ChatGPTに「言語は恣意的である」について聞いてみた。

>俺
「恣意的」という言葉は「ランダムに」と「作為的に」の相反する2通りの意味で使われることがあります。ソシュールが「言語は恣意的である」と言う時にはどちらの意味で使っていますか?

>ChatGPT

フェルディナン・ド・ソシュールが「言語は恣意的である」と述べた際、彼が使っている「恣意的」の意味は「作為的に」という意味に近いです。

ソシュールが言いたかったのは、言語の記号(つまり、言葉や単語)とそれが指す実際の対象や概念との間には、自然な或いは直接的な関係が存在しないということです。言い換えれば、言語の記号はその対象を指すために任意的に、また作為的に選ばれているということです。

例として、"dog"という言葉が英語で犬を指すのは、その言葉の音そのものが犬という生物の特性を持っているわけではありません。それは単に英語という言語コミュニティで「この音列がこの特定の動物を指す」という約束や合意が存在するからです。他の言語では異なる音や形の単語が「犬」という意味を持っています。

このような観点から、ソシュールは言語の記号が任意的に、作為的に定められていると指摘しています。

>俺
言語の記号とそれが指す対象や概念との間には関係が存在しないということは一貫性がない、つまりランダムであるということではありませんか?

>ChatGPT

ソシュールが「恣意的」という言葉で伝えようとした意味は、言語の記号とそれが指す対象や概念との間に自然的または必然的な関係が存在しないということです。この意味での「恣意的」は「作為的」と捉えることができます。

ただ、この「作為的」または「恣意的」という性質が「ランダム」(無作為)を意味するかというと、そうではありません。言語の中の記号が指す意味は、ある特定の言語コミュニティの中で長い時間をかけて形成され、定着していくものであり、その意味付けや使用は一貫性を持っています。つまり、言語の中での記号の意味や使用は、そのコミュニティの中では一定のルールや規則に従っています。

「犬」という言葉が日本語で「四足で歩く家畜の動物」を指すこと、また「dog」という言葉が英語で同じ対象を指すことは、それぞれの言語コミュニティでの合意や習慣に基づいています。このような意味で、言語の記号の意味付けは「ランダム」や「無作為」ではなく、むしろある種の「規則性」や「一貫性」を持っています。

ソシュールのポイントは、この「規則性」や「一貫性」が、言語の外部、すなわち記号と対象との間の自然的な関係に基づいているわけではなく、言語コミュニティの内部的な合意や習慣によって成立しているということです。

>俺
言語の記号とそれが指す対象や概念との間に自然的または必然的な関係が存在しないということは「ランダム」あるいは「不作為的」ではないでしょうか?ある動物を日本語で「犬」、英語で「dog」というときに、これらの言葉に「四足である家畜の動物」を指す必然性は内在しませんね?

>ChatGPT

確かに、ソシュールの考える「恣意的」の意味の核心は、言語の記号(サイン)とそれが指す対象(サイニフィエ)との間に自然的または必然的な関係が存在しないということです。この意味で、「犬」という言葉がある特定の動物を指す必然性や自然性は確かに存在しません。同様に、"dog" がその動物を指す必然性もありません。

しかしながら、この「恣意的」を「ランダム」や「不作為的」と同義として捉えるかどうかは、少し微妙な問題です。

「ランダム」や「不作為的」は、特定の規則性や意図が存在しない状態を指します。一方、言語のサインとサイニフィエの関係が「恣意的」であることは、その関係が特定の文化や言語コミュニティにおいて、時間をかけて形成された合意や習慣に基づいているということを意味します。

言語の中のサインは、ランダムに変わるものではありません。むしろ、そのサインの意味や関係性は文化や社会の中で一定の安定性を持っています。これは、言語の使用者たちが日常的なコミュニケーションを円滑に行うための必要性からくるものです。

したがって、ソシュールの指摘は、サインとサイニフィエの関係が「自然的または必然的ではない」ということを強調していますが、その関係が完全に「ランダム」や「不作為的」とは言えないというのが、言語学的な視点からの捉え方です。

>俺
日本語の恣意的と英語のarbitraryはどちらも「作為的」「不作為的」の2通りの意味で使われます。ソシュールの母国語であるフランス語ではどのような単語が使われていますか?

>ChatGPT

ソシュールが使用したのは、フランス語の「arbitraire」です。このフランス語の「arbitraire」は、英語の "arbitrary" や日本語の「恣意的」に相当します。ソシュールの文脈では、「arbitraire」は「恣意的」や「作為的」として解釈されることが多く、特定のルールや原則に基づかない、主観的な意味での「任意的」を意味しています。

ソシュールが「言語のサインはarbitraire(恣意的、または作為的)である」と指摘した際、彼は言語の記号とそれが指す対象との間に固定的、必然的な関係が存在しないということを意味しています。言い換えれば、ある記号が特定の意味を持つのは、その言語コミュニティの慣習や合意によるものであって、その関係は任意的(恣意的、作為的)である、ということです。

しかし、「arbitraire」や "arbitrary" 、そして「恣意的」が「不作為的」という意味にも取れる点については、文脈によって注意が必要です。ソシュールの文脈においては、この「不作為的」のニュアンスは主要なものではありません。彼が指摘しているのは、言語のサインと対象との関係の「作為的」な側面です。

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どうも納得がいかない、と思ったら人間界でも(笑)
http://daimyoshibo.la.coocan.jp/hnrpn/shiiteki.html


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