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形而上学的素領域理論と私の関心

保江邦夫氏の「神の物理学」を読んでいる。なぜ、今までずっと私が関心を寄せていたのかがはっきり分かった。

湯川博士の素領域理論について保江氏は言う。

物理学を離れ形而上学に参入するならば、完全調和のみの真空の状況はまさに神の世界、あるいは神そのものといってもよいと述べておいた。「真空」を「神」と呼び、また真空が示す様々な性質の幾つかを「神意」や「愛」対象を広げた「素領域理論」を「形而上学的素領域理論」と呼ぶならば、そこでは「真空」を堂々と「神」と呼ぶことも許されよう。「神」の完全調和が自発的に破れて生じたものが「素領域」であり、従って「素領域」そのものは「神」ではない。一つの「素領域」は「神」である完全調和の中に「存在」するため、「神」である完全調和に接している。つまり、「神」である完全調和はどの「素領域」の様子も、それを取り囲むようにして「知る」ことができると考えてよい。
理論物理学の範囲においては、素領域理論は「素領域」の部分にのみ着目し、それらすべての素領域の集まりを「空間」と考えてきたため、各素領域に接している素領域の外の部分である「神」についてはなんら言及してはいない。だが、形而上学的素領域理論においては、すべての「素領域」をその中に「存在」させ、どの「素領域」とも接している「神」としての完全調和自体に考察の重きを置く。そこでは、「空間」の構成要素である「素領域」のすべてはそれに接する「神」によってその様子を「知られ」ていることになるが、その状況は「神」がそれぞれの「素領域」を「神の覗き穴」として「空間」の中の至るところに配置して「空間」の中に繰り広げられる自然界の現象を「監視」していることを示唆している

これを森敦の「意味の変容」では

一歩を進めて、内部思考が自明とされる『未ダ生ヲ知ラズ。焉ゾ死ヲ知ラン』といえるとき、これを外部思考に変換し、対偶命題をとって『既ニ死ヲ知ラバ何ゾ生ヲ知ラザラン』といえる。言うまでもない、『未ダ生ヲ知ラズ。焉ゾ死ヲ知ラン』は境界がそれに属せざる領域で内部であり、『既ニ死ヲ知ラバ何ゾ生ヲ知ラザラン』は境界がそれに属する領域で外部である。ぼくは主観はわからないと言った。しかし、極致としての主観はわかった。『未ダ生ヲ知ラズ。焉y死ヲ知ラン』がこれである。ぼくは客観はわからないと言った。しかし、極致としての客観はわかった。『既ニ死ヲ知ラバ何ゾ生ヲ知ラザラン』がこれである。これらの対決において、ぼくは主観客観の一致を考える。
「そうだ、きみは内部と外部が対偶空間をなす、と言おうとしているんだな」

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と言っている。ここで、ずーっと関心を寄せてきた境界への意味が解けた、ここを理解するためだっだのだ。

保江邦夫氏は続ける

特に、「今」しかないそれぞれの素領域に完全に同期した時を刻んで時間の流れを生み出す働きは、どの素領域にも接している「神」としての完全調和がなければ生まれえない。
その上で、「神」はそれぞれの素領域に生成される復旧エネルギーとしての素粒子の動きを、「神」の中での素領域の分布を変化させることで量子力学の法則に従っているかの如く操っている。即ち、この世界は完全に神の手中に置かれた素領域の全体としての空間の中に展開される、無数の素粒子の運動が物理法則という名の調和の下で奏でるシンフォニーに他ならないのだ。

岡潔は「春雨の曲」第七次稿では湯川博士の「復旧エネルギー」を「造化の放送」と言っている。また、「いとし子」という表現は保江氏の「ハーモニー」に通じるのではと思う。

造化と云うものがあって人が自然と思って来たものは造化の放送し続けているテレビであること、大自然の実相は、人は皆造化の二主神のいとし子であると云うに尽きる。

保江氏の「神の物理学」の数式群もあまり違和感なく読めた。万物は虚数だと言う、私が関心を持ち続けていた、吉田武の「虚数の情緒」もこのために私の本棚に収まっていた。

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