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『源氏物語』(古文)を読んだときの覚え書き_第53帖『手習(てならひ)』

第53帖『手習(てならひ)』
巻名は、浮舟が一命を取り留めたとはいえ、思いに耽る描写に「手習」とあることに拠る
 ※「手習」とは、古歌や自作の歌に思いを託して手すさび(手先で何気なく、気晴らしでする遊び)で書き付けること。この巻に五回使われる。
 
◆薫27歳~28歳夏◆(年立(としだち)では『蜻蛉』の巻に重なり、翌年夏まで)
<物語の流れ>
   浮舟 →高僧と母妹の尼の一行が初瀬(はつせ)詣で帰りに寄った「宇治の院(うぢのゐん)といひし所」で、死にかけた状態で発見される →多くを語らず、頑なに人に知られぬ生涯を願う →出家
 
<書き出し>
「そのころ、横川(よかは)に、なにがし僧都(そうづ)とかいひて、いと尊(たふと)き人住みけり。八十(やそぢ)あまりの母、五十ばかりの妹ありけり。古き願(ぐわん)ありて、初瀬(はつせ)に詣(まう)でたりけり。むつましくやむごとなく思ふ弟子(でし)の阿闍梨(あざり)を添へて、仏経供養(ほとけきゃうくやう)ずること行(おこな)ひけり。事ども多くして帰る道に、奈良坂(ならさか)といふ山越えけるほどより、この母の尼君、ここちあしくしければ、かくては、いかでか残りの道をもおはし着かむ、ともて騷ぎて、宇治のわたりに知りたりける人の家ありけるにとどめて、今日(けふ)ばかりやすめたてまつるに、なほいたうわづらへば、横川に消息(せうそこ)したり。山籠(ごも)もりの本意(ほい)深く、今年(ことし)は出でじと思ひけれど、限りのさまなる親の、道の空にて亡(な)くやならむとおどろきて、急ぎものしたまへり。」
 
 (その頃、横川に何某の僧都とかいって、たいそう尊い僧が住んでいた。八十余りの母、五十ばかりの妹がいた。古い願果しに、初瀬に詣でた。
親しく思い重んじてもいる弟子の阿闍梨を同行させて、仏経供養する儀を執り行った。いろいろな供養をして帰る道で、奈良坂という山越えをしたとき、母の尼君の気分が悪くなり、「こんな具合では帰りがおぼつかない」と大騒ぎになって、宇治のあたりに知り合いの家があったので、逗留して、今日は休むことにしたが、よくならないので、横川に連絡した。
僧都の山籠もりの志は深く、今年は山を出ないと決定していたが、「危篤の親が、旅の空で亡くなっては」と驚いて、急いで出かけた。)
 
《和歌》「身を投げし 涙の川の はやき瀬を しがらみかけて たれかとどめし」(浮舟)
 (悲しみのあまり身を投げた涙川の早瀬を柵(しがらみ)をかけて誰が救ってくれたのでしょう)
 ※「涙の川」は涙を多く流すこという歌語。「柵」は川の中に杭を打ち、芝などで流れを堰き止めるもの。
    浮舟の消息 →僧都から明石の中宮に伝わる →薫の大将へ

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