無人島にて。
「お医者さんが、家族を呼びなさいって言うのよ。」
だいたい朝方の親からの電話というのは、
こんな感じなんだろうと思う。
まず良い話ではない。
朝の5時だったけれど元々よく眠れない生活だったので起こされたことで腹を立てることはなかった。
だけど聴いてた音楽が中断されたことのほうがモヤモヤした。
あのとき何を聴いていたのだろう。
理由はないけど、覚えておけば良かった。
ニ時間後母親と妹二人と僕が集まって、
その五日後に亡くなった。
医者は一週間以内だと言っていたので、
生前「あまり長生き出来ないと、若い頃占い師に言われたことがある」と言っていた本人の話より正確だなと感心した。
そんなことに感心するなんて、
不謹慎だったなと今は思う。
妹たちはたくさん泣いた。
僕は泣かなかった。
小さいころから泣かないように躾られたからかもしれない。
近い人の死の経験があまりなかったからかもしれない。
亡くなったときはそんな冷静なところもあったが、
医者から延命するかどうか尋ねられたときは泣いた。
いつ以来だろうというくらいだったと思う。
気分が高ぶって声が出せないほどだった。
一年ほど前から認知症を発症していた。
少し面倒な症状が続いていて、
母親も倒れてしまうのではと心配なほどだった。
渋い顔をする医者に頼んで薬を処方して貰った。
「血管が脆くなって、長生き出来ない可能性がありますよ。」と言われた。
その時はそれでも良いと思った。
同じ時期にお小遣いをあげた。母親の話だと大変喜んだそうで、
本人は考えた挙げ句自転車を買ったと聞いた。
今回の連絡受ける数日前に、
その自転車で出掛けて転倒した話を思い出した。
「脳出血です。広範囲なので処置が出来ません。万が一助かっても、人格含めて元の状態は期待出来ません。延命はどうしますか?」と医者に問われたときに、そのふたつのエピソードを思い出した。
ああ、僕が殺してしまうんだなと思った。
亡くなるということよりも、自分が殺してしまうことに泣いた。
たぶんそういうこと。
酷い人間だと思う。
今でもそう思う。
あれほど仲の悪かった母親も泣いていた。
後からやってきた僕や妹たちの家族も泣いていた。
それでも僕は泣かなくて、
やっぱり酷い人間だなあと少し自分を眺めるように考えた。
集まった人たち皆が泣いていた。
僕は泣いてる皆を眺めながら、
最後の言葉を思い出す。
意識があったりなかったりを繰り返してるなか、母親の「痛いとこある?」の問いかけに「うるせえよ。」の言葉を最後に残してくれたのは、きっと僕をあとで笑わせようしてと言ってくれたんだと勝手に思う。
好きとも嫌いとも言いきれない関係だった。
亡くなってしまえば、なんとなく良い人になるのは狡い。
いつからお父さんと呼ばなくなったんだろう。
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