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上澄み

CMがジャックされたみたいに、オリンピックの、スポーツの美しさを伝えるものばかりになっている。
でも、スポーツだけが救いだろうか。音楽も、お祭りも、運動会も、誰かにとっての特別じゃないだろうか。
五輪開催の裏で犠牲になったイベントが幾つもある。開催できなかった行事が沢山ある。結婚式を開けない人たちがいる。
私も、ずっと我慢している。一番の楽しみを。生き甲斐をずっと我慢している。

開会式を見てみようかな、と思って少しだけテレビをつけてみたけれど、どうしたって中止になったライブのことが頭に浮かんできてしまって、悲しくて駄目だった。
五輪に携わっている人たち皆んなが悪人だとは思わない。甲藤しながら参加を決めた人も多いでしょう。スポーツを敵とみなしたいわけじゃない。

ただ、とにかく悲しいのだ。
どうして五輪は良くて、あれは駄目なの?と思ってしまうことが多すぎる。


どんなに感動的な表現をしたところで、その土壌が貧しいものであれば、そこに根を張れるはずがない。花は咲かない。咲いたとて、貧弱である。

だから開催する人たちは、しっかりと、豊かな土壌を用意するべきだった。大切なものを見誤ってばかりいるじゃないか。
最近、「どうして大人が集まった結果がこれなの……」と思ってしまうことが多い。
大人になるなら、もっと、賢くて気概のある大人になって欲しかった。世の中にはそうじゃない人が多くて、もう私だって大人にカウントされるのに、子どもみたいに絶望してしまう。
(諦めてばかりで、愚痴ばかり言っている自分のことも、大分かっこ悪いと思うよ。)


私は皮肉屋だし、五輪に対する斜に構えた態度は昔からのものだけど。
東京五輪を楽しみにしていた両親のことを考えると何ともいえない気持ちになる。
世代にもよるかもしれないけれど、東京五輪の開催を待ち望んでいた人も沢山いるよね。そういう人たちが心から喜べるものでなくなってしまったことも悲しい。もっと、堂々と祝福できる祭典だったら良かったのに……。
私みたいな捻くれ者の言う「悲しさ」なんて、微々たるものだ。




五輪開催が巻き起こすであろう更なるパンデミックや経済悪化の可能性に対して、開会式での黙祷を見ていると、もう何がなんだか分からなくなってくるね。
復興五輪とか、コロナに打ち勝つとか、もう言葉を便利に使うのもいい加減にして欲しい。上澄みの言葉ほど人の感情を逆撫でするものはない。
中身の伴わない発言なら、もうその台詞ごと燃やしてしまいたい。



最後に、労働者になって特に感じること。税金が何に使われているのかということで、私の心は削られも満たされもする。
新卒一年目、額面から引かれていた税金諸々の額は100万円近くあった。「これが日本社会で生きていくということか……」と思わず笑ってしまった。
命を削りながら働いて稼いだお金なのだ。税金を使うということに、もっともっと真剣になって欲しい。
この五輪に税金が費やされているのだと思うと、全身の力が抜けていく。生きる気力を吸い取られるようだ。
つらい。




今夜は、Twitterを開けば五輪への愚痴ばかり呟いてしまいそうで、もうどうしようもないので、代わりにnoteに書きました。何個もツイートするよりマシだろうと思って。

捻くれた意見ばかりでごめんなさい、と思ってしまう。本音だけど。

東京五輪へのワクワクする気持ちや、応援する気持ちまで否定したいわけじゃない。それぞれに抱いた気持ちは、そのまま抱きしめたら良いと思う。

ただ、私は心が苦しい時に、こうして文字に打ち出して吐き出すことで楽になるから書きました。

二度と戻らない夏の夜をどうか健やかにお過ごしください。明日の晩は満月らしいよ。楽しみだね。

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