結局ジェンダーの在り方はどうあるべきなのか?

正直私自身この話題はあまり好きではない。というのもこんなもの結論が出ない議論であるからである。そもそも議論(話し合い)とは何かの合意を決定する場合においてのみその役割を果たすものであってそれに該当しない議論は正直意味がないと思うのである。しかし、昨日の夜(怠惰なせいでこの日からずいぶん経ってしまった。)に友人たちがこの手の不毛な議論をしていたために、私自身も何か書いたほうがいいのではないかといった感情が沸きたてられたためである。

生物学的な男女の際というものは定義づけられているためそれ自体は不変的である。今問題になっているのは、生物学的な性と心理的な性の乖離でもあるし、またこの乖離から始まる処々の心理的複雑性である。
この多様で複雑な性のパターンに対して欧米人らしく細かく分析し、一個一個ラベリング(名称)をしている。その結果、途方もない量の名称が誕生しその複雑さに拍車をかける形となった。

名前を付けるとはつまりは知覚できるようにするということである。ホラー映画では呪縛霊が名前を付けられると存在できなくなってしまうといったような発言している作品もある。(名前を付けられてしまえば漠然とした恐怖を与えるものから切り離されてしまうからである。)多様な性に名前を与え世の中にその存在を知らしめたわけである。

名前を付けていけばいくほど本質がどんどん覆い隠されていくのだ。ここでいっかい振り返る必要がある。そもそも我々はなぜこのような多様な性に対して名前を付け知覚できるようにしているのか。それは多様な性を認識してそのような人々を社会の中に内包していかなければならないからだろう。

結論から私は新しい性に対して名前を反対である。というのも名前を付けてそれぞれを具現化したとしよう。そうなった場合の現象について私が懸念している問題が二つほどある。

一つ目は意識的な話ではあるが、今の性の構造というものは男女という大きなくくりにオプショナルなものとしてそれ以外のジェンダーが付随しているわけである。そうなると、それらが特殊的なものとして扱われてしまうのではないだろうか?本来、多様的な性を認め合っていこうという目的のもとに作られたであろうものであるはずなのに、むしろ傷物に触るかのように新しい性に対しての特殊性というものが増してしまっているのではないだろうかという懸念である。端的にまとめれば、本来の目的とは異なる結果を生んでしまうのではないかという問題である。さらに言えば、異なる結果を生んでしまったその状況をマイノリティを盾に正しいものであると言い張り、反論できなくする社会構造が出来上がる可能性があると考えている。人々は物事を二元論的にしか見れないのでマイノリティに口出しするものは反マイノリティ、つまりは差別主義者扱いされてしまうのである。

二つ目は、これは性というものは、名称によって単純に分節化することは不可能なのではないかという問題である。これは性の問題に限らずあるものに対して定義となる言葉を置いた場合のある種の言語的限界というものである。私はこれをわかりやすい例でよく色で例える。色は青や緑よりももっと細かく様々な名称がある。アイルトーンブルーといったように。しかし、この世には言葉にない色もあるはずである。しかし、私たちは言葉を用いてのみしか意思の伝達が不可能であるので、希釈して伝達するほかないのである。これが性の名称にも当てはまるのではないかという思うのである。ようは希釈された性である。例を挙げてみる。

ある人が自分の性に対して疑問を持ちネットで検索をしてみた。するとジニセクシュアル(性自認に関わらず性的指向が女性に向く人を指す。)であるかもしれないと思った。しかし、どうもしっくりこない。当てはまる部分とあてはまらない部分があるのである。どんなに調べても名前は見つからない。自分は何者なのであろうか?不安になる。しかし、今の世の中で自分の性に最も近いのはジニセクシュアルだろうからそういうことにしておこう。

これが性の希釈である。より近い性の定義に寄せてしまうのである。それでもいいじゃないかという意見もありそうではある。しかし、名称を与えることによって知覚でき、理解できるわけであるから、それを希釈して簡略化しようというのは私としては反対である。名称を与えることで性を固定化し、間にある微妙な曖昧な性(既存の性と相対化という意味であって本来ははっきりとしたものであるが)が見えなくなってしまうことに私は大きな危機感を覚えるのである。

と、ここまで二つの懸念点について書いてみた。では私は性の在り方がベターであると考えているのかについて述べてみようと思う。

なにがベターか

と軽く書いてしまったもののどういうものがベターであるかという命題に関してはすこぶる難しいのではないかという考えにぶつかったわけである。
我々の多様な社会でどのような状態が「良い」ものであるか建設的に考えてみようと思う。非常に抽象的にきれいごとを述べるなら、「このように存在する人がすべてが生きていてよかった」と思えるような社会である。これがすべての人類にとってベターな社会であると抽象的にマクロ的に定義してみる。これを少しずつ今回の主題に寄せていって、ベターな性の在り方とは何かについて考察してみようと思う。先に述べた社会の状態を求めるというのは不可能な話である。マズローの欲求五段階説をもとに少し考察してみる。(私はマズローのこの説はそこまで押しているわけではないのであるが)


生存の欲求を満たしていって段階を経ていくと、最終的に自己の在り方に目を向けるようになる。つまりは今、この性、すなわち自己に目を向けるということは人間社会が向上しているという兆しであるという風に考えられる。
がしかし、みんながそもそも性を気にしない社会のほうがより良いものであると思われる。
これはないがしろにするという意味でも、なあなあにするわけでも。より許容しあえる社会だからこそ達成できるもの。制度の中で性というものは構築されてきた、そしてそれは主体をむしばんでいる。
稚拙な私に考えられるのはこの程度である

最後に

LGBTを論じている輩に性の枠を暴力的に押し付けるものがいるように感じる。左翼的な考えを持っているものが多いせいか、そういう政治的な活動を結びつき勝手に独り歩きしておかしなものになっている感覚が否めない。
感情論ではなくもうすこし建設的な議論を展開してほしいものだ。
つまり、可哀そうだから助けようの精神で問題を解決しようとしてはいけないのだ。それは極めて暴力的だから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?