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「どうしたいか」が何よりも大切な時代になる

今、話題になっているAI技術。
新たな技術に驚きワクワクするのと同じくらい、多くの人が抱えているのが恐怖や不安だ。
AIに仕事を奪われるのではないか?
私の仕事は機会で代替可能になるのではないか?
生活のための賃金を失う恐怖に留まらず、多くの場合、仕事は「私は何者か」というアイデンティティに結びついていて、その自己認識を奪われるのではないかという恐れ、すごくよく分かります。

特に、AIが脅かす可能性が高いのが(現在のところ)、これまでの「知的労働」とか「創造的活動」と言われていた分野であることも特徴だと思う。
人が機会にやってほしいことって、単純労働だったり、家事労働だったり、子供や高齢者のケアだったり・・・でも、そういう分野では意外と「人の手」への需要が縮まっていない。
AIがやっていること、絵を描いたり、文章を書いたり・・・そこは人間の手に残しておいてよ!と思うことばかりだ。

苦労して競争を勝ち抜いて、やっとイラストやデザインの仕事につけたのに。
小さい頃から文章が好きで、自分なりの伝わりやすさを洗練させてライターになったのに。
これらが全て、「AIの方が優れているので不要です」と言われたら、どうだろう?
私も書くことが好きで、書く人になりたくてライターの仕事を選んだ一人だから、同じ不安がある。

AI技術の発展は、多くの専門家が予想したよりも早く進んでいるらしい。
そんな中で、私のような、特別大きな独創的な才能はないけど、末端で描き続けてきた人はどうするべきなのか、と考える。

そこで思うのは、これからの時代は、「どうしたいのか」「なぜそうしたいのか」という、人の意志が何よりも重要になるのはないかということだ。
その人の持つスキル以上にモチベーション
実績以上に未来への意欲、そしてビジョン
事実の羅列以上に、解釈
そういったことにこそ価値が出てくる気がする。

「需要があるから書く」じゃなくて「書きたいから書く」。
wantとwillこそが、代替できないものになっていくのではないか。

漠然とそう思っている。

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