「ゆめみる少女」と「天気の子」から考えてみる選択とか犠牲の話

どうもHALです。大学生です。自己紹介はこれくらいにしましょうか。

8月1日。

近所の映画館は毎月1日は「ファーストデイ」で映画の料金が割引されるので、初の「映画をはしごする」という行為をしました。見た作品は「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」と話題の「天気の子」。それらの感想も交えつつ、ちょっとだけ考えてみたことをまとめておきます。ここから先は両作品のネタバレになりますので嫌な方はブラウザバックを推奨しておきます。





「ゆめみる少女」はすでに原作を読破していたのですが、アニメにするとやはりよりシーンが印象的に伝わってくるなと感じました。辛いシーンはより辛く、より感情を揺さぶるものがありました。映像表現のすごさなんでしょうか。麻衣さんの号泣シーンや朔太の苦悩のシーンは「もうやめてくれ…」と考えるほど心にきていました。(個人的には古賀に殊勲賞をあげたい)

「ありがとう」「頑張ったね」「大好き」を大切に生きていく。この映画の中心にもなる言葉なのですが、最近自分もそんなふうに言えているのか、または言ってくれるような人がいるのだろうかと考えさせるものがありました。


「天気の子」は映像や作画のすごさに関しては多くの人が言っている通り、美しいの一言でした。序盤から自分が好きなボーイミーツガールのシチュエーションをど真ん中で抉っていく(陽菜を助け、そこから仲が発展していく)ものだったのでテンションは心の中で昂ぶったままでしたし、そこから後半へと差し掛かるにつれての物語の根幹に関わっていくシーンは映像に限らず、音楽など様々な要素が合わさって感情に訴えかけるものがより大きかったような気がしています。見終わった後の心を雨が洗い流していったような気持ちは今まで感じたことがそうそうないものでした。リピートも考えてます。(「前作主人公」とかいうポジションが好きなので瀧とか三葉が出てきたのがちょっとテンション上がりました。)


さて本題です。

特に何か作為的な理由でこの二つを選んだわけではないのですが、なんとなく見終わった後に共通項を感じるものも多かったように感じます。年齢や恋愛的な要素は当然ですが「主人公が何かしらの選択を迫られる」というのが両作品とも印象的でした。

「ゆめみる少女」では自分の命か、翔子の命かを選ぶことを迫られた朔太。一度は自分の命を優先させてもその選択に大いに苦悩し、またわずかな可能性を見つけると、今までを犠牲にしてでも翔子の命を救おうとします。誰かの幸せを優先することの方に重きが置かれており、その結果なのか麻衣か翔子かの選択が彼に突きつけられることになりました。

「天気の子」での穂高の選択は正直、賛否が分かれるのは仕方のないことだと思います。陽菜か、世界か。という選択に対し、世界を変えてでも陽菜のそばにいることを選びました。どちらかというと陽菜の方が朔太や翔子に近いものがあるかなと思います。(翔子も最後まで朔太が死なない道、つまり自分の犠牲へとアプローチをしていたので)

何が正しいとかそういう議論を焚きつける気はありません。そういうのは大体答えが出ずに終わります。公の権力や世の多数派が示す正しさも多くを守れますが、絶対的なものではありません。逆に自己を優先させれば、自分が他者とつながる限り誰かの悲しみを引き起こしたり、世の中とは道を違えたり、逆行したりするのは他の様々な作品や人の考えからも読み取れます。

自分のことになりますが、「天気の子」はどこかで世界のすべてが幸せになることを願っていたので、穂高の選択に面食らった自分がいます。しかし、終わって振り返ってみれば彼を見たからこそ私は自分の弱さに気づけたのかもしれません。いいことも悪いこともすべてその総合を考えるのがいい判断で、大人なことだとちょっとだけ思ってた自分もいました。しかし、すべてを見ることはどうしても行動を鈍くする一因にもなります。穂高の選択が自分がしたいこと(もちろん朔太もそれに倣ってはいると思います)に重きを置くからこそあのように出せる力も行動もあるのではないかと考えるきっかけになりました。

選ぶことで失うもの、得られるものは変わるのでしょう。「大切にしたい何か」以外を捨て去ることももしかしたらそんなに悪い道でもないかもしれません。





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