【歴史】想像を超える箸/あまりに簡素であまりに便利 <後編>
日本の箸の歴史
さて、中国の箸がどのようにして日本へ渡ったのでしょうか、実は、これも明確なことは分かっていません。
まず、古代日本の遺跡から出土品を探ります。
縄文時代以前の旧石器時代(紀元前2万9000~1万4000年)の幾つもの遺跡から、イノシシ、シカ、ノウサギなどの肉類、マツ、ハシバミの実、コケモモ、ヤマノイモなど出土、また、藤久保東(ふじくぼひがし)遺跡(埼玉県三芳町)から焼かれた石が出土 <三芳町『広報みよし』1991年6月号>、これは土器がなくても調理できる石蒸し料理(食材全体を石と葉で覆い蒸した)をしたと考えられます。
縄文時代前期(紀元前5000~2500年)の遺跡、水子(みずこ)貝塚(埼玉県富士見市)などから、ハマグリ、ヤマトシジミ、マガキなどの貝類、クリ、クルミなどの木の実、ノビルなどの野草、海藻が出土、しかし、串、匙などの食べる道具が出土してないので、海産物は吸い物の出汁にしたのではないかと考えられます。
縄文時代末期(紀元前1200~前900年)の菜畑(なばたけ)遺跡(佐賀県唐津市)では、18 ㎡の水田跡(紀元前930年ころ、放射性炭素測定法)が発掘され、炭化された米、石包丁、鍬(くわ)、鎌(かま)など農工具が出土、宅部山(やけべやま)遺跡(東京都東村山市)では、ハマグリ、ヤマトシジミ、マガキなどの貝類、シカ、イノシシの骨、トチノキ、クルミなど植物が大量に出土、箸の使われた形跡はありません。
弥生時代前期(紀元前90010~前100年)から古墳時代(西暦250~600年)になって、青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡(鳥取県青谷町)から、多数の食器類の中にやっと木製の匙が出土。
また、弥生文化後期(紀元前1世紀)の登呂遺跡(静岡県静岡市)では、80000m2の水田跡、井戸跡、多数の木器、石器、土器、金属、ガラス製品など出土、弥生時代全期から古墳時代の唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡(奈良県磯城郡)でも同様に食器類出土、木匙や木杓子が出土されていますが、箸らしき物はありません。
日本列島に住んでいた土着民(日本人)の生活を記述したものに、3世紀ころ(西暦200年代)書かれた中国の歴史書『三國志』があります。この中に伝聞に基づくかの有名な『魏志』(倭人傳)があります(『後漢書』(東夷列傳)にも倭人に関する記述が存在するが、『魏志』(倭人傳)の引用多く、目新しき所なし)。
※春秋戦国時代(紀元前770年~前221年)ころから生じた中華思想(華夷(かい)秩序、漢民族は文化の中心にあり、周辺民族をまだ文化の恩恵を受けてない民族とする)として、周辺民族を東夷(とうい)、南蛮(なんばん)、西戎(せいじゅう)、北狄(ほくてき)と呼び、この東夷に属し、当初、大陸沿岸部(東部)にいた人々と日本列島の土着民とが「倭人」と呼ばれた。「倭人」とは「背の低い人」を指す蔑称との説もあるが、本来、漢民族を中心に置いたときの異民族の呼び名。
※倭人の「倭」は、「人」と「委」(「穂先に垂れた稲」「両手を重ねひざまずく女」の表象)の形声文字、人に従い委ねるの意。
倭國(日本)について書かれてあるのは、『三國志』の中の『魏書』の「烏丸鮮卑傳」の一節で、僅か全11ページほど。衣食住、風俗、習慣については、僅か3ページ半なので、以下に抜き出してみます。
男子無大小皆黥面文身。自古以來,其使詣中國,皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沉沒捕魚蛤,文身亦以厭大魚水禽,後稍以為飾。諸國文身各異,或左或右,或大或小,尊卑有差。計其道里,當在會稽、東冶之東。其風俗不淫,男子皆露紒,以木緜招頭。其衣橫幅,但結束相連,略無縫。婦人被髮屈紒,作衣如單被,穿其中央,貫頭衣之。種禾稻、紵麻,蠶桑、緝績,出細紵、縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上,竹箭或鐵鏃或骨鏃,所有無與儋耳、朱崖同。倭地溫暖,冬夏食生菜,皆徒跣。有屋室,父母兄弟卧息異處,以朱丹塗其身體,如中國用粉也。食飲用籩豆,手食。其死,有棺無槨,封土作冢。始死停喪十餘日,當時不食肉,喪主哭泣,他人就歌舞飲酒。已葬,舉家詣水中澡浴,以如練沐。其行來渡海詣中國,恒使一人,不梳頭,不去蟣蝨,衣服垢污,不食肉,不近婦人,如喪人,名之為持衰。若行者吉善,共顧其生口財物;若有疾病,遭暴害,便欲殺之,謂其持衰不謹。出真珠、青玉。其山有丹,其木有柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香,其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷,不知以為滋味。有獮猴、黑雉。其俗舉事行來,有所云為,輒灼骨而卜,以占吉凶,先告所卜,其辭如令龜法,視火坼占兆。其會同坐起,父子男女無別,人性嗜酒。
魏略曰:其俗不知正歲四節,但計春耕秋收為年紀。見大人所敬,但搏手以當跪拜。其人壽考,或百年,或八九十年。其俗,國大人皆四五婦,下戶或二三婦。婦人不淫,不妬忌。不盜竊,少諍訟。其犯法,輕者沒其妻子,重者沒其門戶。及宗族尊卑,各有差序,足相臣服。收租賦。有邸閣國,國有市,交易有無,使大倭監之。自女王國以北,特置一大率檢察,諸國畏憚之。常治伊都國,於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯。下戶與大人相逢道路,逡巡入草。傳辭說事,或蹲或跪,兩手據地,為之恭敬。對應聲曰噫,比如然諾。
<原文:諸子百家 中國哲學書電子化計劃より転写>
ここには、男は顔にも身体にも入れ墨を入れていること、簡素な布を身にまとっていること、稲や麻の繊維を作り、蚕を飼って織物を作っていること、牛や馬はいないこと、武器として矛、楯、弓を持っていること、身分に階級があること、中国のような官吏がいて租税があることなどが書かれています。
この中から飲食に関するものを抜き書きします。
「今倭水人好沉沒捕魚蛤,文身亦以厭大魚水禽,後稍以為飾。」
「今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤(ぎょこう)を捕へ、文身するは亦(ま)た以て大魚水禽(すいきん)を厭(おさ)えむとし、後に稍(ようや)く以て飾りとなす。」
(いま、倭の水人(海人)は、潜りをよくして魚や蛤(はまぐり)をとらえ、身に文をして(まじないとして身体に文様を描いて)、大魚、水禽(水鳥)を防ぐことにして、後には、しだいに飾りとした。)
「倭地溫暖,冬夏食生菜,皆徒跣。
有屋室,父母兄弟卧息異處,以朱丹塗其身體,如中國用粉也。
食飲用籩豆,手食。」
「倭の地、温暖にして、冬夏生菜を食す。皆徒跣(とせん)なり。
屋室有り。父母兄弟の臥息(かそく)するに処を異にす。
朱丹を以てその身体に塗る、中國の粉を用ふる如きなり。
食飲するに籩豆(へんとう)を用ひ、手食す。」
(倭の地は温暖で、冬も夏も生(野)菜を食する。みな徒跣(はだし)である。屋室があり、父母兄弟で、寝所を別にしていて、朱丹(赤い顔料)をその身体に塗ることは、中国にて粉(おしろい)を用いるようなものである。
飲食には、竹や木製の器を用いて、手で食べる。)
「其會同坐起,父子男女無別,人性嗜酒。」
「その会同(かいどう)の坐起(ざき)に、父子男女の別なし。人の性、酒を嗜(たしな)む。」
(その集会の立ち居ふるまいには、父子や男女による区別はなくて、人の性質として酒を嗜む傾向がある。)
『魏志』(倭人傳)に倭人の食生活に関する記述があるといっても、分ることは「飲食のときには器を使うが、食物を口に運ぶときには手を使う」、この時代、箸は使われていないということだけになります。
ここで、中国の箸が日本に伝わる機会として、古代の日本が中国、朝鮮とどのような交流を持っていたのか見てみます。
西暦57年、倭奴国王、後漢(西暦25~220年)に遣使
239年、邪馬台国女王の卑弥呼、魏(220~265年)に遣使
266年、邪馬台国の台与、西晋(265~316年)に遣使
4世紀、ヤマト王権の成立
5世紀、倭の五王、中国南朝(普、宋、斉)に遣使
538年、仏教伝来
※これ以前から渡来人(主に朝鮮から)の定住による私的な信仰として伝来しているという説幾つかあり。
593年、推古天皇の即位、聖徳太子の摂政
600年、遣隋使の派遣
※推古8年(600年)~推古26年(618年)の18年間に数回派遣されている <『隋書』『日本書紀』>
630年、遣唐使の派遣
※舒明2年(630年)~承和5年(838年)の200年間に十数回派遣されている <『旧唐書』(倭國日本伝)、『新唐書』(日本伝)、『日本書記』>
こうした大陸との行き来の中で、唐代までは横置きにされていた形の箸が中国から日本にもたらさられたものと考えられます。
なお、奈良正倉院の宝物殿には、平城京の天平文化を中心に聖武天皇(西暦701~756年)と光明皇后(701~760年)ゆかりの品を納めてあり、その中に銀製の箸(儀式用)が残されています。
箸が儀式だけでなく食事に使用されるようになるのも唐の影響があってのことと考えられます。
昭和38年(西暦1963年)、平城京(710~784年)跡では食膳具と一緒に木製の箸が発掘され、同じ時の出土品から奈良時代(和銅3年(710年)~延歴13年(794年))の中期の物と推測されています。
平安時代(西暦794~1185年)になると、清少納言『枕草子』(1001年ころ成立)には食事の際に(少なくとも貴族の間では)箸が使われていることが記述されています。
「心にくきもの 物へだてて聞くに、女房とはおぼえぬ手の、しのびやかに聞えたるに、こたへわかやかにして、うちそよめきてまゐるけへひ。おものまゐるほどにや、箸、匙(かひ)などの取りまぜて鳴りたる。ひさげの柄の倒(たふ)れ伏すも、耳こそとまれ。」
<『枕草子』一八七 心にくきもの(笠間文庫)>
(おくゆかしい感じがするもの 物を隔てて聞くのに、女房とは思われない人の手の、人を呼ぶ叩く音が、ひっそりと聞こえたところに、返事を若々しくして、衣(きぬ)ずれの音のさわさわとして参上する気配は、おくゆかしい。お食事を召しあがるところなのであろうか、箸や匙などの音が混ざりあって鳴っている。提子(ひさげ)の柄が横倒しになる音も、耳にとまる。)
平安時代後期の『粉河寺縁起絵巻(こかわでらえんぎえまき)』には、箸を使っている人(猟師)の姿が描かれています。
上図の左端の人物が右手に碗、左手に箸を持っているところが見らます。
こうしてみると、箸は奈良時代に中国から伝わり、平安時代には食事の際に箸を使うことが日常化していたようです。室町時代になれば、鎌倉時代からの武士の作法をまとめた『今川大草子(今川大双紙)』(国立国会図書館)に、箸置きを使うなど箸の置き方が記述されています。
日本人はなぜ箸を手前に横置きにするのか
ここまで来て、日本人はなぜ箸を手前に置いて、しかも横置きにするのかということに触れることができます。
中国から多大な影響を受けていながら、中国では周辺民族の影響を受けて箸が縦置きに変わったと考えられるのに、なにゆえに日本人は箸を手前に横置きのままにしているのでしょうか。
その理由に決定的なものはありません。広大な大陸において、常に周辺民族の侵攻に脅かされ、影響を受け入れざるを得ない環境にあった中国と周辺を海の囲まれた日本との違いで、箸を横向きに置くままで変更すべき理由がなかったと考えるのが妥当です。
しかし、近年になって、尤もらしく「独自の日本の文化」が論じられるようになり、長く伝わる話を基に後付けの理由としてまとめられたようです。
これからの話は、長い間、親から子へ、子から孫へ、代々文字でなく口承によって伝えられて来た話であり、明確な裏付けがあるわけではありません。しかし、これらの話が箸を横に置くことに結び付けられていくのです。
古代、日本人には人の手によらず、人が触らずに動く物はすべて神の力によるものであると信じられておりました。
陽が昇るのも、風が吹き、水が流れるのも、また木々が生い茂り、花が咲き、鳥が飛び回り、動物が走り回るのも、すべて神々であり、あるいは、神々によって動く力(命)を授けられたものと考えられていました。
また、人も、もともと神であり、天から地上に降りて人としての生き方を示してから、また神に戻るとされています。家族を大切にして助け合い、共に共同社会を支える人を敬い、礼儀を正し、謙虚であるべきことを伝える使命を帯びているのです。この世を去っても、暫く裏山に潜み、子、孫、子孫たちを見守り、その幸せを確認してから天に戻って行きます。
この考え方は、古代から日本人の風俗、習慣として自然に身に付いて伝えられているものです。
仏教が伝来したときに「蕃神(あだしくにのかみ)」(よその国の神)として抗う人々がいて、この国には自国の神として祀るものがあるとして、この考え方(風俗、習慣)を「神道(しんとう)」と呼ぶようになりました。
※神道を日本古来の土着宗教という人がいますが、本来の意味の宗教ではありません。今日に至るまで長い年月を掛けて宗教らしい体裁を作り上げられているものです。
人は生き永らえるために、この自然界に有るものを食さなければなりません。生きて行くためには他の命を奪わなければなりません。命とは、他の命を食さなければ生きて行けない宿命にあるわけです。
食される命は、ただ食べられるためにあるわけではありません。命は、神による姿であり、この世にてそれぞれの命の有り様(よう)を示すために存在しているのですから。つまり、「食すとは神を戴く」ことなのです。人は、その命を食するときに感謝しなければならない理由がここにあります。
これを受けて、食事のときに料理の手前に横にして置かれる箸に、特別な意味付けをすることになります。それは、世界を分ける「境界」を表わしているものであるということです。
人が生きている手前側の「現実(生きている命)の世界」と命を捧げて料理という姿に変わった物たちの「聖なる(捧げられた命)の世界」との境界線を意味するということです。
「いただきます。」と言って両手で箸を上げ、食事を始めるのは、その境界を取り除いてから、生きている者が聖なる領域に立ち入ることを意味しています。聖なる領域にある命を戴くために。
箸を手前に置いて、「ごちそうさまでございました。」と言って食事を終えるのは、食するために取り除いた境界を元に戻し、退出することを意味しています。聖なる領域を守るために。
他の数多くの命を頂戴して生きている身なればこそ、人は皆、己(おのれ)の命を支えてくれる大自然の恵み(太陽、雨、風、水、海の物、山の物)に感謝しなければなりません。そして、人は皆、等しく大自然の恵みを受けて互いの命の営みを助け合う仕組みの中に一部分として存在していることを知らなければなりません。食するとは、共に食する者同士を含め、食べ物となりし物も含めて、命を尊重し合うことに他なりません。
倭人(やまとびと)から続く命あるものへの優しき心ばせは、箸の作法以前に古代からあったものです。近年、それを文化という名で箸に込めることにしていると言えるでしょう。 <了>