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枚方ちょっと歩き 他 (RICOH GRIII)

 今週末は、まだ行ったことない枚方の献血ルームを予約したので。
 日曜日にちょっと覗いてみたいイベントもあったから、土曜の動きは軽めにしよう……と思いきや、天気予報見ると日曜が雨だ。まあ仕方ない。


 枚方のじゃないけど、普段持ちしてるGRに入ってたウマゴヤシ。私の好きな花です。

 といいつつ、「ウマゴヤシは葉の付け根にトゲのようなものがある、コメツブツメクサにはない」という話で、これよく見るとコメツブツメクサだな……。

 それとレンゲソウでいっぱいの畑を見かけたのだが、レンゲソウはマメ科だから根粒菌がついて、空気中の窒素を固定してくれるからこうするらしい。前にムラサキツメクサでいっぱいになってた畑を見かけたのもそれか。

 見かけるような見かけないような花があったので撮って確認すると、ノヂシャというのだった。食えそうやな、と思ったけどやはりヨーロッパじゃ食べるらしい。

ここから枚方

 天気もあんまりよくなかったので、ブリーチバイパスで撮ってみる。

 枚方はかつての東海道の宿場町で、江戸時代に村年寄と問屋役人をやってた小野平右衛門というひとの屋敷が残っていた。とはいえ、この屋敷自体は幕末に建て替えたものじゃないかと。
 たまたま家の方が表にいらして、今も人が住んでるらしい。

 枚方宿の東端は天野川で、ちょうど先日下りてきた磐船神社の方から流れてくる。

 東海道が天野川を渡るところにはかささぎ橋というのがかかっていた。七夕に牽牛と織姫が逢う時には天の川にカササギが群れ集まって橋となる、という話からその名前になった。
 明治の頃は京街道が国道だったのが、ちょっと下流に国道が引き直されて橋も移ったのが昭和7年。この時に鉄橋として架けられた。
 昭和30年代にどんどん自動車が増えて、今の国道1号線の枚方バイパスが昭和41年に開通。それに伴って旧国道は府道13号線に変更されたけど橋はそのまま使われて、架橋から60年ほどで平成に入って今のものに架け替えられた。親柱など一部が遺構として残されている。

 街道伝いに駅まで戻ってきてみると、なにやら橋の跡があった。今では暗渠化された安居川というのが駅近くを流れていたそう。
 今でも安居川ポンプ場というのがあるから、下水道とかでまだ使ってるのかな。

 ここから献血時間。
 枚方の献血ルームは、やはり小さめのところでキャパシティも控えめ。駅ビルの建て替えかなにか予定されてるのだろうか、同じ建物の他のテナントなどがみな出てしまってるようだった。献血ルームも遠からず移転かな。

 万年寺山周道、という道に入ってみると、岡東公園に冬アジサイが咲いている。といいつつ咲くのは今だから英名スプリングエンジェルであるそう。
 岡東公園には、明治の頃までは日枝神社があった。なんか大津の日枝神社から、洪水ではるばる御神体が流れてきたから、ちょうど裏鬼門にあたるここにも祀ろうということでできたそう。明治に廃されて近くの意賀美神社に合祀された。

 隣の一乗寺。
 戦国時代まで、もともと枚方は本多政康という国人が治めていたそうで、その菩提寺だったのがこのお寺。日枝神社は氏神だった。
 枚方は百済が滅んだ時に王が逃れてきて住んだ土地らしく、天野川を渡った向こうにも百済寺の跡がある。枚方の本多氏はその末裔であるそう。

 もうちょい西に行くと、丘の上が意賀美神社になっている。意賀美神社って岸和田とか泉佐野にもあるから、なにやら名前だけ馴染みがある気がするな。
 高龗神を祀ってるからオガミ神社なんだけど、どういうわけか、意賀美神社というのはもっぱら大阪にあるらしい
 同じ祭神だと大抵は貴船神社になる。逆に大阪府下に貴船神社はあまり有名なところはなく、住吉大社の末社くらい
 もちろん高龗神社となることもあるんだけど、タカオ神社とするのが宇都宮を中心とした北関東がほとんど、タカオカミ神社とするのが鹿児島と千葉。そして大阪の貝塚市にも脇浜戎大社と一体化してるのがある。
 えらく地域差が出てるのはなんでだろう。

 昼間にあえてISO感度上げまくると独特の写りになって面白いぞ、と聞いたので突然ISO51200にしてみた。多分やり過ぎ。

 もともとここには須賀神社(近くの三矢村・枚方村の鎮守)があり、隣接して万年寺があった。万年寺の方は神仏分離で廃され、明治25年に枚方尋常小学校ができた。
 明治の末には、伊加賀宮山(地名から見てもしかしたら今はひらかたパークになってるかも)にあった意賀美神社に、須賀神社と日枝神社を合祀し、この須賀神社の場所に遷座した。須賀神社は場所を奪われたみたいになってるけど、なんか社格とかあったのかな。

 忠魂碑が、なにかの砲身をリサイクルしたものだった。

 西側に、「御茶屋御殿跡」というちょっとした広場があった。
 そしてここが枚方尋常小学校だった頃、工事で銅鏡が出土して古墳だったと判明。さらに平成17年になって石棺が見つかった。葬られた人の骨まで良好な状態で見つかり、また石棺の中に川原石を敷き詰めてある独特なものだったとのこと。でも骨以外は何も出なくて、埋葬者が何者かはヒントもなかったらしい。

 御茶屋御殿は、秀吉が伏見と大坂をよく往復していた頃、中間のここが休憩によかったんだろうか、1595年に「御茶殿」というのを建てた。
 江戸時代にも残って、秀忠や家光が利用したこともあったらしいけれど、1679年に火災で失われてからは再建されず。

 秀吉がそういう場所にするくらいには、本多政康も豊臣政権下でよく扱われてたらしい。娘の乙御前が秀吉のお気に入りになって、御茶殿も彼女を住まわせるために建てたという話もあるくらい。
 それゆえに義理堅くしてしまったのだろうか、大坂の陣で豊臣方についてしまって滅亡。居城の枚方城はすぐ南にあったらしいが、廃城になって今や何一つ跡形もない。

 枚方公園駅の方へ歩いてくると、名も無い(地図で見たら小規模公園243なんて書いてる)小さな公園だったけれど、ネモフィラがよく咲いている。手入れされてるなあ。

 ダイミョウキマダラハナバチというらしい。

 ブルーアイビューティなる菊が隣に。他にも色々植えてあった。

 こんな小さな公園が、なぜこんなに豊かに手入れされてるんだろう。

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