オタクと解釈

初めましての方は初めまして。
筑波大学ナナシス同好会のたかはしと申します。
げんしけん喫茶班と不思議探索班(SOS団)にも所属していますが、基本的にはナナシス同好会の人間だという自認です。まぁ、ナナシス同好会は開店休業状態……というかシンプル休業状態ですけども。

なぜナナ同が休業状態なのかというと、早い話が人数不足ですね。はい。4人しかいません。
しかもその4人のうち1人は海外に行っちゃうし、1人は別のコンテンツに完全移行した風だし、1人は知らんけど、1人は懐古厨になってほぼ引退しちゃった。最後のが私ね。

私が懐古厨になった理由はナナシスの総監督の交代に伴う様々な変化についていけなくなってしまったからなのですが、これについては私がダメだったというよりもついていけているオタクがすごいというのが正しいと思います。たかはしちゃん悪くない!

とはいえ懐古厨になんてならない方がいいに決まっています。どんなに嘆いても時は進むばかりですから。覆水盆に返らず。後の祭り。……あれ、ちょっと違う?だいぶ違うか。う〜ん。

でも、何でもかんでも「すこ」だとか「てぇてぇ」だとかいう人に比べたら私みたいな懐古厨の方がまだ面白いよな〜とも思うんです。
だって、なんでもてぇてぇマンからは苦しみが見えないから。
人の苦しむ姿、というかオタクの苦しむ姿ってすごく魅力的だと思うんですよね。

……待って!行かないで!!話せば分かる、話せば分かる。

オタクの苦しみにもいくつか種類がありますが、私が今回取り上げたいのは解釈違いの発生に伴い生まれる苦しみです。

今これを読んでくれているそこのあなた!あなたには解釈違いが原因でガチで気分が悪くなったり泣き出したりした経験がありますか?私はあります。(誇れることではない)
そもそも人は同じものを見ても同じものを受け取るわけではないのですから、あるものについて自分とは大きく異なる解釈をしている他者が存在していてもなんら不思議はありません。むしろそれこそが正常な世の在り方だと言えるでしょう。

問題はそのような他者と出会ったときの対処法です。時と場合によると言えばそれまでですが、基本的には争わない方がいいでしょう。何か言いたいことがあった時はこうしてnoteにふんわり書いておくとかそれくらいにしたほうが丸いし、相手も変に意固地にならないから届きやすい気がします。

しかし争わないことと受け入れることは違います。私は争わない方がいいとは言いましたが、受け入れた方がいいとは言っていません。もちろん受け入れようという努力をすることは良いことだと思います。他者の解釈は新たな視点を提示しますし、新たな視点を得ることで世界はもっと面白くなると思うので。でも、自分の解釈と他者の解釈を突き合わせ擦り合わせ結果として相手の解釈を受容することと、自分の解釈がふわふわしているために他者の解釈に同調することとは大きく異なります。前者については何も言うことはありませんが、後者については「そんなことをする人間はつまらないな」と思います。

「自分の解釈と他者の解釈を突き合わせ擦り合わせ結果として相手の解釈を受容する」ためには、自分の解釈をある程度確立させなければなりません。そして自分の解釈が確立している人間が己の解釈と根幹を違えた解釈と出会ったときに初めて発生するのが解釈違いです。曲げてしまえば楽になれるのにどうしても曲げられない部分があって、それゆえに生きる上であまり必要のない点で深い苦しみを味わっているのが解釈違いを起こしているオタクです。なんて美しいんだ。好きにならずにいられるわけがない。

というわけで最近ナナシス運営と解釈違いを起こして懐古厨になっているたかはしちゃんは美しいわけです。(自己肯定感の鬼)

まぁ私が美しいかどうかはかなりどうでもいいのですが、つまり私が言いたいのは「オタク、もっとこだわれ」「何でもかんでも受容する人間はおもんないぞ」ということです。

当たり前ですが私のような懐古厨は普通に害悪なので今を楽しむオタクたちに水を刺すようなことはしてはなりませんし、間違ってもアンチ活動なんてしてはいけません。
でも、なんでもホイホイ受け入れて「すこ」だの「てぇてぇ」だのと言う意志の弱い人間にはなりたくないと思うし、これを読んでくれたあなたにもそんなつまらない人間にはなってほしくないとも思います。もちろん本気で「すこ」「てぇてぇ」と思うのならそれは軽率に表明するべきですが。

まとめ

苦しむオタクは美しいし面白い!
みんなも己の解釈を確立して苦しみながら生きよう!


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