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#起業して分かったこと【前編:マイナスをプラスに】

「新しく興した会社が、3年後に生存している確立は約3割」
そういった調査結果があるらしい。

私もNEWRON株式会社を起業してから、もうすぐ3年を迎えようとしている。

起業を志していたが就職した就活友人。
学生起業したが黒字にならず会社を閉じ、就職した友達。
大手企業に就職して楽しんでいる同期。
企業に就職してから独立した起業家。

色んな選択肢を周りで見てきた中で、私は学生起業を選択した。

「なぜ起業したのですか?」

いつもその問いに言葉を詰まらせていた。

なぜなら、特別何か大きなVISIONがあって起業したわけではないからだ。

「マイナスをプラスにしたい」

ただそれだけの反骨心だけでここまでやってきた。

お金も、スキルも、コネも、そしてVISIONさえもなかった田舎者の私がなぜ薬剤師でもなく、企業就職でもなく、学生起業を選んだのか。

このnoteでは、そんな私の起業するまでの経緯と、その時の心情を振り返りたいと思う。

幼少期のいじめ。
大学生時の孤立。
ファッションショーでの赤字経験。
就職への絶望。
強姦未遂で、生死を彷徨ったヒッチハイク事件。

これらの複数のマイナスが重なり、偶然にも至った起業。
すべてがマイナスから始まった私の人生。

当時の出来事と、そこから今になってこそ分かったことを #起業して分かったこと として節々に記載している。

是非、「自分には何もない」と思っている人に読んでもらいたい。
そして、何か一歩踏み出し、行動するきっかけにしてもらえれば嬉しい。

【ダイジェスト版】起業するまでのモチベーショングラフ

スクリーンショット (339)

※本記事は、主題歌製作所「カメレオンミュージック」リリース記念に向けて製作したNEWRONの社歌公開に伴い、よりその楽曲を楽しんでいただけるように執筆しました。記事と併せてその楽曲もお聞き頂けますと幸いです。

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いじめられっこな幼少時代

小学校のクラスに大体一人はいる、「ブスでデブな、いじめられっ子」。

小1の時、私はその存在だった。
物は隠されるわ、階段から突き落とされそうになるわ、竹馬で殴られて手術するわで、それはもう大変な幼少期だった。

(竹馬に額を殴られ、三日月型の傷が残ってしまったが、「セーラームーンとハリーポッターを足して2で割った感じの傷がおでこにあります」という訳の分からん自己紹介を出来る様になったので今となってはいい思い出。もはや戦士の勲章である。)

そんな暴力的ないじめに合いつつも、なぜか登校拒否になるわけでもなく、自分の身を守るための術を身に着けようと、
空手・剣道・太極拳・柔道など、多種多様なスポーツを習い始めるという、努力の方向性がいまいち分からないモチベーションと共に、熱心に取り組んでいた。
ちなみに、その他にも水泳・バスケ・テニス・バレーなど、様々なスポーツに取り組んだが、運動神経が悪い私は、どれも下手であった。

中学に上がっても、いじめは消えなかった。暴力的ないじめは無くなったものの、見た目に対する陰口が後を絶たなかった。

当時、視力が悪くなり始めたことで黒板が見やすいように、席も一番前にしてもらっていたため、背後からの影口が気になり、冷や汗が止まらなくなるという被害妄想の一種の状態になっていた。おかげで、いまでも人前に出ると起こる赤面症が治っていない。(それを克服するために、現在は人前に出ることを積極的にやっている)

物心ついた時から、見た目についていじめられていた私は、自己肯定感が限りなく低く、
「世の中は不平等で、努力なんて無意味。見た目で人生が決まってしまうという、なんて生きづらい世界なんだろう。死んだほうがマシ。
と心底思っていた。でも注射すら怖い私にとって、自殺する勇気もない。

コミュニケーションの壁を痛感した高校生時代

そんなこんなで悲惨な幼少期だったが、死なずに高校生まで進級した。

年齢と共に、身長が伸びて、いわゆるデブからは脱却することができ、小中のような一人ぼっちの辛い学生生活は送るまい、と奮起して、自分から積極的に人に話しかけ、友達を作っていった。

友達も沢山でき、順調かのように見えた。私の通っていた高校は中学からの内部生もいる高校だったが、部活を管弦楽部と茶道部の2つのサークルをかけ持つことで、内部生とも仲良くなっていった。

でも、なぜだかどの友達もうわべの友達ばかりで、親友といえるような友達はできなかったのだ。

おそらく、今までの人生の中で人とまともに交流を取っていなかったせいで、根本的に深く仲良くなるというコミュニケーション能力が欠如してしまっていたのだ。

みんな、どうやって親友を作っているのか?いまでもその方法は分からないまま。

そんなこんなで、仲のいい友達がいない当時の私の趣味は”勉強”
勉強しかすることがなく、勉強はやればやるだけ成績に繋がるし、ひたすら勉強していた。もはや、「勉強が友達」だった。

そんな私でも、一応仲の良い、A子という女友達がいた。
その子は、見た目も可愛く、スタイル抜群のスポーツ万能で、成績優秀。ノリもいいので友達も多い。
そんな、私とは正反対で、誰からも好かれるタイプの子だったが、3年間私と同じクラスで、部活も一緒だったこともあり、一番仲がよかった。

だが一緒にいすぎたことで、A子と見た目で比べられていることを多々感じ取り(今思えばこれも被害妄想だったかもしれないが)、A子を見るたびに感じていた「結局、世の中見た目がすべて」という負のコンプレックスから逃げるように、A子とは距離をとるようになっていった。

そんな中、別で気の合う友達2人組ができた。
何度か喧嘩したこともあったが、きちんと思いを言葉にして伝えることで、仲直りした経験が出来、ちゃんと自分の考えを言語化して人に伝えることの大切さをこの友達のおかげで学ばせてもらった。

そうして大学受験の時期にさしかかった。
田舎生まれの私は、特に将来の夢はなく(というか世の中になにも期待していなかった)、行きたい進路などはなかった。
一番興味の持てる学部にいこうということから、昔からアトピーや喘息、花粉症などでお世話になっていた”薬剤師”に興味を持った。

薬学部なら、無駄に勉強してた成績も役に立つし、親が公務員ということもあり、安定な職種を勧められ、薬学部を受験し、近畿大学の薬学部に合格した。

後から知ったのだが、なんと、その距離をとっていたA子と同じ大学、学部だったのだ。

薬学女子事件

晴れて、大学進学した私は、友達100人作る勢いでいろんな人に声をかけ、友達を作りまくった末に、近大薬学部のテニス部という、いわゆる”イケイケなコミュニティ”に入ることに成功した。

しかしそこは、A子もいる部活だった。
この時、高校時代の嫌な予感が脳裏をよぎった。

もちろん地元も同じなため、大学からの行き帰りも同じに。気まずいままの関係は嫌だったので、一旦距離を開けていた高校時代のことはなかったことにして、仲良く過ごすことにした。

だが、やはりA子に対するコンプレックスは消えることなく心はずっともやもやしていた。
せっかく4年目の中で、部活も高校から大学までずっと同じ。私のくだらないコンプレックスさえなければ親友になってなっていたはずだと思いなおし、このもやもやを打ち明けることにした。

それが、テニス部の10日間もある合宿の初日の夜のこと。
今まで、A子に対するもやもやした気持ちをさらけ出した。

高校時代、「自分の考えを言語化して人に伝えることの大切さ」を学んだ私は、きっと打ち明けることで、コトはプラスの方向に進むだろうと信じていた。

が、そんなに世の中は甘くなかった。

私「A子に対して、嫉妬心を抱いている。どうしていいか私でも分からない」

と、バカ正直に伝えすぎたせいか、A子から返ってきた言葉は

A子「縁を切りたい」

という一言。

そこから、悪夢の合宿の10日間が始まった。

合宿2日目、いつも通り先輩のテニスの試合を眺めていた。
昨晩、A子との話し合いでほとんど眠れなかった私は、うたたねをしてしまっていた。
気づくと、さっきまで横に座っていた先輩たちがいなくなっていた。

A子は私と違って同期や先輩から愛されるタイプで、A子と私が喧嘩したことで、みんなA子の元へ行ってしまったのだ。

残りの合宿は、ほぼ一人ぼっちで過ごすこととなった。それはもう辛い10日間だった。

そう、この日を境に、私は薬学部の同期・先輩から無視される生活が始まったのだ。これがかの有名な(?)「薬学女子事件」である。

合宿も終わり、夏休みも明け、1年生の後期がスタートした。
その初日、教室に行くと、私の席がなくなっていた

いつもA子達と座っていたはずの私の席には違うテニス部の子が座っていたのだ。

ムカついた私は、その席に行き、「私の席は?」と直接問いかけた。(昔から負けん気だけは備わっていたらしい)

すると、「席はないよ」という返答。

マンガ「ライフ」の世界かよ…と一人で突っ込む。

入学当初の友達100人計画のおかげもあり、テニス部以外にも友達はたくさんいたので、声をかけてみたが、
「もう、話しかけないでほしい」という返答。

夏休み明けたらユニバ行こうねって約束もしてたような仲なのに…なんてこった。

そう、冒頭に話した通り、テニス部は薬学部の中で最も「イケイケなコミュニティ」であり、そこで孤立してしまった私は、薬学部全員を敵に回したも同然だった。

それでも心優しい子はいるもので、「一人なら一緒にいよう!」と声をかけてくれる天使のような子がいた。
が、後日その天使の子の親友らしき子に急に廊下に呼び出され、発せられた言葉は
「あなたが近くにいると、あの子まで被害を受けるから、もう近づかないで」とのこと。手に包丁が見えた(錯覚)。

確かに、私がそばにいると、心優しい天使にまで迷惑をかけてしまう。さすがにそれは私の良心が痛んだので、結局一人のまま過ごすことにした。

そんな孤立した中で、再び私の勉強三昧生活が始まった。

当然お昼ご飯を食べる友達もいないので、昼休み時間は一人で勉強しながらご飯を食べた。幸い、私は食べるのは左手で、書くのは右手だったため、食べながら勉強できたのだ。(どうでもいい情報w)

そんな生活をしていると、国試勉強している6年生の先輩方が勉強している部屋で私も勉強させてもらえることになり(6年生は部活動を引退していることもあってか、私の噂は回っていなかったらしい)、そこで仲の良い先輩ができ、放課後は心休まる時間を過ごすことができた。

(この勉強漬けの1年生の生活が、国試一発合格に繋がっていると思うので、薬学生の皆さん、1年生時の授業はしっかり理解しとくのがオススメです笑)

しかし、そんな心休まる時間も束の間。先輩たちは卒業していってしまい、また一人で勉強する日々が始まった。

そんな時、小中のいじめられていた時のことを思い返した。
「このままじゃ、一生負け犬のままだ。」

そこから一念発起し、私は他学部や他大学のサークルに足を運ぶようになる。「薬学部がダメなら外で友達を作ろう!」そう思ったのだ。

いつも聞かれるのが、「いじめられてたのに、なんでそんなに頑張れたんですか?」という質問。別にこの時、大それたVISIONや夢などがあったわけではない。”ただ友達が欲しい”、それだけのモチベーションで動いていた。

#起業して分かったこと
人が何が大きな挑戦し、成功を収めるには、必ずしも大きな大義名分やVISIONが必要というわけでもない。大事なのは、最後までやり切る原動力があるかどうか。

当時はmixiが流行っている時代だったので、その掲示板でサークルを探し出し、一人でいくつものコミュニティに行っていた。
そうこう行動をしていると、気づけばサークル8個かけ持っていた

どのサークルも楽しかった。が、やはり途中から入ったこともあり、メンバーとの壁を感じ、孤独感は払しょくできなかった。

そうして、「自分でサークルを立ち上げれば、孤独じゃなくなるのでは?」という仮説を立て、私は人生の転機となるイベントサークル「NoName」を立ち上げ、イベサー全盛期に奮闘することとなる。

NN屋上集合写真

人生初の成功体験、イベサー創設

8個かけ持っていたサークルに、ピエロというインカレサークルがあった。そのサークルでは、飲食店や音楽堂を貸し切って学生向けに交流イベントを実施する、いわゆるイベサー。

そのサークルで実施していたイベント終わり、一般客が入ってくる転換のタイミングで、私はある一人の女性、R女さんに出会った。
後に私のイベサー立ち上げ恩師となる人だ。

その人は、大阪のクラブやタワーマンションを貸し切ってイベントを実施している方で、その人にサークルを立ち上げたいのだが、どうすればいいかと、アドバイスを仰いだ。

なぜこんな見ず知らずの人にアドバイスを仰いだのか?
それには理由があった。

当時、自分でサークルを作ろうとしていた私は、どうしたら作れるか、色んな人に聞いて回っていた。その際、運悪く悪い大人に捕まってしまい、利用されるがままのサークルを作らされそうになっていた。

それに気づいた私は、その人とは縁を切り、集めてしまったメンバー達をどうしようかと悩んでいた時に、R女さんに出会ったのであった。

初めは、大人は信用できないという経験もあり、信用するのが不安ではあったが、R女さんはとても良くしてくれて、イベサー運営のノウハウを惜しげもなく教えてくれた。

そうして私は「関西イベント団体NoName.」というクラブイベントを企画運営する学生団体を創設した。

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クラブイベントなんて、当時未成年だし行ったこともなく、洋楽?EDM?なにそれ?という塩梅だった。ちなみに私は邦楽ロック派なので洋楽は聞いたことなかった。(ちなみにワンオクが好き)

まずは、メンバー集めに奔走した。というのも、当初集めたメンバーはほぼ全員辞めてしまったからだ。
その時学んだのは、「メンバーにとってのメリットを設計しないといけない」ということだった。
当時集まってくれたメンバー達は、「一緒に何か学生団体やろう!」と呼びかけて集まった人達だったので、明確な目的はなかった。つまり、団体のVISIONもまだなく、メンバー達のモチベーションを設計出来ていなかったのである。存在目的のない団体は一瞬にして崩壊する。

今になって思うのは、組織の作り方は2つあると思う。
①仲の良いメンバーを集めて、みんなで何をするか決めていくタイプ
②既にしたいことが決まっている中で、それに共感してくれるメンバーを集めるタイプ

おそらく私は、①の組織つくりは苦手なんだと思う。
そんな今回の経験を活かして、②のタイプで勧誘するスタイルをとった。

#起業して分かったこと
自分に合った"マネジメントスタイル"を色々試して見極める。

それからの組織形成はこうだ。

まず、学生が実施しているクラブイベント(いわゆる休日の日中に学生がクラブを貸し切ってやっているイベントのこと)に一人で足を運び、現状どのようなイベントが開催されているのかを調査した。(当時は調査とか思ってやってなかったけどwただひたすら見に行って、界隈のつながりをつくっていった。)
当時の学生が実施するクラブイベントの規模は大体200~600人程度のイベントが主流だった。

いくつか行ってみて感じたのは、「主催者が楽しんでいるだけの場」が多いということ。どこのイベントもお客さんは2分していて、主催者とその友達グループはワイワイ楽しそうで、一方、主催者に集客されたそこまで仲の良い訳でない人たちは会場の後ろでポツンとドリンクを飲んでいるだけ。

そんなクラブベントの現状を目の当たりにした私は、「せっかくこんなに沢山のお客さんが集まっているのに、普段の仲間内としか会話しないのはもったいない。」と感じ、こう考えた。
「私がつくるイベサーは、来た人全員が新しい人と出会い、その場限りじゃなく、これからも繋がれるようなイベントを創りたい!」

そんな課題感から生まれたのが、「関西イベント団体NoName.」
NoNameという名前の理由も、あえて団体名を付けないことで、第三者、つまりお客さんとの壁をなくしたいという意図から名付けた。
このポスターは、当時メンバー勧誘で使用していたチラシデータだが、「一度きりじゃない、これからも続く出逢いを!」とキャッチコピーが書かれている。

NoNameイベントチラシ

毎度のイベントのチラシにもこの文言が記載されていて、今思うと「これがVISIONを言い続けるってやつか!」と気づいた。

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その頃は、組織マネジメントの知識など何も無かったにも関わらず(VISIONなんて言葉も知らなかった)、知らぬ間に組織として大切なことをやってたんだなと思うと、下手に色々学んでしまって形式ばってしまっている今より、何も分からない中でも模索して”本当に必要なことをやる”ということをしていた当時のほうが結果上手くいっていたのではないかと思う。

#起業して分かったこと
ノウハウの型にハマりすぎると本質を見失う。
その時々に合わせて、本当に必要と思えるコトをやればいい。

こうして組織の存在目的が決まり、メンバーの勧誘に移った。
勧誘場所は、学生主催のクラブベント。当時、土日を使って週に2~3回は学生イベントが実施されている、いわゆるイベサー全盛期だった。

そのイベントで、楽しんでなさそうにしている参加者に「一緒にもっと面白いイベントを運営しないか?」と誘ったのだ。クラブイベントを主催するなら、すでにクラブイベントに足を運んでいる人に声をかけるのが早い。さらに、楽しんでなさそうな人こそ、きっと不満を感じているはずだから、そんな人たちに対して、もっと面白いイベントを一緒に作らないか?と提案をしたわけである。

そして更に意識したことは、声をかけるのを美男美女に絞ったこと。
これはどういうことかというと、若者が交流会に行くモチベーションは大体が「出会い」であるということだ。言わずもがな、イケメンや美人が多いイベントに行きたくなるに決まっている。ここは外見にコンプレックスを感じていた私だからこそ、人を見た目で精査してメンバー勧誘をしていた。
また、クラブイベントでナンパしまくってる人にも声をかけた。集客できる能力が高いと考えたからだ。

この戦略(?)は見事成功し、メンバーは関学・立命・甲南・龍谷・松陰・近大・専門学校など様々な大学から15人集まった。(下図がメンバーとの写真)

NoNameメンバー写真

そうして、初イベントにして600人の集客に成功する
とはいえ、実際集客をしていたのは、私が150人程度、イケメンでナンパ上手なメンバー2~3人で100人ずつ、他は10人ずつといった配分だ。

集客には、いかに集客スキル(見た目と話術)があるメンバーを、少数でもいいから集めることが重要ということがよく分かる。

もちろん私も、イベントはもちろん、街中、電車の中、大学の前で一人でも集客ナンパを続けていた。時には9時間外で立ちっぱなしということもあった。
その疲労で目の血管が切れたり、イベント内でのタバコの副流煙を吸いすぎて気管支喘息を発症してしまったが、熱量だけはずっと高かった。
それもそのはず、毎日朝から晩まで薬学の教室の中でボッチで過ごしていた私にとって、反骨心という熱量を保つには十分な環境だった。
当時の頑張りは今じゃ真似できない。相当、反骨心が原動力になったのだろう。

#起業して分かったこと
反骨心はとんでもない原動力になる。
が、年を取ればとるほど、行動力は落ちていく。
やりたい!と思える時にやってしまうのがベター。

集客をひたすらしたことで得た学びは、チラシを渡すだけでは0%といっても過言じゃないほど集客できないとうこと。(600枚配って、そこからの集客は0人だった)その場で興味を持ってもらい、連絡先を聞くのが一番大変だが集客に繋がる
このイベサーでの集客経験のおかげで、数秒の会話で、話す人に合わせてメリット訴求する能力が多少は身についたと思っている。

#起業して分かったこと
ナンパ力は、営業力。

こうして、私のLINE友達は1年で千人ずつ増えるというカオスな状態になり、友達上限寸前であったが、「一度きりじゃない、これからも続く出逢いを!」と掲げているだけあって、一度繋がった人のLINEを消したりはできなかった。またこの時で出会った人と何かご縁があるかもしれない、と今でも本気で考えている。(相手にはブロックされてるかもだけどw)

とまぁ、かなり泥臭く集客していた訳だが、
親友をつくるコミュ力が無くても、メリット訴求さえすれば仲間は出来るし、集客できるという経験値になった。(ただ、後にこれは悲しいスキルだということを思い知らされることになる)

とはいえ、すべて順風満帆に運んだわけもなく、初めてのイベントの10日前に幹部が辞めるという事件もあった。

理由は、私がイベサー界隈じゃ初めての女性代表だったかららしい。そ
のことでほかのイベサーの人たちに「女が代表のイベサーで、イケてるイベントができるはずがない」と馬鹿にされたようだ。その幹部メンバーは当時1年生だったこともあり、周りからそんなこと言われたのは確かに悔しかったのだろう。

その子は「お前のせいで人生めちゃくちゃだ」とまで私に言い放ち、辞めていってしまった。

私は、その子が辞めるのを止めることはしなかった。
正直、幹部(しかも100人規模で集客してくれていたメンバー)が直前に辞めるなんて不安しかなかった。が、その子を止めるためのコミュ力は私にはなかった。

その子が辞めたことで他のメンバーも辞めるかもしれない状況になってしまったが、ただ私はひたすら、直前まで集客を頑張り、最後までいいイベントを出来る様に、たとえ一人になっても成功させてみせると、根拠のない自信を無理やり作り一人で突っ走っていた。

そうしたらイベント3日前、その辞めた幹部メンバーが戻ってきた。

「やっぱり最後までやり切る」と言って戻って来てくれたのだった。
なぜ戻ってきたかは定かではないが、言葉にせずとも、行動で私の想いが通じた気がして、とても嬉しかった。

そうして無事迎えたイベント当日。
イベントというのは生もので、当日まで何人来てくれるか分からない。そんな不安で前日まで不安で胃がキリキリしていた。

その期待をいい意味で裏切ってくれ、当初200人規模のイベントだったにも関わらず600人を超える集客に成功した。会場はジラフという難波のクラブの2~3階を貸し切っており、どちらのフロアもぎゅうぎゅうだった。

NoName千人規模イベント

もちろん、人だけ集めて成功!というわけではなく、メンバーには参加者に積極的に声をかけるよう、イベントポリシーのような紙を作って共有し、誰もポツンとしない場創りを徹底した。それ以外にも、参加者同士が繋がれるコンテンツを毎度用意したりなどしてコンセプト実現のための工夫を凝らした。

イベントポリシーは手書きの紙だった。当時、PCさえろくに扱えなかった私は手書きというクオリティの低さだが、伝わればOKである。

そんな顧客満足度の成果もあってかリピーターも多く、NoName.は年に2~3回、千人規模のイベントを運営する団体へと急成長を遂げ、関西のイベサー界隈では集客力でも1~2位を争うほどになり、知名度が上がっていった。

NoName集合写真

「美男美女の多いNoName」という代名詞もつき、自分自身の外見が良くなくとも、キラキラした組織を作ることはできるんだと、今まで私をいじめてきた人たちを少し見返せた気がした。

また、難波駅のカフェにいると「かおりさんですよね?」と声をかけれたり、街を歩いてるとLINEで「いまミナミいるんすね!」と飛んでくるような勢いでミナミが庭化しており、当時薬学での友達0人時代では考えられない情景があり、いじめられっ子だったコンプレックスを少しだけ払拭することができた。

薬学部にもその噂は回っていたようで、当時無視されていた子からも、廊下ですれ違う時に「最近、サークル作って凄いらしいね!」と手のひらを返したように声をかけてくれる同期もいた。複雑だったが、頑張りが認められたようで嬉しかった。

ちなみに、団体は5代目まで継承されていった。イベサーは初代で途絶えることも少なくなく、3代目まで続けば上出来といわれていた時代なので、これだけは唯一の誇りに思っている。

そうして私の代が引退するとき、みんなから花束とメッセージが贈られた。そこには、「香織さんのおかげで、素敵な仲間と出会い、楽しい学生生活を送ることができました。本当に有難うございます!」といった言葉がつづられていた。

花束

NN引退シャンパン顔つき

この時、”場創り”という仕事にやりがいを感じた。きっとこの時の感覚が、今の仕事にも繋がってるのだと思う。

こうして、NoName立ち上げの経験は、「頑張れば、成果はついてくる世界なんだ」と思えた、私の初めての成功体験となった。

NoName引退写真

しかし、初めてのイベントで成功した時も、1000人規模のイベント団体に成長した時も、心の中にはなぜか虚無感が残っていた。


コンプレックスの増大

NoNameを引退した後、私は薬学部の4年生になっていた。
引退後、もやもやが残っていた私は、なぜもやもやしているのか考えていた。
そして、その理由は"外見コンプレックスが払拭できていなかったから"という結論に至った。

NoNameの成功体験で、行動力に対する自信はついた。だが、いくら周りの友人やメンバーに、見た目の良いキラキラするような人を集めても、自分自身の外見は何も変わらない。
結局のところ、自分自身に自信を持たなければ、劣等感は拭いきれないのだった。

そこから私は一転し、ファッションショーのモデルとしてオーディションを受けることを決意する。
外見に対して、真っ向勝負を挑んだのだ。

が、結果はもちろん惨敗
オーディション結果で、落選の通知が来た時の私は激しく落ち込み、数週間立ち直れなかった。
分かっていたことだが、屈辱な経験だった。

そんな新たな挫折経験で、私の反骨心はさらに膨らんでいった。

そうして私は、そのファッションショーを運営する団体を見返すために、再度、学生団体を立ち上げることを決意する。

それがファッション団体BFCである。


ファッション団体BFC創設

BFCは、Boys Fashion Collectionの頭文字をとった名前で(ネーミングセンスが時代を感じさせられる…)、メンズファッションに特化したファッションショーを運営する団体だ。


当時、ファッション団体が飽和している中で差別化を図るため、メンズに特化したのだ。
恐らく当時関西でメンズに特化したファッション団体は初だったと思う。

BFC5人組


といいつつ実は、BFCを立ち上げる前に女性モデルがメインの団体も立ち上げていた。

着物ファッションショー

しかし、女性モデルを束ねる団体を運営すると直面するのが、"業界の男性を接待をしてコネを作り、仕事をもらう"という世界だった。

そういった、いわゆる"カラダを売る"という当時の芸能界のリアルを目の当たりにした私は、いち女性として胸を張って出来るものではないと悟り、女性モデルは一切扱わないことを決断。
その点、男性モデルはそのような心配があまりなかったのである。

そういった経緯もあり、メンズに特化したお陰様で女性モデルと接する機会も最小限に抑えることができ、私自身が劣等感を感じず運営することが出来た。

ちなみにメンズモデルの獲得は、街中でのファッションスナップや、お得意の路地スカウトで集めていった。

ここでたまたま声をかけたひとが、某大手アパレル社員で、これがきっかけにそのアパレルとコラボでイベント運営することにもなったりした。
本当に路上での声かけは、何のコネのない私にとっては出逢いの宝庫であった。
今となっては、世間体などを気にして、手当たり次第に声をかけたりは出来なくなってしまったので、こういうのは若い時にこそできる特権だなと思う。


BFCの活動

BFCの活動としては、中之島中央公会堂で実施しているパリコレのようなドメブラのファッションショーに出場したり、阪急百貨店や神戸マルシェなどの催事場でショーをしたりしていた。

クリコレ表紙

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その他にも、FINEBOYSの編集者と繋がり、コラボ企画で掲載してもらったり、ランチパスポートでコラボ特集をつくったり。avexとのコラボイベントなども。BFCの認知度を上げるために色んな事にチャレンジしていった。

BFCランチパスポート画像

BFCファインボーイズ雑誌画像

東京のメンズノンノの本社まで営業にも行ったりしたが、当時の私の営業力では全く歯が立たなかった。雑誌とコラボするには、コラボすることでその雑誌の売り上げを数万冊レベルで上げるような施策を提案しないと、話にならなかったのだ。

今思うと、こんな小娘の面談をよく受け入れてくれたなと、当時会って頂いた編集者の懐の大きさをしみじみと感じる。またいつか、もっと力を付けてから、何かコラボできたら嬉しい。

また、私の薬学部出身というブランドを活かして何かできないかと考え、ヘルシー男子という「健康はオシャレ」といったキャッチコピーで健康を啓発する企画も立ち上げた。

スクリーンショット (336)

ヘルシー男子

コンセプト動画の撮影を、当時仲の良かった学生で動画作成会社を行っていた友人に依頼して行ない、クオリティもかなり高く作ってもらったものの、やはり拡散力がイマイチ伸びず、日の目を浴びることは無かった。
なので、良ければぜひ見て頂きたい・・・⇓

#起業して分かったこと
何を伝えたいかより、誰にどう伝えるかの方が大事。ターゲットに届かなくては意味がない。若いうちからSNSで自己ブランディングするなどして、WEBマーケティングスキルを磨いておくべき。

このように、BFCの認知度を上げることに苦戦していた私は、後にWEBマーケティングの会社での長期インターンを選び、修行を積むことになる。

BFCでの大規模ショーと赤字体験

BFCは、とあるご縁でなんばハッチの会場で2千人規模のファッションショーを運営することになった。

BFCショーステージ画像

ショーの演出家をプロジェクトメンバーに迎え、ショー自体の振り付けや音楽の選定などの企画設計を一緒に行い、モデルたちと日々夜遅くまで練習に明け暮れた。

BFCなんばハッチ集合写真


人生初の協賛営業にも挑戦した。
そうして、スキンケアブランドのスキンフードや、ナカノワックスで有名な中野製薬さんに営業しにゆき、無事商品協賛をして頂くことに成功した。

ちなみに、スキンフードへの営業方法は、いきなり店舗の店員に声をかけるという、今思うと無謀なやり方だったが、そこの店員が本社の社員に繋いでくれ、協賛が決まった。

#起業して分かったこと
何事もやってみなくちゃ分からない


衣装は、ドメブラの古着屋VOLCAN&APHRODITEさんに営業して服の協賛提供をお願いした。

BFC協賛衣装

BFCビーイズムショー3人組写真

正直、ファッションの知識ゼロの私にとって、全てが初めてのことで不安だらけだった。
服屋のオーナーに対しても異次元な怖さを感じていたが、意外にも皆んな親切に接してくれた。
ドメブラ界隈の人たちは、純粋に服が好きな人たちなのだなぁと、服屋に対する近寄りがたいイメージがガラッと変わった。人は話してみないとわからないものだ。

そうして無事、1着何十万円もするような衣装を何着も貸していただき、
演出家による素晴らしい音と光の演出によってショー自体は成功に終わった。

BFCショー1人画像


だが、ショーが終わり蓋を開けてみると、集客が足りず赤字となってしまっていた。
数十万程度の赤字だったが、当時学業が忙しくバイトもしていなかった私にとって、返せる額ではなかった。

しかし、会場提供をしているファッションショー運営元は容赦なくお金を取り立ててくる。
契約書の知識の無さをこの時初めて痛感した。

そして、当時BFCの運営メンバーもいたが、赤字になった途端離れていってしまい、一人で返済することとなった。
BFC自体、私が始めたことなので仕方のないことだったが、この時初めてお金の大切さを身をもって学んだ。

この赤字経験が、私の反骨心にまた火をつけた。
「ファッションでビジネスを成功させてやる」と。

これが私が起業に興味を持つきっかけとなったのである。

BFCショーお礼写真



このように、ここまでの私の人生は全て挫折や屈辱というマイナスの経験をきっかけに、どうにかプラスにしようと必死にもがき、行動してきた。

今回のBFCでの赤字というマイナスの状況を、どうプラスに変え、起業していったのか。
後編へ続く。


前編「#起業して分かったこと」まとめ

・行動を起こせば、何かが生まれる。
・出来る出来ないじゃなく、やるかやらないか。
・自分の身を法務的に守る術を身につけるべし
・「マイナスをプラスに」が全ての原動力

#自己紹介  





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