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満洲の雪ホテル/sample

          序幕

 街中の一角にあるその建物は、まるで地に深く根を張っているように見えた。百年や二百年、あるいはそれよりも何倍もの年月のあいだ、ずっとそこに建てられていたというみたいに、何だか威風堂々とした佇まいをしていたのだ。
 とはいえ、そこに時間の試練に打ち勝った余裕や優雅さは一切なかった。どうしても生にしがみつかなくてはいられない、これから百年も二百年もその倍もずっと同じ場所に在り続ければ気がすまない。そんな風にまといつくような執念が白亜に塗られた石積みの外壁や、美しく磨き抜かれた窓やドアの硝子からは漂い、またそんな建物全体から与えられる印象には実際そうなるかもしれないと予感めいたものを含んでいた。
 大きく開いた玄関は大通りに面していて、そこからたくさんの人間が建物に出入りをする。その大半は、用が済むとすぐに出ていってしまう。内部にあるレストランで食事を摂ったり、ロビーで一服したりするのが彼らの主な目的だったから。けれどもただちには去らずに、建物の中で何日か過ごす人間もいる。
 はっきり言ってしまうと、この建物はホテルなのだ。ちゃんと名前までつけてもらっている。『満洲の雪ホテル』というのが、建物につけられた名前だ。もっともそれは欲しいと求めて、よこされたものではなかったけれども。

            第一章

 重々しくて、息苦しい。それが根室の抱いた『満洲の雪ホテル』の最初の印象だった。
「ここは近隣にある店の中では珈琲や紅茶を一番上手く淹れます。朝昼晩とそれを目当てで、ホテルに通う住民もいるくらいです」
 道案内をしてくれた詰襟の青年が隣でそう言うのを根室は確かに聞く。彼は名を智欣という中等学校の学生で、日本語に精通しているために、わざわざ渡満したばかりの根室の道案内を買って出てくれたのだった。
「やっぱりヤマトホテルには敵いませんけれど、このホテルもなかなか悪くないところです。リネンの管理もしっかりしていますし、従業員は弁える場面とそうでない場面をきちんと見分けられます。それに――」
「紅茶と珈琲がおいしい?」
 根室が横槍を入れる。すると相手はそうです、と答えてはにかむように笑う。その途端に少年っぽい可愛らしさがふっと顔を出してきて、見ている方は何となくくすぐったいような心持ちになる。
 かすかに頬を緩ませながら彼は懐に手を入れて、駄賃を出そうとした。だが相手はにわかに顔色を変えて首を横に振って、こんなことを言う。そんなのは悪い。こんなのを貰ってしまったら、おじさんに叱られてしまう。
 智欣が話題にしている“おじさん”というのは、根室が借りた下宿の大家のことだ。彼は根室に満洲の働き口を紹介してくれた人の知り合いで、今の部屋を貸している住人の一人が引っ越すというので、彼が所有している部屋を新居に定めたのだ。
 本当なら今日この日に入居出来る手はずだったのだが、どこかで連絡が行き違い、まだ前の住人が部屋で生活している状態になっていた。彼らの話を聞けば部屋が完全に引き渡されるまで、あと二、三日かかるらしい。
 根室は分別のある大人であるので、相手を追い出すわけにもいかないというのはわかっていた。かといって、こちらが野宿するわけにもいかない。そこで仮宿として紹介されたのが『満州の雪ホテル』なのだった。
 結局、道案内のお礼は食べ物を買ってあげるということで落ち着いた。路傍に出ていた肉饅頭の屋台を示して、あれがいいと言ったので根室は蒸したてのものを二つ買った。それを彼らは横町に入ったところ――路地裏の物陰で並んで頬張っている。
 根室はトランクの上に腰を下ろして、饅頭を咀嚼しながら通りを眺めている。往来は行く人来る人で、ひどく賑わっていた。もしかすると彼が今まで目にして来たどんな雑踏よりも、変化に富んでいたかもしれなかった。露語や英語、協和語とかそのほかの外国語が矢のように飛び交う光景は故郷ではもとより、東京にいたときでもなかなか見られなかったからだ。
 ひたすら表の往来を眺めていると、隣にいる智欣が思い出したようにそうだ、と口にする。夜が更けたら客室から出ない方がいいですよ。あんまり気分が良くありませんから。
 饅頭を口元に運ぶ手を止めて、根室は少し考え込む。相手の言うことが彼には今一つ分かりかねた。部屋から出るなというのもそうだけれど、気分が良くないという言い方が何だか引っ掛かった。
「何か保安や安全性に問題がある場所なのか? 悪いところではないのだろう」彼は訊ねる。
「確かに、あのホテルは悪いところではありません」
 少年は饅頭をかじりつきながら、でもはっきりとそう答える。
「ですが光と影を切り離すことが出来ないように、物事には必ず後ろ暗い部分がついて回ります。あそこでは夜になるとそれらが一気に噴き出してくるのです。まるで地獄の入り口を開けたみたいに」
「そうなのか。ちょっと大変なんだな」
「でも、心配することはありません。部屋さえ出なければ大丈夫です。夜中に外を歩かなければ安心です。何も心配することはありません」
 単語や言葉が繰り返されるうちに、ぴんと根室の頭の中にひらめくものがある。はああ、さてはアレが出るというわけだなと。どこそこの旅館やホテルに怪しいものが出てくるらしいというのは、巷ではよく耳にする噂話だ。

(中略)

 大通りにいた志水桃(ジ・スイタオ)は人混みを避けながら道をじぐざくに進むと、機を見計らって何かのビルティングの路地裏に飛び込んだ。そうして見回して辺りに誰もいないこと、そして何者も入り込んでくる気配がないことを確かめると、彼女は持っていたトランクを地面に置く。
 降ろしたトランクが、地面に触れるとごつりと重たい音を立てた。その上に水桃はそっと腰を下ろす。あまり行儀が良いとは言えない振る舞いだった。でも、そんなことはとても気に留められなかった。荷物は重たかったし、身の安全のために今までずっと気を張っていたので、とても疲れていたのだ。
 一人旅だった。とはいえ思い立った勢いのままに、飛び出してきたから行く当てはなかった。当てもないから、旅に明確な終わりも存在しない。彼女が確かにあると断言できるのはいま着ているシャツとスカート。脚に吸いつくような平べったい靴と、薄いコート。その隠しの中に家族からの幾つかの手紙。そしていま腰かけているトランク。それだけだった。これ以外の物事は何もかも五里霧中で、水桃は途方に暮れている。
 けれどもあそこから思い切って出奔したことを、彼女は後悔していなかった。鬱々として自我の内側に沈み込むどころか、むしろ洗いたてのシーツを干したときみたいに、何だかすっきりとして清々する心地さえした。
 馬鹿な方が悪いんだ、と彼女は頬杖をついて思う。持ち出されて困るようなものの管理を他人に任せるから、だからこんな風に遠くまで逃げられることになる。あの威張りくさった工場の連中が右往左往している様を想像すると、おのずと笑みが零れた。
 しばらくのあいだ陰の中で、じっと水桃は座り込んだままでいた。そうして表通りを行き交う人波に目を凝らしている。同時に彼女は効く。石畳を叩く多くの靴音、誰かの囁き声、荷車が轍を踏み、自動車が音を立てて通り過ぎ、自転車のベルが鳴り響く。そんなものにひたすら耳を傾けている。
 これだけ人がいるのだから、私一人が紛れてしまうなんてわけないだろう。そう彼女は信じている。正確に言えばそんな振りをした。自分で意識をしてはいなかったけれども、彼女の考えには少なからず嘘が混じっていた。
 物思いに沈んでいると水桃はふと思い出して、コートの左ポケットから一枚のメモを取り出す。これはトランクを持って工場から出ていくときに、同僚の柳月から貰ったものだった。彼女は困ったときにはここ向かえと場所を走り書きしてくれたのだ。そして掌より一回りほど小さいその紙にはこう記してある。
『満洲の雪ホテル 酒吧(バー)・客中行 一九一五年』

【本編へ続く】
 

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