 網膜に受ける、外的要因の作りだす刺激は、人間の中から生じる内的なパワーを消費させるだけで、増やすことをしてくれない。

 人は、外的要因の作りだす強烈な刺激に曝されると、自分の中に作り上げる内的イメージを見失うことになる。

 つまりそれが、〝生きる〟というイメージ――

〝生きる〟というどこまでも内的な問題が、外的な要因に隠れて見えなくなる。

 イメージとは、何かの大容量の情報を得たときに働くものではない。
 限られた素材を、他の素材と組み合わせたり、合体させたり、反発させたり……と、
 その素材のもつ情報をいじり回しているときに湧き出す内的なパワーだ。


では、〝感動〟とは、内的な〝ひかり〟とは、〝生きるイメージ〟とは、一体……どこから、どのようにやって来るのか?

 自然界の色彩に目を向けるとき、そこには、前述した内的な輝きを持つ色彩があって、つぶさに観察してゆくことができます。

 その姿は実に美しく、バランスを保ち、その美しさやバランスが、見る人の心の中に〝喜び〟という明るさを与えてくれます。
 それは、自分という者を、内側から温めてくれる。――と感じられます。
(もちろん、その人の感じる程度に応じて)。

 つまり人は、自分の内側から湧き上がる喜びに明るさを感じるのであり、それは、外的な光の持つ明るさよりもはるかに親しい(近しい)ものです。

 現代において人は、過去のような偉大なる明るさよりも……、
もっと身近な、より親密な明るさに〝ひかり〟を求めるのではないのでしょうか。

 自然という存在が、人間の内的な作業によって汲み取れる喜びを無限大に持つ存在であるからこそ、……人は、その事象の中に〝生きるよろこび〟を見出し、〝光〟という認識を得ることができる。のではないのでしょうか――

 その自然界の〝光〟に応えるかたちで、
自らの内面から〝喜び=ひかり〟が立ち上がり――、感動に結びつく。
のではないのでしょうか。

 そして……、
この自己の中からやってくる〝ひかり〟の明るさによって、
人間であることの、『生きる』理解がはじまるのではないのでしょうか。

 こうして、闇の中から立ち現れる、
〝自分〟という〝ひかり〟によって、
 日々の、日常に生起する闇(不安)の正体が――、
 実は、〝自分自身〟のことであり……、
〝自分〟を認識する深さこそが――、
〝ひかり〟の正体である。――ことを、
 そして、それが、
 自分の力でしか達成され得ないことを、
――自覚するとき、

日々の日常の戦いは、
それまでとは違う、
〝内的ひかり〟を強化する機会と捉えて、
〝生きる〟――、積極的な意志に置き換えてゆける。

――のではないかと考えます。

――だがしかし、
 その成果(実り)を、日常の中で直ちに獲得しようとすることは……、
 理想ではあるが、
 認識の際おこなわれる自問自答の牙が――諸刃もろはとなり、
 自分自身を……、
 そして相手を……、
 深く傷つけてしまうことにもなる。

 つまり、このような意識的な作業を日常の多忙さの中に直ちに持ち込むことは、
 嵐の只中に、裸の身をさらすようなことで、
 無理が生じるのは火を見るより明らか。――であります。

 従って、まずは、
 日常から離れた意識の集中できる場所……、
 これはゲームやPCなどの外的刺激ではなく、
 たとえば……自然、あるいは美術、音楽、映画や演芸や読書、スポーツ等々、そのことを通して内省に赴ける事柄に集中して、
 そこでの探求を進めながら、
 内的に獲得される認識を……徐々に、
……忍耐と共に、
日常の中へと持ち込み拡げてゆくことができれば、
なによりそれが、現実の成果に結びつけられる良い方法になるではないか。
と考えます。
(わたし自身、できてはいないのですが……)

 〝虹彩法〟は、スケッチという非日常の現場に身を置き、
 日常の雑多な出来事から一旦意識を切り離し、
 囚われのない目で、自然の色彩を観察し、
 自然のもつ美しさとエネルギーに触れ、英気を養い、本来の自分に立ち返ることで……、
 日常の雑多な出来事の絡み合いの中にも、
必ず、解ける糸口のあることを、
自ずと理解できるようになってゆける。
――と、考えます。



〈 虹の贈り物  その1〉

 自然の色彩の観察を進めてゆくと、自然界の色彩は、全体性の中にあって個性を現す。
――と、気づかされます。

 虹の色は、絵の具(ここではオイルパステル)を用い、赤色・青色・黄色の三つの色を重ね合わせ、擦ることで現すことができます。(下図参照)


虹の色

 このとき例えば、下図上のように黄色を隠したとき。
このときの、赤と青の状態を、下図下と比較します。

黄色を隠したとき
虹の色

 つぎに、下図上の赤を隠したとき。
このときの、黄色と青の状態を、下図下と比較します。

赤色を隠したとき
虹の色

 最後に、下図上の青を隠したとき。
このときの、黄色と赤の状態を、下図下と比較します。

青色を隠したとき
虹の色

……と観てゆくと、三つの色が揃っている右図と、ある一色を隠した左図とでは、色の状態が違って見えませんか。

 もっと適切に言うなら、三つの色の内、ある色を隠すと、色固有の輝きが損なわれる。……ことに、気付かれないでしょうか。
(※ここで取り上げるはなしは、飽くまでも絵の具の色のことです)

 実はこの図、ドイツの詩人ゲーテが考えた『色相環』という色の配置図を、自分流にアレンジした「虹の太陽」の図、なのですが、

 ゲーテは、プリズムを使った実験を通して、自然界の色彩の調和する姿を『色相環』という図にして示しました。

 この『色相環』にまだ出会う前……、
 主催させていただいていた子供スケッチ会に、お兄ちゃんだったかお姉ちゃんにくっついて来ていた小さなお子さんが真似て描いていた絵が……、まさに、このようだったのです。

 そのころわたしは、〝虹彩法〟の説明を、虹の形を模しておこなっていたのですが、その絵を見た瞬間、
『あー、これぞ、求めていた自然界の色彩だ!』と、直感しました。

 その後に、ゲーテの『色相環』を知り、それが〝虹の太陽〟へと進んで、現在のわたしのイメージや色やことばの橋渡しとなっています。

 この三つの色の性質の違いは、探求するほどに明らかになります。(この辺の説明は、わたしの電子書籍、〝スケッチに行こう〟で述べています)

 この虹の輪に、緑から紫に至る対角線を引いて右下の部分を隠したとします。(下図)

明るい色

すると、黄色からオレンジ色を経て赤に至る明るい色が現れます。

 それとは逆に、左上の部分を隠すと(下図)

暗い色

紫色から青を経て緑に至る暗い色が現れるのがお分かりいただけると思います。

 そしてこの図に、先述した〝時の色〟の黄色からはじまる一日の色の移り変わりと、更に、四季の変化を樹木に例えてなぞらえてみれば――、

 一日の目覚めとともにはじまる〝時の色〟は……、
 新芽の芽吹きだす、輝く春の色に、

 やがて木々の若葉は、夏の強い陽射し〝赤〟を吸収しながら、
 緑の色をぐんぐんと深め、

 秋……、懐深い〝紫〟の浸透の中で実を結び、

 星々の煌めく宇宙の深さ〝群青〟に導かれるように、
〝青〟い冬の眠りへと向かい、
 新たな〝緑〟としての芽生えを待つ。

 このときの、春に芽吹く木々の若葉の色は……、
光の表現である黄色と、水の表現である青との共働の成果であり、

 夏の太陽に焼かれる若葉は、
 その中に熱の表現である赤を吸収しながら活動を高めてピークに達し、

 秋には豊かな実りを成して、

 冬、実りは種を遺し、葉とともに、土の表現となって還ってゆく――。

 それはまるで、人生の巡りのようにも見えてきます。


〈 虹の贈り物  その2〉

 このように、ゲーテの考えた(発見した)色相環から現れるイメージを拡大解釈してゆくならば、
 虹のすがたは、太陽の内的な顕れを暗示しているのではないか?……、と見ても、差し支えはないのではなかろうか。と、勝手に考えています。

 そして――、
このことを絵の具の表現に置き換えてみれば、

 黄色は、青と交じり、自分の個性を失いながら緑という姿を得る。
……これは、青もしかり。
 赤は、青と交じり、赤という個性は失うが、紫という豊かな姿を得る。
……これは、青もまたしかり。
 そして、赤と黄色は、互いに個性は失うが、オレンジ色という新たな姿を得る。

 つまり虹の色の関係は、互いは、個性を失いながらも豊かな姿を得る。
……と、見ることができる。

 しかし、これは逆に、
相手の個性を奪い、豊かな姿を得る。……と見ることもできる。

 が、しかし、これをそのまま人間社会に当て嵌めると、紛争になる。

 そうではない。
――これはちょうど、人が、それまでの認識を棄てて、新たな認識を得る。
ことに似ている。

 つまり――、
 個性を失うのではない。
 相互に交わり合い、新たな個性を生みだしたのだ!
 
 失うことでも、奪うことでもない。創造なのだ――!

 そして――、
 先述したように、黄色という色は、赤色という色は、青色という色は、単独で成り立つことができない。
 他の二つの色との関係性においてはじめて、固有の色としての自立性を持つ。
――ことを考えれば、

 虹のすがたとは、個性の輝きあいであり、
 それは――、
 個(人=人間)から全体性(自然=宇宙)へ到る道標ではないか。

〝感動〟は、そこからやってくる。――のではないか!

 このように、
 人は、絵の具という素材(物質)を用いることで、高い認識を目指して進んで行くことができる。と、考えます。

 更に――、
 赤紫パープル(明るい色と暗い色の中間点に現れる)という色は、
 他の七色がつくる構成体を、一つの全体性へと纏めるような性質を有する。
(……このことも、電子書籍、〝スケッチに行こう〟に叙述)

 この赤紫パープルが――、
 赤・青・黄色の交わりあう虹の関係性の中から現れるとき……、
 虹の構成体は、更なる高み(深さ)へと導かれてゆきます。

 自然の力は――、
この構成体を保持することを、行うのではないか‼ 

※ここに示した内容は、あくまでも、わたしの内的要因に基づく話しであります。

 ところで、闇の色とされる〝黒〟は、この三つの要素が最大限に凝縮された姿である。とは考えられないでしょうか? 

 そのこともあって、わたしの主催させていただくスケッチ会では、なるだけ黒は使わないように、進めさせていただいております。

*


自然界の色彩は美しい調和に貫かれており、人は、自己の思考と感情という内的な力を用いて、
 この調和の中に意識的に関わりながら、
 色彩体験で得た実りを携えて、
 ふたたび何度でも、
 現実である日常の中へと歩み出て、
 内的な闘いに臨みながらも、
〝自己のひかり〟を、強化して行けるのだ!
――と、信じています。

 日常こそは、自己の偏見や囚われの渦巻く内的世界の表れであり、
僅かずつしか進んでゆけない〝試練の場〟であります。

 そして……、この色彩体験を通して会得される、
『自然界に輝く色彩とは、外なる自然ばかりを照らすのではない。
それは、自分へと差し延べられた〝光〟なのだ‼』

という認識が、
日常を取り巻く闇(不安)を、
確実に照らし得る〝ひかり〟に成る。――と、
固く信じています。

 青空の秘密は、緑の葉っぱの秘密は、その色彩の中にのみ記されてあり、
 人は、その内的な営みを通して、
 神秘の扉の向こうにある〝ひかり〟を証しつつ、
 自己の内面を強化しながら、
 全体に関わる者へと成長してゆけるのだ、――と。



※わたしの電子書籍(kindle版)〝スケッチに行こう〟では、ここに述べた内容を実際のスケッチの観点から述べています。

2005年3月初版/2011年3月二版/2022年三版/2023年6月四版/10月五版
/2024年3月六版  
                     
                                                                      2024年3月27日   瀬﨑 正人

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