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 偶像の支配者 Time Eater

 猛毒にレイプされている日々は
 僕らの自尊心を奪い取った
 理想にレイプされている日々は
 僕の生きる希望を毟りとった

 Someday

 僕は空っぽだった。なにもしなくても、職業がそこそこ売れてるシンガーソングライターということもあり、娯楽費含め生活費が印税というやつで手に入るのだ。創作のモチベーションは常に現状の苦しみであって、こんな満ち足りた日々では全く以て創作に結び付かず、なんにも湧かなかった。発散したいことも誰かに伝えたいこともない。一日一日を食い尽くしていくのみだ。

 深夜、外に出た。昼間は日差しが暖かかったが夜は風がすうっと通り抜け、心地が好い。走るには最適な温度だと思った。此処は兵庫県、三ノ宮まで電車で十分程度。僕の住むところは海が近くて、すこし潮の香りがする。
 人通りのない道路を歩いてお気に入りのラーメン屋を通り、こんな夜中にも明かりがついて人が談笑しているのだから全然孤独じゃねえなと思い前を向いて、小学校を通り過ぎ、徒歩十六分。目的の公園に到着した。
 僕は入ってすぐにあるベンチに座って、靴紐を結び直す。煙草を二本吸う。スニーカーがよく馴染んでいるか、つま先を地面に弾ませて確認する。うし。走るか。

 走っている時に聴く音楽は至高だと思う。どんな時よりも瑞々しく身体中に染み渡って響く。初めて聴いたときの鮮烈さを感じる。とても、気持ちが、いい。
 走る速度を早める。夜だし、景色の見栄えはせんけど、びゅうんびゅうん、視界が変わっていく。どんどん僕は大気をかき分けて、前進していく。僕によって、風が発生している。
 あー。どおでもいい。全部。全部思い出せない。誰かの期待とか、社会不適合者だとか、理想の僕のこと、煩わしい親族たちのこと、日々の生活のこと、とか、もう僕の心情全部。全然違う世界のことだった。目の前、今、公園で走る僕だけが世界のすべてだと理解する。
 はあ。頭がふーーっと軽くなって、幽体離脱でもすんじゃねえかって、そんな感覚を憶える。息が切れて、はあっ、あ、今のメロディめっちゃ良いな、はっ、もう、あー、走れない、止まりたい、は、まだ、止まりたく、ない。

 Day One

 僕の意識が浮上する。
 まばたきをしようとする。まぶたと下まぶたがくっついてるのがわかる。うすくて粘着力のあまい糊を貼り付けたみたいな感触。寝ている間に目やにと涙がまぶたを繋ぐ。僕はそれを剥がす。何度もまばたきをしてみる。
 iPhoneの画面をひらいて、通知をみる。だだーっと半透明の白い四角が並んでいて安心する。僕の好きな人たちが生きている証拠と僕に対するリアクションがあることに。
 昨夜予定以上に走った疲労が体全体に残っていて、ずーんと身体が、特に脚が、重い。一度起き上がることを諦めてもう一度iPhoneをひらく。この時間が無駄だとわかっていても。僕は、今、眠るよりも起き上がり、一日を開始したかったのに。

 結局、二度寝した。重い。いつもの体の怠さや重みではなく、局所的に体が潰され、僕にのっかってるみてえな。
 「おお。おはよう、僕。」
 僕の上におるのは見知らぬ男。
 「は?」
 そいつは呑気に煙草を吸っている。いつものうっすい煙の匂い。僕の煙草じゃねえか。
 「よお。」
 目が合う。やけに二次元的な見た目をしている。複雑な髪型をしており、髪色が黒とくすんだ黄色にすこし緑を混ぜたような、派手なメッシュ。なんとも説明がつかないが、短い後ろ髪を縛り、耳の上の大きく外にはねた髪がそいつが頭を揺らすたびにぴょこぴょこする。今流行りのキャラクターのコスプレかなんかか? それにしたって、人間離れした顔面構造だし、それなのに何故、なんで、実体がある。
 「あー、こほん、今のお気持ちは! 山本くん!」
 どうして僕の名前を知ってる。
 「はあ? 誰? 何。夢? 不法侵入」
 そいつは勢いよく手を広げた。ので、がつん、つって横の壁に手を打った。いちち、と呻いて
 「僕っすよ僕う! 山本弘樹、ほらおんなじ、や、ま、も、と、ひ、ろ、き、じゃよっ」
 と自己紹介染みた事をほざく。
 「……何言っとるんか全然わからん。重いからどけよ」
 僕が言った通りにそれはどいた。口元からは尖った細かい歯が覗き、気持ち悪いほどに口角を引き上げて笑っている。
 「ははあ、山本くんはこの僕が期待しとったより物分りがわりいなあ?」
 そいつがベッドの余白に座り、スプリングが軋んで脳が上下に振られて気分が悪くなる。現状の整理がつかない。ただ、こういう煽り口調には心当たりがあった。
 「本当に。僕。」
 奴は弾ませていた身体を止め、無表情になった。
 「そうそう、だから言ったじゃないすかあ、僕だって。なんでそんな機嫌悪いん? 何、寝起きじゃけんそうなっとん?」
 うはは、と唾を吐くように奴は嗤う。
 「……躁状態の僕みたいじゃな。」
 そいつは僕の顔を覗き込んで、顔面に対して違和感があるくらいにでかい目をぱちくり、つって瞬きをする。それから勢いよく顔を離す。呆れたように溜息を吐く。
 「まあそれは知らんけど、ともかく僕は理想の僕ってわけですねえ、はい」
 理想? 僕の理想の具現がこれ?
 「それ、その 「はい」 てオタクみてえだから辞めたんに、理想の僕がそれゆうの?」
 それは首を傾げ、うーん、と唸って腕組みをして、手のひらを返して、わかれよ、つって大袈裟に腕を動かし、また首を傾げ壁を見たり、天井を見たりしながら、
 「ん? あー、そうじゃなあ。説明するん、むずかしい。端的に言えば僕自身の理想。てだけじゃねくて、みんなのおもう、感じてる、山本弘樹の部分も 僕、持っとるから。そんでえ……かなあ。」
 と答える。みんなは僕がこんな害児みたいな挙動する派手な見た目をしたオタクだと思っとるんか?
 「みんなは今でも僕がこうだって、思っとるん。」
 「いや?」
 奴は首を傾げる。さながら子供のように。
 「そんじゃあ何、」
 「僕が表れるってことはあ、」
 俺が喋ってるんだよ。
 「本来の僕の存在が薄まってるってこと。なんよ? みんながお前のこと、意識しなくなってる。理想の僕を、求めてる。」
 何言ってんだ、こいつ。
 その一方で、無意識にその言葉を信じてしまいそうになる。みんなは僕のことなんか見てなくて、僕の最高のパフォーマンスとそれぞれの欲望が叶われることだけを期待してる。表層的な僕だけをみて、勝手に僕を求めてる。みんなが、作り上げた僕。理想がやってきたのだ。
 そんなの、御免だ。
 「みんながほんとうの僕より僕の方を必要にしてる。僕はみんなの期待に応えてえし? そんで来たんよ」
 ふふん、と鼻息なんか鳴らして奴は言った。こいつを呼び起こしたみんなを僕は憎んだ。
 「それで。何。僕を殺しにでも来た?」
 奴はまた全身の動きを停止させ、これが結構気味が悪い、そして前触れもなく突然笑い出す。
 「ははッ、ふふふ、あはははははは、はは、ちゃうちゃう。そんなあ、ねえ? 物騒な事しにきた訳じゃねえって! なあ。」
 そいつが僕の肩を痛みの余韻が残るくらい二度叩いてからぺたりとそこに手を置くので僕はそれを払う。
 「僕が怖いん?」
 真剣な声色が響く。まずはこいつの出方を見よう。それで、隙があればすぐに殺してやる。殺すといっても、実体はあるにしても、生物から産まれた生物、という訳もなさそうだし、こいつを消す方法は難儀になりそうだ。僕は好き勝手日々生活を繰り返しているがこんな事に付き合ってられる程暇じゃない。めんどくせえな。
 「僕の発生は僕にもわからん。」
 奴が声のボリュウムを下げて言う。一瞬何の話かわからずに考えてみると、それは僕が知りたい事だった。このまま無視をきめこみたかったけど、僕の好奇心はいつも抑えられない。
 「……てゆうのは?」
 「きになる?」
 前のめりに僕の顔を覗き込んでくる。反射的に、気持ち悪くて虫を払うみたいにそいつの顔面を押しのける。そう言うってことは、本当は知っている?
 「嘘なんか。」
 奴はすーっと音を立てて短くなった煙草を吸い、
 「嘘じゃあねえよ。」
 ふわりと白く濁った煙を吐き出す。ベージュのベッドシーツにこぼされた灰を発見する。こいつ、灰皿の存在わかってんのか。
 「僕はほんまに何も」
 「おめえを殺したらさあ。僕って殺人容疑で逮捕されるんかな。」
 ちょっとばかりは脅せたんじゃないか。奴は特別動揺した様子は見せずにかくんと首を傾げた。媚びてるみてえだ。
 「僕が死んだらきみも死ぬんじゃねえの?」
 なんとなくこいつの挑発に乗ってやろう、と思い立つ。
 「なあ 山本くん。お前は死ぬのが怖い?」
 また、爬虫類のように虹彩がでかく瞳孔の小さい眼球を無表情に ぱちくりとさせて、そいつは口角をあげた。
 「それはきみと同じよお。死ぬのは怖くねえ。じゃけど、後悔したまんま死ぬのは、受け入れられん。」

 腹が立つので煙草に火をつけ、そのまま朝飯を作ることにした。手を使わず唇でぶわっと煙を広げるのは悪くない。なんとなく、おっさんぽくて良い、と思う。
 「ヒロキくん、実在してない割には質量とか、そうゆうの、あるよな。」
 自分から話をふってしまった。悔しくて乱暴にがしゃがしゃと音を出してマヨネーズとソーセージとホウレンソウをぶちこんだフライパンを揺する。
 「そりゃそぉうじゃ。だって、存在しとるもん。」
 「存在。なあ。」
 いまいちピンとこなかった。それは理由になり得ない。このままでは納得はいかないが納得のいく答えがない事は理解していた。それでも、知りたい気持ちで口が開く。
 「あー……出生は分からんとして、も。自分が何者かってのは、分かるんじゃろう? 僕を名乗るくらいじゃし。」
 あっという間に僕の朝食はできる。ほんとはもっと時間稼ぎがしたかった。
 「んん。まあ、たしかにそうじゃなあ。僕の頭によう残っとんは 「概念」 ってこと。僕は僕自身じゃないってこと。よおく分かっとる。それでいて、みんなの、佐藤さんとか石井くんとか秋山とか晴時とか、仕事先の人とか、僕のファンとかが 「おもう」 、僕。と、僕自身が思い描いてる僕。を担ってるの。」
僕はフライパンから炒め物を皿に移している最中で、床にべちゃりとホウレンソウを落としてしまう。
 「僕があ?」
 そんな事言われたって、理想は今の僕自身だ。常に成ろうとしている最善の僕でいるし、本物なのだから。奴は大きく手を広げた。僕と同じで身長百八十二センチあるのだろうか、やたらと図体がでかく見える。
 「そ。理想でありい。自由奔放な僕。僕が僕のありのままと羨望する事すべてできる。まあ、他の人と関わる事はまだ僕には難しいけど。」
 ティッシュでさっきこぼした食物を拾う。油が残っている事に気付き、ごみ箱に捨てた後もう一枚ティッシュを取り出してふき取る。
 「何じゃあ、それ。じゃあ、願えば長澤まさみとも結婚出来るってことか?」
 「それは無理」
 だろうな。
 「じゃあ僕のこと殺せる?」
 引き出しからフォークを取り出す。顔をあげると包丁がぶら下がっている。見慣れたキッチン。
 「べつに、僕はあ みやけくんのこと殺してやりてえなんか思っちゃねえし。」
 朝飯冷めちゃうよ、と奴が言う。
 溜息がでる。こいつと会話するなんて異常者のする事だった。所詮幻覚だ。飯を食って、コーヒーでも飲んで、冷静になろう。皿を持ち上げ、リビングへ移動する。
 「害がねえならいい。取り敢えずここ僕んちだから、帰って」
 とさっき無意味だと思考したはずの僕が口を開いていて、奴が ええっ? と派手に声を出し僕の目の前を遮りおおきく手を振った。テーブルに皿を置いて、傍にあったギターを引っ張り出してスイングしかける。
 「ぅおいおい、僕は、はるばる岡山のばあちゃん家から、来てやったんやぞお?! つうか、僕の部屋なら僕の部屋じゃし僕の家じゃろおっ」
 手に握られた弦とネックが痛くなって、力が抜けていく。
 「はあ? ばあちゃんちで発生したん? おめえ」
 待て待て待て。情報を急に増やすなや。
 「そりゃ僕もビックリよ。ともかくヒロキちゃんは岡山に住んどるんよ。まあ……ねえ、荷物無さすぎて暇だったけえ」
 僕の頭は左右から交互に叩かれてるみたいだった。
 「……そんで来たん?」
 「来た。」
それが当然の事だという様に奴は言った。
 一体じいちゃんばあちゃんは、突然室内に発生した僕を名乗る生命体を不審に思わなかったんだろうか。

 いつも通りに焼きあがった食パンにかじりつく。譲れないはずの四枚切りが分厚すぎるような気がする。共にモカエキスプレスで作ったコーヒーをお気に入りのマグカップに入れて飲む。いつもの深煎りではなく最近流行りの浅煎りを買ったけれどこの器具と相性が悪いのか、あまり美味しいとは言えない味だった。舌がざらざらする。すこしだけペットボトルの水を入れる。
 七口で食パンを食い終え、僕はごちそうさま、の意で手をぱちんという音を出して合わせる。それから、はあ、と息を吐く。
 「帰れ」
 そいつの首根っこを掴み、ベランダに向かって押し出していく。鍵を開け、そいつを柵に押し付ける。先程まで奴は黙ってベッドで絵本を読んでいた。
 「うおううおう、僕という友人を二階のベランダから突き落とす気か! しんじゃーう、僕、死んじゃう」
 わたわたと長い手足を動かして奴は抵抗した。抵抗が本気ではない事に、腹が立った。
 「友達じゃねえしうるせえし、死ねとは言わん、僕の眼の前から消えろ」
 こちらの目をじっと見るヒロキくんは好戦的にみえる。奴の目はらんらんと輝いていて、山吹色にちょっとだけ緑を足して明るくした、猫みたいな目。
 「ははは、おめえの暴言しか周りには響かんぞお、精神異常者めえ! ばーかばあか」
 すっかり力の抜けた僕は手を離す。
 「ファッ、ク」
 僕が負けたみたいだ。こんなクソ野郎に。
 「おぉ。ははあ。やっとわかったあ? これ、夢じゃあないんよお。」
 またかくんと首を横に倒す。どこか人形じみたように思う。
 「ふざけんな」
 「ふははは、僕は嘘つかない、しょお?」
 尖った歯をきらめかせて、また僕を覗き込む。奴を睨みつけたまま動けなかった。
 そいつはふふん、と鼻息を鳴らしてベランダから部屋の中に入っていった。奴が部屋に入る時、僕の体をすり抜けて、室内に入った。気がした。突然自分の体の重みを思い出して頭の先からいっぺんに温度が下がる。
 あ? そもそも、なんでこいつと会話しているのだ。こいつがいるから、構わなければいけないみてえに僕が従ってるみてえじゃん。腹が立つ。
 「じゃあおめえ家にずっといんの?」
 顔を上げてこちらを見る。無垢そうな瞳。またすらすらと僕の口はついて出る。元来お喋り好きな僕。
 「徘徊してきた方がい?」
 外。こいつが外に出て彷徨く。そもそも、他人にこいつは視認されるのか? それとも僕にだけ見えるのか? こいつが僕の姿をして奇行に走り僕が代わりに逮捕されたりなんかしたりしたらそれこそ屈辱的だ。
 「無害なんよな。僕の皮被ってうろつく訳じゃあ、まだ。」
 まばたきをひとつして、「僕」 はやや考え込むように間をとってから
 「まだ、ねえ、かな」
 と言った。もう考えるのが面倒で、僕の思考はこいつを家から追い出すことにシフトした。
 「……行って、こいよ」
 「はあーい」
 それはあっさりと行儀の良い返事をして、ベッドを弾ませて立ち上がり、置きっぱなしになった絵本を本棚に差し込み、廊下へ出ていった。ドアの開閉音はしなかったが、足音と気配は消え去った。なんとなく、後ろめたい気持ちになった。
 あいつは本当に表れたのだろうか。また、僕の前に現れるのか。
 いつあれが戻ってくるかわからない。また茶化されまくる、邪魔をされるとおもうと 焦燥感で何も手がつけられなくなった。僕にはやるべきことがあるはずなのに。何も思いつかない。

 特に困ってもいない食材の補充の為に外へ出ることにする。スーパーには昨日行ったばかりだった。
 おもてに出ると、室内のねっとりとした空気から解放され、漸く満足のいく呼吸をすることができた。ばかげて明るい空。こんな日には雨でも降れば良かったのに。僕は階段を軽やかに降りる。財布と買い物袋を忘れ、駆け足で自宅に戻る。
 いつもの町の景色。反対車線の歩道を通り過ぎる歩行者。あ、あれ僕だ。と掠める気も幻覚に過ぎず、そんな意識過剰な自分に辟易してまた歩を進める。今日はクソ辛えカップ麺を買うていこう。
 「ファック」
 久しぶりにくしゃみのふりをしたファックがでた。

 買い物から帰るとそいつは居た。
 「おかえりい〜」
 呑気に爆音で音楽 (無論、僕の大好きなアーティストの曲 ) を流し散らかして踊っている。自分におかえりを言われるなど気色が悪い。
 「やめろやめろ! 近所迷惑」
 「ええ〜? こんな平日昼間に家にいるやつなんかおるう?」
 こいつが挑発的なのは一体何なのだ。みんなのおもう 「僕」 はそうだという? 鬱陶しいにも程がある。
 「まあそう怒んなって。楽しいんよ。楽しいが僕のポリシーよ」
 「滅茶苦茶なこと言うな」
 だせえこと言いやがって。僕はスピーカーのコンセントを引き抜く。
 「あーッ! どうして僕の嫌がらせみてえな事ばっかしよるん! 僕の事、きらい?」
 「興味がない。」
 「ふうん。まあ、ええわ。」
 奴はその場ですとんと座り込み、あぐらをかく。鏡の隣、鏡越しの僕と今朝方生誕した 「僕」 の視線に、体がしめつけられる感覚がする。
 「もうなんか疲れたわ。寝る。お前どっか行ってくれん?」
 はあ。こんな日くらい、溜息吐いたってゆるしてほしい。
 「ええ? さっきまで外出とったんにい。おめーの為を思って、よお? それなんに、ゆうきくんだって外でちゃうし」
 「しかもこの部屋、ワンルームじゃし、それは無理なお願いって、わからん?」
 いい加減こいつは黙ってくれんのんか?
 「お前がここ来る前の生活に戻るだけだとおもえば?」
 「生まれた時の記憶なんかないじゃろ」
 馬鹿みたいに真剣な顔。
 「は?」
 「生まれたときの記憶なんかない。既に僕は発生していた。そうなったとき、死を選ぶこともできる。なあ、みやけくん、僕が生を受けたとき、死を選ぶとおもう?」
 急に会話を差し変えられ、違う思考回路を扱うように要求され、僕の脳味噌はフリーズした。
 「は。」
 それから。僕は選ばないと思った。でも、応えるのは癪に障るので黙った。
 「わかってんじゃん。」
 僕の脳みそは「僕」に筒抜けらしく、言葉を抑えたのも無意味だった。そんで、僕はベッドの羽毛布団をはがして、横に倒れる。
 「つまんねーの。」
 暇つぶしの相手が僕しかいないなんて哀れな奴だ。

 奴がいびきをかく音で目覚めて、奴に掛布団を被せてあわよくば窒息死を願い、友からのメッセージを確認し、iPhoneから電話をかける。
 「晴時」
 僕の通話したい、の一言で電話に応えてくれる晴時。なんでも頼れるのは晴時だけだった。小学校からの同級生。なんでも、話してきた。
 「なに」
 のんびりした声。僕の周りの人までが変わった訳ではないのが分かった。ここはパラレルワールドでもなんでもない。僕が生まれ育った世界に変わりない。
 「なあ、相談が、あって」
 「うん」
 普段通りの話半分の態度。晴時は僕の 「相談」 にいつも呆れている。いや、昔っから僕の行いが悪くて、愚痴つうかノロケつうかで聞きたくなくなる気持ちもめちゃくちゃわかるんじゃけど、どうか、今回だけは、聞いてほしい。
 「そっち、帰るから、会えない?」
 この部屋にいるとあいつに監視されてるみたいに思えた。だから要件は言い出せなかった。そもそも僕は適当な言い訳をしてでも晴時もいる僕らの地元、岡山に帰りたかったのだ。
 あいつのいびきが晴時に聞こえないことを願い、耳に届いて事の異常性に気付いてほしいと思った。
 「……そこまで?」
 晴時は困惑しているようだった。相談内容をすっぽかしてそっちに行きたい、と言うなんてそりゃあびっくりする。
 「僕に会いたくない?」
 あれ。僕が晴時に会いたくて仕方ないみてえじゃが、今の言い方、キモいな。
 「……いや。いま、聞いてもいいけど」
 ことばの一瞬の迷いは僕を気遣う間だろう。晴時はなんだかんだでやさしい。
 「今日今から行って、会える?」
 「あー。それは、ちょっと。明日、早いんよ」
 僕はひとのやさしさに甘えようとして、頭から突っ込んで、大抵、そのまま転ける。
 「そっか。」
 会話がつっかえた。なんとなく、今日会って、話せる気になっていた。そこで全部話してやろう、と思っていた。
 「次の木曜なら空いとる」
申し訳なさそうに晴時は言う。
 「木曜かあ……」
 今日はまだ日曜日だ。
 「ううん、話、また今度にするわ。」
 「そう。」
 じゃあ、と僕が言いかけたところで晴時が
 「木曜日。一日、空けとくから。」
 と言った。僕は泣きそうになる。
 「じゃあ、木曜。ありがと。」
 「おん。」
 通話を終える。おん。笑ってしまう。岡山でも 「おん」 、だなんて相槌を打つやつ、じじいとばばあしかいねえって。

 夕飯、つくろう。今夜はかっらい麻婆豆腐なんかを。

⋮⋮

 おかしいおかしいおかしいおかしい。なんなんだあいつは。まだ害は無いとは言うが事実、外でのあいつをこの目で見た訳では無い。外に出ていくあいつに着いていき、本当に誰にも見えないのか、確認すればいい話であっても、僕があいつに着いて行ったらあいつの存在を肯定しているようで、つまりは、あいつが本当にこの世のものになるんじゃねえかって、僕は怖かった。

 Day Two

 side “ひろき”

 僕が僕である証明。
 記憶があること。感覚があること。デジャヴ。僕ならこうする。その無意識。
 僕がもう一人居るのは知っていた。もう一人の 「僕」 は知らんかったけど。何故僕は知っていたのだろう? どうしてだろう。達観しすぎなのだ、僕は。それに、何故だか、全部知っている気がする。未来人? それにしては 「僕」 の身の回りの事しか把握していない。ううん、でもやっぱし、「僕」 の未来を知っている。数年後か、数ヶ月後かのことを。
 僕がなりたいものはもうない。果たしてしまった。ぜんぶ。もう思いつかない、ってえくらいに。僕は排他的だった。目の前の 「僕」 は全然そうじゃなかった。誰かに縋っているみたい。だれかになりたくて、それを拒んでる。僕からみても馬鹿だった。
 もう一度。もう一度僕が現れたら、どうなるんだろう。他の僕の出現。それは、起こらないとおもう。起こったら困る。「僕」 を茶化す僕は一人で十分。そもそも、直感でその選択肢を外しているんだから、きっと何も起こらない。まあ、僕は面白いけど。たぶん何人居ても、話が被っても、それぞれ違う考えを出してしまえる。そんな気がする。あいつは僕を嫌悪していた。何でだろう。僕は僕のことを受け入れてるのに。いつでも。なんでもかんでも。たとえ馬鹿だったとしても。

 ギターを弾く退屈そうな 「僕」。
 「僕がヤマモトくん、って呼んどるんじゃし、お前、僕のこと、名前。弘樹、って呼べば。」
 「お。ええけどお。」
「僕」がそんな友好的な提案をするなんて初めてだ! いいね、いいね、良い、ぞう。
 「ひろき、くん。」
 うれしくて、笑ってしまう。「弘樹くん」 は嫌悪感を露わにして顔を顰める。
 「なあなあ、なんか買うてきてあげよっかあ?」
 僕は気分が良くなった。
 「いらん。金の無駄」
 ひろきくんは自分から呼び合い方くも変えようと提案し、僕に歩み寄ろう、今後も付き合おうとしたにも関わらず、態度はいつも通り。そんなんだから、モテないんやぞ。
 「今日はあ、何しよっか、なあー」
 こうして大声はりあげちゃうくらいには高揚感があって、やることがない。いや、あるはずなんじゃけど。弘樹くん、がやらせてくれないのだ。
 「居ても無意味じゃしどっかで働いてくれば?」
 「おお。ひろきくん、まともな事をゆう!」
 こちらに目を合わせてくる弘樹くんはすごい顔をしていた。
 「へへっ。アルバイト始めよったら、なんか、中退した後みてえだなー。」
 弘樹くんは僕の発言には無関心にギターをいじっている。
 「働いて、お金貯めて、僕も僕のギター買おーおっと。」
 「はっ。ガキみてえ。」
 裕太くんはマウントをとるのが好きだ。

 Day Three

あいつがいる生活にも慣れてきたような、未だに拒絶したい気持ちでいっぱいのまま、生活をしていた。奴は陽気に僕と似た生活をして、気味が悪かった。自分を客観視するとこうも気持ちが悪いとは、新しい発見だ。この上なく。これは嫌味として。

 明日は晴時に会いに岡山に帰る。

 Day Four

今日は晴時に会いに岡山に帰る。
 奴がどっかに行ってる間に身支度を済ませ、玄関のドアを開けようとして、奴が 「おうおう。山本くん、どこ行くん?」 と僕を遮るような気がした。いやいや、こんなとこで躊躇ってても新幹線に遅れてしまう。僕は強気にドアノブを捻って、外界と繋がり、目の前、白くあかるい、誰にも邪魔されないっ! ってことを認識する。あっいけんいけん、鍵、閉めんと。よし。駅まで走れば六分。間に合う間に合う。

 三ノ宮で乗り換え、新神戸駅で新幹線に乗る。券売機で発券して、時間は発車まで五分前。遅刻常習犯の僕にしては上出来である。
 晴時は新幹線が嫌いだと言っていた。僕は新幹線が好きだ。常に変な音が鳴ってるし、揺れも少なく、何よりこの近未来的なルックスと機能性の高さが良い。気分がよくなって、客室乗務員さんが来たらあのカチコチに固い、カップに入ったアイスを頼もう、と思った。

 なーんにもない平地と海沿いを抜け、市街地に侵入。あー、ただいま、岡山。
 改札を出て、東口から外に出る。なんか変な匂いすんな。駅から出ただけで図工室みたいな、古くなつかしい匂いがする。冬でもここはやや湿気ており、冷たい空気でも息がしやすい。快晴とは言いきれない晴れ。さすが晴れの国というだけある。LINEを確認して、噴水の前に居ると言う晴時を探す。
 「晴時ぃっ!」
 僕の声に気付いた晴時が六メートル先で片手を上げる。安心したように笑った。なぜだか。
 「よお。」
 通話越しの晴時は頼りないけど、こうして顔を合わせると 晴時はちゃんとしとる、と感じる。姿勢はわるいが、しっかり地面に足をつけ 立っている。
 「こんな頻繁に来よるなら岡山出んかったら良かったんに。」
 目を伏せて笑う晴時。僕は笑ってやる。好きだった女の子が兵庫に住んでいた事実、それを追い掛けて兵庫に住み着いた僕に。
 「どこ行くか、決めた?」
 「カツ丼っ」
 点滅する信号目掛けて僕らは走る。
 

 カツ丼を食い、ひさびさの地元をぷらぷら歩いて、適当な居酒屋に入り、注文をして、店員が向こうに行った。ところで、晴時が口を開く。
 「山本はリスナーとの距離遠過ぎる」
 この前、久々に生放送見たけど随分距離あるな。僕はその話を持ち出されると予想を全くしてなくて、一瞬停止する。
 「まじかあ」
 僕はリスナーとどう関わればいいかわからなかった。昔は個人的に通話なんかもしちゃったけど。それは平等じゃない、と晴時に怒られたこともある。
 「あ、どうも」
 店員が来て、注文したジョッキビールふたつとさわらのタタキともろきゅうが届く。じゃあ乾杯、つってグラスをかつんと言わして喉を鳴らしたあと、続け様てんぷらが届いて、僕はあつあつのちくわ、晴時がししとうを食べ、行儀よく全部飲み込んでから、僕から口を開く。
 「僕、みんなに、夕飯何食べたかって、毎回聞いとるけどなあ」
 たこ頼むの忘れた。と呟いて、
 「そうじゃないって。」
 と幼馴染は笑う。
 「冷たいってこと?」
 「冷たい。は、まあ……そうじゃけど。相手の出方を伺ってる、って感じしとる。」
 先輩とか、同じアーティスト仲間とかよりも。と、晴時は捕捉する。相手の出方を伺っている? 相手の出方を伺っている、のは僕じゃなくてリスナー諸君のほうだろう。
 「そうなんじゃ」
 「好きな異性以外には耐性あるんにな」
 晴時はふくませるようにいう。僕は黙っていればふくませた言葉、濁したその言葉を晴時が話し出してくれる気がして、黙る。
 「……友達のつもり。」
 箸を止めて俯いたまま彼が何かを言った。
 「え?」
 僕がばかみたいに口を開けて硬直していると、晴時はビールをひとくち啜って、
 「山本はどうしたいん。」
 と言ってすこしだけ頭を傾けてみせる。ちょ、さっきなんて言ったん。
 「山本がどうしたいか、どうなりたいかが大事じゃとおもう。」
 晴時が僕の出方を伺っているようで、物事をはっきりしないことに、僕が話す隙も与えないことに苛立ちが募る。
 「それがわからんのよ!」
 冗談半分で声を張り上げたつもりだったのに、晴時が表情を引き攣らせて黙ったので後悔した。あ。これ、僕おこってる、思われた? 晴時は怒るという機能がない。ただ哀しむだけ。それが僕の罪悪感を、焦燥を駆り立てる。
 「それ。で。うぅん、もうちょい、一人で、考えて、みる。」
 僕は平静を取り戻したふりをしてみせ、目の前にある、食べかけの刺身としょうゆの入った小皿を見て、箸をかちかち鳴らしたりした。
 「おん」
 最もだ、と響く友の声。すこしばかり赤くなっていたであろう僕の顔の、熱がひいていく。
 晴時は相談と持ちかけた話を大抵聞き流すから僕はいつも不満だけど、晴時が世界の正解を知っているわけではないし、自分で考えて、それが間違いであっても導き出してどうにかする、ってのが正解。で、それを分かってもいるのに、何度も僕は晴時に話してしまう。長いこと居すぎて、全部白状しないといけないみたいな。一方で晴時は全然なんじゃけど。ああでも酒飲んだ時なんかは饒舌になって、後輩がかわいい、とかって話をよくする。
 「続けてれば、わかるよ。」
 「なにが?」
 晴時は下を向いていた頭を持ち上げて困ったように僕を見る。それから、また俯いて間が悪そうに手元のてんぷらをつつく。
 あ、僕の、アーティストとしての立ち振る舞いの話か。
 「まだあ、二年、じゃ。」
 「ほら。まあ、どうにかなるって。」
 声を弾ませて晴時は笑って、てんぷらを口に運んだ。さくさくと音の鳴っていたれんこんはすっかり湿気っているようだった。
 「晴時、バンドけっこうやっとるよな。どうなの? ファンとか、居るん?」
 だし巻き玉子が届いて、僕は追加でビールと唐揚げを頼む。
 「いるいる。インディーズのバンドばっかり追いかけてるおじさんとか、その人の連れ。後輩なんかみんな俺のファンじゃし。」
 誇らしげに話す晴時。
 「ふうん。」
 なんか、僕が訊きたいこととはかけ離れそうだった。
 「あ、そうそう、最近どこで知ったんか知らんけど、わざわざ関東から来とる子がおる。女の子。」
 「関東っ?」
 関東って、僕の憧れの地じゃねえか。僕ら、地方民の。
 「神奈川って。まだ未成年」
 「え。犯罪じゃ。」
 晴時が未成年の女の子のファンの相手をしているところを想像した。犯罪には程遠く、なんかままごとみてえなやり取りが浮かぶ。
 「何話すん。」
 「何? かなあ。観光していきたい、言うから岡山の紹介したりとか。」
 想像に足る内容で興味が失せてきた。
 「その子が……どこじゃっけ。出石町? で撮った犬の写真見せてきた。」
 晴時は こんなでっかいの、と腕で大きな丸を描く。
 「なんじゃあそれ?」
 「秋田犬。雑貨屋だか革製品扱ってる店らしいんよ。扉んとこに、怖くないのでどうぞお入りください、って張り紙あったから、入ったって。なかなか度胸あるよな。」
 晴時に楽しそうに語らせる行動をしたその未成年のファンとかいうやつに、苛立った。
 「晴時、明日仕事なん。」
 そんで、話題をすり替える。
 「……午後から。気にせんでええよ。」
 晴時は全く気にしてないようだった。力が抜けて後ろの壁に肩甲骨がぶつかって、ずるずる体が下がっていった。晴時の足に僕の膝がぶつかって、びびって姿勢を正したら太腿をテーブルにぶつけて痛かった。どしたん、と笑う晴時。僕はまた、力が抜けてしまって へへ、と笑うしかなかった。あ。あの話。僕の話。
 「あのなあ。信じてもらえんと思うけど。」
 晴時は僕をちらと見てから日本酒を啜った。聞こうとしてるのか、してないのか、わからない。わからんけど、この話をしたくて、僕はここに来た。
 「僕んちに、もう一人の「僕」がおるんよ。」
 口に付けた器をゆっくりとテーブルに置いて、晴時は僕を見る。もっとマシな嘘つけよ、とでも言い出しそうな顔だった。
 「麻薬やった?」
 心外だ。僕は飲もうと掴んだ三本目のビールジョッキをがんっと乱暴に置いて、
 「やっとらん! 僕は法を犯すようなことはせん!」
 って反論してやる。晴時はまた酒を啜り、上目で僕をみる。
 「もう一人の自分がおる。と……して。なんか問題あるん。」
 それはもう、
 「あるっ。僕ん家占領するし、うるせえし、僕の金使うし、僕の邪魔ばーしよる。」
 何故だか、誇らしい気持ちで答えた。僕が正しい、のだ。もううんざりだった。あいつのせいで僕の平和な日常は崩れ去ったのだ。
 「 「僕がもう何人か居たらなあ」 って言うてたの、山本じゃろ。」
 晴時はそう言って漬物をつまむ。僕も口寂しい気がしてきて、手元を見るが、なんも残ってない。そもそも、既に腹もいっぱいだった。
 「なんでそうゆうことばー覚えよるん?」
 僕が首を傾げて言うと、ふふ、と晴時が笑った。友が笑ってくれるなら、もう一人の「僕」のことなんか、どうでもいいのかもしれん。
 「たまには俺も山本んち行こうかな。」
 煙草吸いてえな、と晴時が呟く。僕もだ。
 「たまにはて。いつでも歓迎なんに全然来てくれんやん。」
 晴時が目を丸くして、
 「電車で往復四千円、新幹線なら往復一万二千円。よう来るわ。」
 とこたえる。それはそう。でも、大事な人達に会いに来るなら、容易い金額だと思う。
 「僕の金銭感覚やばいんかな?」
 腕を組んで眉間に皺がよるくらい力を込めて目を瞑ってみる。視界がちかちかした。赤と緑の光がもやもやする黒の中、晴時のお会計お願いします、って声が聞こえて、僕は目を開ける。
 「俺、売れないバンドマンでフリーターじゃけえ山本の気持ちはわからんわ。」
 弱々しくわらう晴時に、さっきのことは言うべきじゃなかった、と気恥ずかしくなった。ずぼんのポケットから出した財布の中のお札をみて、僕は考えつく。
 「金、渡す。から、確かめてくれん。」
 「……わかった。」
 晴時は僕が本気だってことを悟ったみたいだった。

 Day Five

 大阪に行ってきます。きったねえ字の書き置きが便所の扉に貼ってあった。あいつからの解放! 漸く、やあああっと、僕一人だ! 元の生活だ。もうこのまま閉め出してやる。前みたいに通り抜けることも出来なくなったってんなら、それも可能だ。クソ、最高だな、まじでおもんねえ、あいつなんか消え去るべきだ。祝い酒、いっちょいきますか。
 これでゆうっくり、音楽作れるな。散歩に行って、楽器を勝手に触られるとか、家を荒らされてないか心配することもない。最高じゃ。三宅裕生は僕一人です。
 ひさびさにミュージックビデオのことでも考えるか。はーーあ、自由。干渉してくる存在が、ない。
 きょうの夜は外食しちゃおう。

駅前にシュークリーム屋ができた。栄えてはおきながら都会には及ばないこの地ではそのチェーン店ですら物珍しいようで、人だかりが出来ていた。きちんと先生の言う事を守る生徒みてえな、馬鹿正直な連中共だ、と思った。僕はそういう奴と、甘ったるいカスタードの匂いが大嫌いだった。早朝や終電で帰るように生きることができていて、本当に良かったとも思う。

 インターホンが鳴る。配達員か宗教勧誘かガキのいたずらか たまーに大家さん、にしか押されない僕んちのインターホン。ドアスコープを覗き込んでみる。は。「僕」だ。もう帰ってきやがったのか。という落胆と やっぱり戻ってきた、二度と戻らないのかいつ戻るのか、つって忙しなかった僕の心は収まった安堵の事実にうんざりしつつ仕方なくドアを開けた。
 「よおっ。ただいまあ。」
 お土産、と乱暴に白いビニール袋に入った何かを僕の胸に押し付けて、奴は ずかずかと部屋に入って洗面所で手を洗いに行った。勢いの強い水音が耳に入り、水道代が勿体無い、と思う。
 それにしても、今受け取ったもの。なんだこれ。ホールのチーズケーキ。随分ありふれたチョイスだ。
 「なあなあ聞いて。僕、隆心に会った。」
 「りゅうしん?」
 くっくっくっ、と奴は笑う。
 「田中、隆心。」
 田中隆心って僕の一個下の元後輩で友人の?
 「楽しかったあ。僕がさあ、久々に会いてえわ、って言ったらすーぐ返事きてさあ。今大阪居るって言うから、じゃあ今日飯食おう、つって、食ってきた。」
 こいつが僕の現実の友人である隆心と? どこでそんな連絡手段を得た。その金は。疑問で頭がとっちらかって、何も出力できずに動きが停止した。
 「そんでなあ、やっぱり、東京。来ないか、って。いいとこ知ってる、って言うとったよ。」
 僕、知らぬ間に隆心と連絡した? デスクの上にあるiPhoneを取り、トーク画面を開く。あった。田中隆心。マジか。
 「なあなあ弘樹くん、東京引っ越そお、好きだった女の子にもふられたし、こんなとこより余っ程友達多いしさあ。」
 僕はこんなLINE送った覚えがない。いよいよ、何だ、こいつは実体があるんじゃなくて、僕の二重人格? そうだとしたら、こいつの不在期間の僕の記憶は一体、嘘だと言うんか? 確かに記憶はある。昨日の僕はUberEATSで夕飯を買って食った。
 「隆心ねえ、カノジョ、より戻したって。」

 …

 奴の言うことを信じたくなくて慌てて龍心に電話する。無論出ない。通話しよう、とメッセージだけ送って、着信音が鳴るように設定し、気分転換の為に夕食の準備をする。
 「りゅーしん?」
 「おう」
 隆心は面白い奴なのだがいちいち声が低くぼそついている。
 「この前、遊んだよな」
 「そう……だね」
 「なに、今の間。」
 「いやあ、嘘嘘、山本が珍しい事言うからさあ。ちょっと、まあ、驚いたけど」
 「えっ。なんか、言うたっけ。」
 声に笑いを含ませ、冗談めかしく聞き出そうとしてみる。
 「スカイダイビングしたい、って。」
 「はあ?」
 「急すぎるだろ、そんな事したいって一度も聞いた事なかったから、まあ山本は高い所苦手って訳じゃないのは知ってるけど、スカイダイビング、って。」
 隆心は笑っている。僕は訳が分からなかった。
 「はは。あれからさ、俺、調子良いよ」
 「へえ……」
 何の話かわかんねえ。
 「あれ。みやけも食い付いてたろ。新しい仕事の話」
 「隆心の仕事おもれーからな」
 それは嘘じゃない。いつも言えることだ。
 「え? お前が曲やるんだぞ。忘れた訳ないよな?」
 「あっ。あー、それ! それなあ」
 ちょっとまて。そんな大事な話を僕抜きでしてたんか?
 「それ、ちょ、お、何の話かわからんかったわあ。もっと分かりやすく言ってくれや」
 「これ以外に言う話もなかっただろ? 俺の近況報告なんて野良猫に懐かれた、ってくらいだし」
 「ノラは触っちゃだめなんよ」
 「知ってるよ」
 隆心がゲームでもやろう、と言ったのでパソコンゲームをした。いつも通り、騒ぎながら、遊んだ。僕の頭にこびりついた考えは離れない。隆心は、奴を、奴のことを、本物の僕だと認識している……。

 Day Six

 「おまえ、いつんなったら消えるん?」
 「へ? 知らん」
 だろうな。奴をぐっと睨んで、僕はまたパソコンに目線をおとす。
 「暇じゃろ。人間でもねえくせに」
 なんとなく、悪態をついてみる。
 「はあっ。 僕にも人権、あるに決まっとるじゃろお? てめーが保証してくれんだけやっ」
 奴の発言を遮って うるせ、と言い、間髪入れず
 「邪魔なんよ。やっぱり出てってくれ、人権が尊重されるっつうなら、僕の人権だって尊重されるべきじゃ、お前は僕の居ない所で勝手に一人で生きとけよ。」
 と、僕は言ってやる。
 奴はへらへらしながら口を開いて、
 「冷てえなあ。僕なんかしたあ? そんなに機嫌悪いのも久々やねえ」
 と煽る。憤りが湧く。奴の思惑通りだ。殴りかかりそうにぶわっと皮膚が逆立った感覚、それから僕は思い出す。この前のこと。肩甲骨の辺りから冷え、立ち上がった両脚も力なく体は椅子に凭れた。
 「あれれ? どうしちゃったのお、ひろきくん。」
 何も言い返せなかった。僕はこいつと共に生活していくしかないのだ。
 「散歩、行ってこよっか?」
 気色悪い気色悪い気色悪い。吐き気が喉でぐるぐる渦巻いて、体が強ばっていく。
 「水、ついであげる」
 「やめろ」
 僕の足元に置いてある二リットルペットボトルを持ち上げようとした奴の手を叩き、払い除けた。近付くな。僕の所有物に易々と手を触れるな。

 「目障りじゃなあ」
 返答の代わりに悪態をついてみる。
 「目障り(笑) じゃ(笑)」
 「潰すぞ」
 僕は既に立ち上がっていた。
 「わははっ」
 そいつの前に仁王立ちしてやる。そいつは一層笑う。
 「僕を殴れよっ」
 言い終わらない内に殴った。トイレの個室みたいな防音室から奴を引きずり出す。
 「いでえ」
 奴は反射的に殴られた頬を押さえたあと、勢いよく僕の胸ぐらを掴んだ。
 「どう? 自分を殴った気持ちは」
 意外と力あるんだな、と考えていた。
 「何とも」
 ふうっと片手を離されて僕はバランスを崩した。その瞬間腹に拳を打ち込まれる。
 「ぶえ゙」
 「言わんこっちゃあ〜ない」
 ばあか、と吐き捨てられる。吐く吐く吐く。
 「僕と一緒に寝よっか」
 「眠れ、っか。よ」
 気持ち悪い。胃酸が逆流して、口の中が酸っぱく、唾液が延々とでる。
 「セックス、する?」
 は?
 「実体があるのかわからんヤマモトちゃんとセックスする?」
 何を言ってる。
 「ひろきくんが最近エッチなことしてないの、知っとるよ〜」
 五月蝿い。黙れ。

 僕はレイプされた。僕を名乗る、人間かもわからない奴に。

 目が覚める。未だ差し込む光はなく、夜。スマホスマホ、よっし、あった、午前三時。肛門が痛む。緩んで、ちりちり痛む。さっきのは夢じゃなかったらしい。本当に。
 奴の姿は見当たらない。そのまま歩く。とにかく、体をきれいにしたい。気持ちが悪い。思い出した。途端、感覚が蘇って、吐き、かける。おえっ。左手でちんこをさする。きったねえ。落ちろ落ちろ。脱衣所に入る前から僕は全裸であった。
 ぱち。暴力的な光。現実。確かな安堵。何の解決にも至らないんに。
シャワーを浴びる。真っ先にけつの穴に指をのばしてゆすぐ (ゆすぐって言うんか?) 。ボディーソープをもう片方の手で出して、けつの割れ目から流し込む。気持ちわりい。触りたくない。ただ、状態として特にどうという事はなく、違和感があるだけで触感的な異常は見当たらない。あ、それより僕の性器。ちんこをゴムなしで男の肛門に挿れたのだ。ゲロ。最悪。性病。いや、あんな奴、実体なんか無い奴に、ウイルスなんて無いとは信じてえけど。ちがう。精神。僕の精神の問題で、あんなばい菌、こそげ落としたい。それで、必死に擦った。そんで、さっきよりもちんこは痛くなった。けつの変な感じはさっきより落ち着いた。手が不潔に思え慌ててボディーソープで手を洗う。三十秒。足りない、足りない、足りん、足りん、足りねえ。僕はシャワーの水を止めるということを頭から消し去っていた。

 どっかのAVみたいに、来訪者が射精したら解決するもんだと思っていた。けど、そいつは普通に帰ってきた。
 「ただいまあ。」
 ぞうっとした。まだ、悪夢が続くのか。
 「おやおや、ひろきくん、元気ないね」
 僕はばかみたいに布団の中で震えていた。とん、と玄関から廊下に上がる音が聞こえた時に布団に潜り込んでいた。眼前の暗闇を睨んで、爪をたてるみたいに布をひきこんだ。
 「おでん買うてきた。食べよう」
 ぱか、とプラスチックのふたを外す音がする。あいつ、外に出て、他人と対話したのか?
 「あちあち」
 恐ろしかった。何を、何を、僕はどう、したら。
 「皿だっさ」
 また尻が痛み出す。夜のことを思い出す。ぐうう、と横隔膜が上がるみてえ。苦しい。
 「寝てんの?」
 じゃばじゃば、ぼちゃん。なんでもない音すら怖かった。どうして、こんなに怯えなくてはならないのだろう。
 「ふうむ。ごめんてば。さっきはさ」
 「なんとなくさあ、冗談で。」
 冗談でセックスなんかするか。僕は中高生じゃねえ。そもそも同性なんかと。
 「いい経験になったんじゃない? これ、ヒント」
 気色悪すぎる。
 「食欲、ない?」
 布団を剥がされそうになり、必死に抵抗した。顔を見られたくなかった。布団だけが僕を守ってくれる。
 「起きてんじゃん。」
 あっさり手を離して、そいつは じゃあ全部食べちゃうよ、と言ってベッドから離れる。
 「ちくわも残さんよ」
 全然、構わなかった。それより、残しておいてほしいものがあった。

 …………

 昨日のことを思い出す度に吐き気がした。訴えてやろう。こいつは強姦罪で懲役だ。不法侵入もしやがったのだ。クソ警察を呼ぼう。

 訴えられる訳が無い。自分に強姦されました。そんなん、僕が精神病棟に隔離されてしまう。奴はいびきをかいて床に転がっていて、僕一人ベッドで寝かせてくれたことに感謝しようかとも思ったが、一発、尻を蹴っておいた。

 煙草煙草。いつも吸うメビウスエクストラライトが物足りない。久々にタール多いやつ吸いてえな。キッチンにある灰皿と化した皿に吸い終えた煙草を押し付け、洗面台に向かい、自分の顔を見る。酷くくたびれた顔。僕はピチピチの二十代なのに、四十とかのおっさんみてえな顔をしとる。あいつのせいだ。十年分のストレスをたった数日で抱えてしまった。クソ野郎。もーう、知らん。知らんからな。顔をバチバチ叩いて洗って、髭を剃り、髪を整え、財布とiPhoneを持って外に出る。あいつのいびきがまだ聞こえる。

 こんな日に限って、雨が降る。やだやだ。小雨に街が白く沈む。中途半端だ。視界に映る景色、何もかも。僕も含めて。
僕は傘を取りに引き返すことなく家を飛び出す。最寄り徒歩二分のコンビニを通り過ぎてそのまま大股で歩く。腹が立っていた。時折、あの感触を思い出し、その度片膝を上げたり下げたり、イヤホンの音量を大きくした。潮の匂いが鼻につく頃、耳が痛くなっていて音量を小さくする。ちょうど、コンビニが見えた。

 「三十八番」
 しくった。ライターを置いてきてしまった。百三十円のライターを渋々買って、朝飯のあらびきソーセージが乗っかったおにぎりも買う。ここのコンビニはいつも便所臭くてうんざりする。来るのは三度目じゃけど。
 外に出て、すこし歩いた所でこの散歩コースには雨を凌げる場所がないことに気付く。都合が悪い。歩道橋の下で吸うか。ここは高速道路の入口があるような郊外だし、人は通らない。はずなので。

 帰ると奴はスナック菓子を食いながら映画を観ていた。僕が部屋に入るやいなや正座をして、こちらに向き直り、僕を見上げる。
 「ひろきくん。昨日は、ごめんちゃい。」
 と言って、頭をカーペットにつける。手前にあるテーブルのせいであんまよく見えねえな、と思う。
 「昨日とは、一体、何の事で、しょうか」
 もうとっくにレイプされたとかいう屈辱の事は自分の中で無かった事、に登録させていただいております。お帰りください。
 「こんなにネチネチしよるとは……」
 奴はすんなり頭を上げて、腕を組んで首を傾げる。腹が立つ。
 「何言っとるんかな? 山本くんは。」
 でもやっぱり、しらを切るというのは難しい。
 「まあ、ひろきくんがそうゆうんなら、僕もなかったこととして、おこう。」
 うむ、と奴は人差し指の横で顎をかき、納得した相槌を打った。
 「え? へんな捏造やめてくれますう?」
 僕が後ろを向いて洗面所に行こうとした時、奴が口を開いて
 「べつにへんな捏造しとるとは言うてなくね」
 と言った。僕の煽りが不発に終わり、いたたまれない気持ちで手を洗ったあと、キッチンの換気扇の下で煙草を三本吸った。

 僕の日常は戻ってこない。僕の創作意欲も、戻ってこない。

 理想が僕を縛り付ける。もうやめてくれえ。夢をみた。奴が僕の首を絞め、そのままぐうっと手を首に押し込むとその手が僕の中に入ってきて、その手が僕の顔面の中をぐーっと掻くのだ。顔全体がぞわぞわして、耐えられなかった。手が目元を通過する時、指の隙間から見えた奴の気味の悪いあの顔が、脳裏に焼き付いて、なくならない。

 「あれれっ? ヒロキくんって、ジョン・フルシアンテになりたいんじゃねえの?」
 それはギターテクニックやアーティストとしての立ち振る舞い、生き様の事で、あくまで例えの話。
 「みんなに愛される女の子になりたいとか。」
 今はそんな事願っちゃいない。
 「弘樹くんは最上思考じゃろ? 僕が代わりになったげる。ろくでなしの山本裕太くんはもういらない」
 お前が一番を取る保証なんかどこにもないくせに。
 「そんなこと言うたって、ほんとは分かっとるんよな。必要な感情と活動だけを取り揃えた完璧な僕をどうして受け入れないの? 納得しないの? もう足掻くことなんかないのに?」
 僕を消そうとでもしよるんか。僕はお前なんかに屈しない。受け入れない。
 「ずっと死にたいって考えて生きてきたのはお前。僕がひゅうっと楽に消してあげる」
 そこまでして僕を乗っ取りたい? お前が僕に成り代わる必要なんかどこにも無い。大体、なんで僕に成ろうとするんよ。他の誰かの代わりになってこいよ。
 「僕の生みの親は裕太くんよ? 忘れたの。お前の理想が僕なんだから。」
 僕自身が成りたいものになる。だから、僕に理想は必要ない。
 「それなら僕が成り代わってもおんなじことでしょ?」
 何も、言い返せない。

 僕は偉大なギタリストになりたい。
 僕はもてる男になりたい。
 僕はブラッド・ピットになりたい。
 僕は女の子になりたい。
 僕は神になりたい。
 僕は高音域の声を出せるようになりたい。
 僕はゴジラになりたい。
 僕はもっと評価される人間になりたい。
 僕は……………

 Day ……

 「あれ」
 あいつがいない。
 「おうい、ひろきくん。」
 「便所か?」
 いない。
 「散歩いっとんのか。」
 どうでも良かった。
 「ん」
 そういえばベッドで眠っていたのは僕だった。僕は消える事も選べたはずだった。でも、元々、僕はベッドで眠るのが 「普通」 だし、何も問題はないのだった。あいつの気配は、もはやなかった。
 「静かじゃな」
 朝飯を用意するのが億劫でコンビニに向かう。
 「四百八十円」
 僕は千三十円を直接、レジカウンターに置く。ずっ、て音がして店員が無言で袋に入ったいまや僕のものになった袋にはいった食品を差し出し、それを僕は受け取る。
 無愛想な奴。後ろにありがとうございました、って声だって、聞こえてもいいんに。僕の後ろにあいつを忙しくさせる存在なんていなかった。
 「あー、ひろきくんの飯買ってやりゃよかった」
 思い立って、近頃あいつに食欲がないことを思い出す。
 「消え入りそう、」
 どっかの映画みてえに。
 「くく、」
 おかしかった。
 「くはは、」
 あいつがいないなんて、なんて自由なんだろう。
 「くふふふ」
 たのしくなって、コンビニ袋からプラスチックにパッケージされた賞味期限まであと五日あるパンを取り出して、開封して、かぶりつく。 相変わらずこの街は人気がない。すこし周りを見渡す。あ、人おったわ。なあんだ。僕はここによく馴染んでる。この世界に。世界に? この街に、じゃあなく? そう。そうだ。この街にあまり感じることはないけれど、僕はよく合う。東京に引っ越す予定も決まった。
 僕はパンを飲み込むことができる。ふわふわして味があまりしない。そりゃあ、昔、のことを思えば十分美味くはなったけど。到底人の手には届かん。ま、そうゆうところが好きでいつも買うてる訳であるが。
 「ばかひろき」
 女みたいなことを口走ってみた。
 そんなのが居たのも嘘な気がしていた。

 After two weeks……

 晴時から連絡が来た。
 明日遊びに行けるけど。僕にはやることがあっても日にちは選ばない。ええよ。じゃあ行く、という返事が翌日の朝にきた。

 “晴時”

 結局山本は俺に交通費を寄越すことはなく、今日に至る。
 田舎の主要駅、新幹線の止まる駅特有のだだっ広い改札。ここに来たって何もないぞ、と思いながら自分は改札に入り、行き先のホームへと階段で降りる。
 人がまばらなホーム。スーツを着た人が目立つ。乗る予定の電車はすでに停車しており、出発まで七分待つ。やや古びた電車に乗り、駅前の今っぽいカフェで購入した、ホットコーヒーを窓枠に置いて座る。二席ずつ向かいあった臙脂色の座席は観光地に向かう電車のようで、落ち着かないような気がする。平日の昼前、せめて乗り換える姫路までは空いてる事を願う。ここから皆、向かっていく。

 大人になって、兵庫に行く機会はライブの遠征か、友人の家に行く日くらいだった。これから向かう山本宅は三ノ宮のほうで、山陽本線に乗って、三時間近くかかる。新幹線なら一時間で着ける。きょうは一人であるし、急ぎでもない。自分は新幹線を使わずに時間をかけて見慣れぬ車窓の風景を見て、遠出というものを味わうのが好きだった。料金も半分で済むし。いや、急ぎではないと言うと友人に失礼だが。

 漸く電車のドアが閉まり、発車した。離れてゆく何本も並んだ線路を眺めながらコーヒーを啜る。視界が開け、市街地を走り抜けていく。この辺りは見ていても面白くないので、持参した文庫本を読む。そこそこの厚みをした、SF短編集。

 やけに白くなった手元。差し込むの太陽の光。顔を上げると市街地はとうに抜けていて、うすーい青空と ほそい白い雲。それと田んぼ、田んぼ、民家、田んぼ。向かい合った座席にはまだ誰もいない。逆側の窓を見る。乗客は居らず、視界に入るのは、田んぼ、ちいさい空、山。たぶん、視界が広いのはこちらの車窓側の風景だ。自分は間違えていない。
 目の疲れを感じ、人差し指の側面部分で目頭をこする。ねえ、目え開いてないよ。色んなひとに言われる。おおきく目を見開いてみて、田んぼの向こうを見て、目を瞑る。また、見開く。
 そんな体操を数回で満足して、体を前方に傾けて頭を窓のふちに着け、振動を味わう。がたがたと揺れる。痛いので、数秒で離して背もたれに頭を預ける。預けるといえど背もたれは座面から直角なので、くつろげたものではない。姿勢に迷って、結局、背中を丸めて首から頭を突き出した格好で本を読む。
 車窓の向こうを見ようと体が動く。川が見えた。コンクリートで固められていない土手。懐かしい、と思った。すっかりぬるくなったコーヒーを飲んで、思い返す。さっきの感覚。視界が開けた気がしたのだ。自分は目に見えぬ川の存在に気付いて見上げたのだ、と思う。
 新幹線ご利用の方は、乗り換えです。発車まで五分ほどお待ちください。アナウンスが響く。あともう少しで姫路か。電車が止まり続けていると違和感がした。早く着きたい、という気持ちがそうさせるのか。
 手元がちらつく。山をぬけ、また平地に出て……を繰り返している。山は近すぎて、空が見えない。茶色く淋しい木々を見ていると電車はトンネルに侵入した。トンネルを通過する車内の音は喧しく、たまらず両耳を塞いだ。また視界が明るくなる。ソーラーパネル、民家。次第に家は増えていき、住宅地に覆われ、姫路ー、姫路ー、とのんびりした声が耳に入った。市街地。ここで乗り換え。あと三分の一のすこし。

 うろ覚えの道を辿り、やけに気取った背の高いランプのある視界の開けた川沿いの道を歩いて、静かな住宅街に入っていく。子供の声が響いている。裕太が近くに小学校があると言っていた気がする。グレーの混じったネイビー色のアパートの階段を上がる。一人で他人の家に入るのは悪いことをしているのではないかと緊張した。

 「よお、晴時。」
 久々に尋ねた幼馴染の家。扉を開けたのは裕太だった。それが山本裕太でない事がわかった。俺には。相談を持ちかけたあの時の山本が、当人だと分かっていた。いま俺の目の前にいるのは、その山本ではない。別の、なにか。そのまま部屋に通される。どこにも、他に、人影や気配がない。

 当たり障りなく、俺はその山本そっくりの何かに話しかけてみる。
 「東京、越すんじゃ。」
 「うん。しょっちゅうは帰れんけど、岡山、ぜってえ年に何回かは帰るけん、待っとってな。」
 にんまりと笑う。勝ち誇ったという表情。数ミリ、口角や目の角度の曲げ方がズレている。
 「山本、変わったな。」
 「ええっ? 何があ。晴時、変なのお。」
 あはは、とそれは笑った。俺が疑っている事に気付いてるのか気付いてないのか。山本は良くも悪くも分かりやすい奴だった。気味が悪かった。

 俺が知る山本は何処へ行ってしまったんだろう。 でなければ、俺が知る山本は、こんな奴に乗っ取られてしまったのか? 目の前にいるこの者は、一体何なのだ。

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