荒野に咲く花々X-マエストロ・フィロ

で、私は何者なのか?
    

              マエストロ・フィロ・シトラルショチツィン
              プエブラ州ミステカ地域先住民ナワの代議員

画像20

     マエストロ・フィロ・シトラルショチツィン

2019年から大阪で始めたスペイン語文献読書会で最初に訳したテキストを紹介します。2017年に組織された先住民統治議会(CIG)の代議員に選出されたマエストロ・フィロのインタビュー記事で、2017年8月に、彼?の本拠地である「世界に向かって歌うカラコル」で開催された教育セミナーの場に参加したサパティスタ第6委員会の女性メンバーが行ったものである>。


 2017年8月12日(土)の深夜、まもなく13日(日)になる。ナワトル語で「人を育て、教育する術」を意味する「トラカワパワリストリ」という集会が開かれている。正午頃、最初の参加者が到着してから、午後から夜にかけ、エミリアーノ・サパタ自治学校の緑の黒板にはずっと次の質問が書かれている。「で、あなたは?」これは集会参加者への問いかけである。誰もが発表で答えようとした。参加者は、チアパス、プエブラ、メキシコ、メキシコシティ、そして米国からの一組もいる。全国先住民議会(CNI)とサパティスタ第6員会の仲間もいる。

画像20

      8月13日のトラカワパワリストリの会合

 集会場からあまり遠くないサンタクララ・ウィツィルテペックの中心部からは、守護聖人祭の音楽や踊り、花火の音が聞こえてくる。グアダルーペを祭るピラミッドの前で、何人かの参加者は大声で笑いながらミステカの空を横切る流れ星を数えている。まだ湿っている薪を投入し、消えそうな焚き火を何とかしようと焦っている人もいる。台所ではまだお喋りしている人もいるが、多くの人は、「世界に向かって歌うカラコル」のキャンプ場のテントですでに眠りについている。

画像19

          グアダルーペを祭るピラミッド

   問題がないかチェックするためカラコル全体を巡回した後、眠ろうとしていたマエストロ・フィロの前に、突然、第6委員会の若い女性同志が急ぎ足で駆け寄り、笑顔でインタビューを申し込んできた。女性同志は、マエストロ・フィロを納得させるため、「質問はほんの少しです」と確約するように言った。マエストロ・フィロは、2年前から顔面神経麻痺のため聖母グアダルーペのイラストがあるバンダナで顔を覆っている。マエストロは対談相手の眼を見つめ、彼女の中にある「誠実」という言葉を明確に聞きとる。マエストロは深呼吸をした後、答えた。「いいですよ。私たちの歴史に関する独自の考えを説明する必要があるから」。

画像20

          文書館グアダルーペ研究センター

 マエストロは第6委員会の女性同志を文書館グアダルーペ研究センターに招き入れた。この部屋は訪問者たちが特に注目していた場所である。彼は一本のロウソクに灯をつけ、五角形の建物の中央にある五角形のガラステーブルに置いた。それは5つの壁からなる部屋で、天井は5弁の花の形を逆むきにした独特のレンガ造りである。壁に描かれた色鮮やかな絵画が無言の証言者として、歴史を語るように見える。それらは描かれた言葉、つまりナワトル文字の古代書記体系のものである。様々な木や箱の中には、ナワトル文化を扱う数十冊の本に記載された書き言葉がラテン文字で表記されている。

画像20

        「世界に向かって歌うカラコル」の入り口 

 マエストロは部屋の奥に進んだ。そこにはテーブルを兼ねた古いミシンがあり、巻貝とテポナストリ【割れ目の入った木製太鼓】が置かれ、それぞれの前に燭台が置かれている。彼が火を灯すと少し明るくなり、聖母グアダルーペの美しい旗を支える葦が鮮明に見えるようになった。彼女、聖母グアダルーペは、これから起きることに気を配りながら、微笑んでいるようだ。コーヒーをもって仲間が現れたが、終わるとすぐに帰った。マエストロはいつもの場所、自分の椅子に座った。彼の後ろにはグアダルーペの旗があった。
 第6委員会の女性同志は携帯電話の録音機能をセットすると、緊張した手つきで紙巻タバコに火をつけ、対談者とのインタビューに付き物となっている儀式から始めた。まず一口、コーヒーを飲み、最初の質問を発した。

CS:マエストロ、2017年5月28日、世界中が見ている前で、チアパス州の統合的育成先住民センター大地・大学(Cideci Unitierra)の講堂で、帽子を胸の前におき、左手を伸ばし、全国先住民議会(CNI)の先住民統治議会(CIG)代議員として宣誓しました。とても厳粛で歴史的な式でした。メキシコや各国の多くの人々が宣誓式の実況中継を見ていた。その後、同じ会場であったCIGの最初の記者会見に、広報官マリア・デ・ヘスス・パトリシオが登場した。あなた自身も代議員として、国内外のメディアからCIGへの質問のいくつかに答えました。それに至るまでどうでしたか?つまり、背景にどんな歴史があったのですか?

画像20

            CIG代議員就任宣誓式

 マエストロ・フィロは黙ってガラスのテーブルを凝視した。それは一瞬、美しい黒い鏡、正確にいうと煙を吐く鏡【アステカの神格テスカトリポカの語義】のように見える。揺らめく蝋燭や燭台は光と影のリズミカルな踊りを創り出す。長い沈黙の後、ほんの少しばかり「櫃・ケース」を開け、マエストロ・フィロが発した言葉は、サパティスタ・コーヒーの凛とした香り、いくつもの花の花びらと煙草を混合した香りと混じりあった。

MF:2001年に「大地の色の行進」がプエブラを通過したことがすべての始まりだった。それまで私はデモ行進に参加したことはなかった。世界のいろんな都市で行われたゲイ・マーチには何度か参加したが、どれもカーニバルや祝祭的なものだった。実際、政治集会に行ったことがなかった。スローガンなど何も知らなかった。私にとってすべて新鮮で印象的だった。
 私たちが掲げたプラカードにはこう書かれていた。
「500年間私たち先住民族に強制されたもの。 
 ユダヤの歴史:聖書、
 ローマの宗教:カトリック、
 ギリシャの習慣:民主主義、
 ヨーロッパの言語:スペイン語」。
 私たち先住民族は、オルメカ、トルテカ、マヤなど、祖先から受け継いだ歴史、宗教、習慣、言語、土地を保全する不可侵の権利を持っている。

CS:そもそも、EZLN司令官が先頭にたった「先住民の尊厳」の行進に、あなたが参加しようと思った理由は何でしょうか?

MF:サパティスタの行進がチアパスを出発したとき、私はこの町に住み始めたばかりだった。自分が何者だったのか、何者なのか理解するため、私はこの町に帰ってきた。最初の答えは、私の町ウィツィルテペックはナワトルのルーツであるということだった。両親、祖父母、曾祖父母、曾曾祖父母はすべてこの町の生まれだった。少なくともその頃には自分が先住民ナワと意識するようになっていた。
 「大地の色の行進」の話を聞いたとき、私はすごく単純に召集されたと感じた。何度も心に語り掛け、最終的に参加することにした。その時、この町の友人が「どこに行くのか」と尋ねたので、私は先住民族のキャラバンについて知っていることを話した。彼は「一緒に行きたい」と言った。そして、その行進に合流するため、州都のプエブラ市に行った。そこでも行進に参加したいという別の友人と会った。何のためにそこに行ったのか、私たちはよく分かっていなかった。そこにいなければならないことは確信していた。

画像19

    2007年「別のキャンぺーン」で訪問した副司令の前で講演

CS:では、あの先住民の権利と文化を求める行進の前は、先住民と思っていなかったのですか?

MF:そのとおり。そのちょっと前まで、歴史、文化、アイデンティティ、尊厳、反抗、抵抗に関心はなかった。私の人生で唯一重要なものは、楽しみと悦楽だけだった。私はとても個人主義、消費主義で、とてもチチホだった。

CS:チチホですって。それは何? どんな意味ですか?

MF:ああ、チチホは経済的・物質的な目的で男と付き合う男のことだ。セックスワーカーとは違い、セックスで直接お金をもらうのでなく、彼・彼女のような関係を継続し、必要な時はどちらか一人がお金を払うことになる。

CS:あなたは同性愛者ですね?

MF:そのとおり。どういうこともない。少しも恥ずかしくない。実際、1ヶ月前にクィロニョトル、「反資本主義的な性的多様性」第一回集会を開催した。非常に多方面から反響があった。プエブラ市での記者会見には、テレビサやテレビ・アステカ、ラジオ、報道機関、インターネットのポータルサイトなど多くのメディアが集まった。会見では、CIGについて話すのは私ではなく、私たちの広報官マリア・デ・ヘスス・パトリシオの役割と発言した。私は市民団体「No Dejarse es Incluirse」【プエブラ州のLGBTTTI団体】代表と一緒に集会の宣伝に携わった。

画像20

            クィロニョトルのポスター

 集会はとても感動的だった。笑いもあれば涙もあった。チリ、ブラジル、イタリア、そして国内のモレロス、プエブラ、トラスカラ、オアハカ、ミチョアカン、メキシコシティ、ベラクルス州から、異性愛者、レスビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーたちが参加した。それはきわめて政治的な仕事だった。異なるという理由で私たちを憎み、差別し、暴力を振るい、殺すというシステムに対する痛み、怒り、憤りの声に、何時間も座って、注意と尊敬をもって耳を傾けることが私の仕事だった。私たちが抱えるあらゆる苦悩の原因は資本主義システムであり、戦争という概念を抜きに理解できないという点で一致した。

画像20

           クィニョトル集会の様子

 性的多様性としての私たちの現実から、反資本主義という立場には様々な形式や特徴があることを学んだ。反資本主義であるにはソビエト連邦に愛着を抱く必要があるというお仕着せのモデルを私たちは打ち壊した。私たちの場合は、先住民ナウアという現実を踏まえ、反資本主義の立場を堅持する。カール・マルクスを読んだとしても、私たちはマルクス主義者ではない。

CS:何がきっかけで、先住民族の運動に関わるようになったのでしょうか?

MF: 先住民族の闘いを知る前、私の生活は「ナンパ」、つまり男性と出会って楽しく過ごすことが中心だった。流行の服や音楽でおしゃれし、レストランやバー、ディスコに出かけるのが好きだった。多くの男性と出会うため、いろんな国を旅した。しかし、私の人生観を変えたのは間違いなくパレスチナとの出会いだった。

CS:パレスチナですって。この問題とパレスチナとの関係は?

MF:大いに関係している。ある時、私は世界のゲイのガイドブックを買った。各国のゲイシーンの説明、ゲイのたまり場や発展場のリストが載っていた。いくつかの国に出かけ、ゲイシーンを知ることができた。ガイドブックにあったイスラエル、特にテルアビブの記事を読んだ。テルアビブは近代的で完全にオープンでゲイに寛容な都市で、マーチやフェスティバルがあり、楽しく過ごせる場所がたくさんあった。2000年の秋、ベルリンからミュンヘンに向かい、テルアビブ行きの飛行機に乗った。そこからバスでエルサレムに行き、数日間滞在した。すべて順調で楽しい時間が過ぎた。しかし、あることが起きた。

CS:何があったのですか?

MF:ああ、エルサレムの街を端から端まで見て回った後、死海に行くことにした。午前中に着き、しばらく水浴びをしていた。数時間後、2人の男がやってきて、私をじっと見ていた。やがて一人が近づき、「二人は私がどこから来たのかと思っていた」と、英語で尋ねてきた。「メキシコから来た」と答えると、彼は「メキシコ人がこんなに遠く離れた所で何をしているのか」と聞いてきた。そして、何が起きたかというと、この国を知るために来ていると、答えてしまった。
 こうしてパレスチナ人ペアとの大冒険が始まった。二人は従兄弟だった。一人は教師、もう一人はドイツ語圏のヨーロッパ人と結婚していた。一人とは英語、もう一人とはドイツ語で話した。要するに、彼らは自分たちの国、イスラエルの占領、戦争の恐ろしさ、占領の残忍さ、領土の植民地化を最大限に表現して見せてくれた。砂漠、砂浜、街で、私たちは多く語り合った。風景だけでなく人間も見せてくれた。彼らの暮らす街や家に行き、家族や友人と知り合いになった。私に文化を教え、食事などの世話もしてくれた。でも分かれる日が近づいた。姉妹の一人が結婚するので、2週間滞在し、イスラム教の結婚式がどんなものか見てほしいと、彼らは言ってきた。

MQ:それで、パレスチナ人の結婚式に出席したのですか?

MF:いいえ、その数日後ドイツに戻った。ある夜、ベルリンでテレビを見ていた私は第二次インティファーダ【2000年9月末】の映像を初めて目にした。それを見たとき、占領下のパレスチナで暮らし、学んだこと、出会った人々のことをすべて思い出した。自分の中の何かに火がついた気がした。それは今も消えてはいない。

CS:ところで、話を先住民の問題にもどしますが。

MF:そう、ドイツに帰る直前、ユースホステルに泊まるお金を無駄にしないために、エルサレムに一泊した。私はもう前と同じではなかった。何かが起き、何かが変わっていた。パレスチナの地で見聞したあらゆる暴力や不正を前に、私にできたのは怒りと無力感から泣くことだけだった。私は何度も何度も繰り返した。私はユダヤ人ではない。私はユダヤ人ではない。私はユダヤ人ではない。
 世界の3大一神教(イスラム、ユダヤ、キリスト教)の聖地とされる街のダビデ王の公園で心を落ち着かせたとき、惨めな私の心の奥底に一つの問いが生まれてきた。で、私は何者なのか?だが答えは見つからなかった。虚しさ、孤独、無力感を感じた。私はイスラエルに入国したが、パレスチナから去った。私の中で何かが起きていた。こうした疑問の答えを見つけられるのは、世界中で私が生まれた場所、私の町ウィツィルテペック、この町だと思った。2001年1月12日、私はベルリン-フランクフルト-メキシコシティの飛行機に乗ることになった。完全な余所者としてこの地に住み始めて16年以上になる。

CS:あなたはこの町で生まれたのではないのですか?

MF:もちろん。幼い頃、父はもっと良い生活をさせようと、私たちを連れてプエブラ市に移り住んだ。子どもの時、父と町に帰ったことはあるが、いつも父の家だったので、町の人のことは何も知らなかった。私が初めてここに住み始めたとき、町の人は私を疑惑と不信の目で見ていた。しかし、何者かと尋ねられ、アニセト・クリサントの息子と答えると、すべてが変った。男性は「それなら私の友達だ」、女性は「それなら私の従兄弟だ」、若者は「それなら私の叔父さんだ」と、ニコニコしながら言った。こうして私は余所者ではなくこの町の一員となった。

CS:お父様はナワトル語を話していましたか?

MF:もちろん。近くの町アトヤテンパン出身の代理父がプエブラにいて、酔うとナワトル語で話していたのを覚えている。メキシコ語と言っていた。

CS:それで、御自身を先住民ナワと自覚されているのですか?

MF:それだけではない。ナワの文化は丘、耕地、渓谷の名前、習慣や祝祭、調理道具や料理、…斜めの目と高い頬骨の濃い顔など、様々な形でこの町にあり、今も生きている。エルサレムで「私はユダヤ人ではない」と自らに向かって言ったとき、スペイン征服以来、私たちの民族について作り上げらた大きな嘘が崩れ去った。それ以来、聖書、エホバ、アダムとイブ、アブラハム、モーゼ、ダビデ、イエス、マリアなどは、私の人生において意味と真実を持たなくなった。私は何者なのか?という問いかけ。今はその答えを持っている。私はマセワル、私を生み出した文化の母体はナワトルである。

画像20

           2017年3月マセワリツィン集会

 数ヶ月前、この3月に、私たちがマセワルティンと言っているナワトル文化の統合的再統合のための集会をここで開催した。アヨツィナパ【ゲレロ州北部の町、2014年9月同地の農村師範学校学生43名が失踪】からはナワ語を話す一人の父親と一人の母親が来た。プエブラ州の火山麓地域、北部山岳地域、シエラ・ネグラ地域からもナワ人が来た。プエブラ州ミステカ地域からはミステコ語を話すカップルが来た。プエブラ市やメキシコ市、メキシコ州から多くの踊り手が来た。

画像20

     アヨツィナパ農村師範学校の行方不明者の家族も

 イベントが終了した際には、2千年前にナワトル文化を誕生させた火種は、今も生きていることを強く実感した。テポナストリや巻貝、踊りや音楽、言葉や物語、コパルの煙、花と歌の中に存在していると。

画像20

           各地の踊り手も参加

CS:あなたがCNIに参加したのは先住民ナワとしてでしょうか?

MF:その通り。さっき話したが、私たちこの町の2人は、2001年の「大地の色の行進」で、CNIのことを知った。私たちはその行進に合流した。私たちは行進と一緒にサンラサロにある国会議事堂まで行った。国民を代表すると主張する人々の人種差別に直面した後、EZLN司令官とCNI代表者が、サンアンドレス合意を承認するよう、立法者を道理と論拠で説得しようと試みた。
 しかし、EZLNとCNIは、メキシコ国家、つまり行政・立法・司法という国の三権力の侮辱と裏切りを受けた。立法府の議員たちはサンアンドレス合意の精神に反する反動的な先住民法改革案を練り上げた。大統領ビセンテ・フォックスは改革案に賛同し公布した。先住民行政区から300件以上の違憲申し立てが最高裁に提出されたが、最高裁はそれを却下した。もちろん、反動的な先住民法改革に対する最初の違憲申し立ては、サンタクルス・ウィツィルテペックに隣接しているモルカサック行政区から提出されものだった。
 私も個人として、メキシコ史上最大の不正に対して何ができるか、何をすべきか考えた。何もせず、起きことを見過ごすことはできなかった。悩み抜いた末、メキシコ国家との関係を断ち切ることに決めた。つまりメキシコ市民であることをやめることにした。一定のインパクトがあるように、私は当時のウィツィルテペック行政区首長に手紙を送り、翌日2001年6月16日に私が何をしようとしているかを説明した。私がしたのは、出生証明、選挙人登録、軍人証、パスポート、財務省納税者登録など、自分を認定する書類をすべて焼却することだった。
 それ以来、存在証明書のない人間として私はCNIに参加してきた。資金不足で、CNIの会議、集会、フォーラム、ワークショップの全部に参加することはできない。だが私たちはCNIとともに歩んでいる。CNIの第4、5回会議には参加した。

画像20

   「別のキャンペーン」で副司令マルコス、カラコルを訪問

CS:サパティスタの行進に参加したことで、人生は大きく変わりましたか?

MF:それからの過程で、私はいろいろなものを見聞した。恐ろしいことも素敵なことも。サパティスタ司令官とCNI代表団が下院議事堂に入り、EZLNを代表して先住民女性のエスター司令官が発言した。「私の声を通じてEZLNが語る」という言葉を聞いたとき、肌が粟立ったのを覚えている。しかし、最も驚くべきことは、サパティスタは自分たちのようになれとか、彼らとともに戦えと言わなかったことである。私たちに、私たちの場所で、私たちの現実を踏まえ、闘うよう呼び掛けた。私の現実とはこのようなものである。
 こうして、私は曾祖父母が生活し死んでいったこの土地に住むことになった。何か別のもの、別の世界を創り出し、人々に別の選択肢を作るつもりだ。こうして、私のちっぽけな人生の毎年、毎日、毎秒を捧げている。それは趣味や流行ではなく、一つの生き死にというあり方である。それ以来、一般向けに無料で科学的な教室を開いてきた。土曜日には鶏肉店を手伝っている。お呼びがあれば、パーティやマヨルドミアの祝祭で鶏の皮を剥ぎ切ることもある(父から受け継いだ仕事)。左官仕事をすることもある。絵を描き、文章を書く。パリアカテや旗に物語や夢を刺繍している。

画像18

   古代絵文書の書記体系に基づきイラスト作成 

 私は貧しい。だから、決意した。私は敗残者だから、闘争に身を捧げるしかなかったというわけではない。意識的にすべてを捨て、私は闘争に身を捧げた。雇い主はなく、給料ももらっていない。食物に事欠くこともある恵まれない人間である。反発し抵抗している。こうした決断は個人的だが、闘争は集団的である。
 子ども、若者、大人、男性、女性など、多くの労力と気持ちを結集し、少しずつ構築してきた。グアダルーペのピラミッド、エミリアーノ・サパタ自治学校の教室、文書館グアダルーペ研究センター、シワピレ女性統合対応センター、トミキツテキウ自治診療所、パン焼き窯、そして現在は食堂の建設が進んでいる。私たちは、これらを合わせたものを「世界に向かって歌うカラコル」と呼んでいる。

画像21

          シワピレ女性統合対応センター

画像20

          トミキツテキウ自治診療所 

 この間、この町やほかの場所から多くの人が、来ては失望して去っていった。二度と戻らず、私たちと話さなくなり、さらに悪いことに悪口を言い始めだした。曰く、彼らが探していたものが見つからない。私たちは、彼らが期待していたような存在ではなかった。私たちは、彼らが賢明に「助言」したことをしようとしない。私たちは、彼らの計画、目標、期待を達成しようとしない。しかし、私たちはここにいる。私たちと私たちの原則とともに。

CS:では、CIG代議員として、あなたはこの「世界に向かって歌うカラコル」を代表しているのですか。

MF:いや、CNIの一員として組織レベルをさらに前進させることにした。

CS:では、CIGの代議員はどのように任命されたのですか?

MF:CNIを構成する共同体、村、部族、組織は個々の慣習や伝統に基づき代議員選出法を決めた。共同体集会、エヒード運営委員会など独自の方法で行われた。

CS:あなたも、そういったやり方で任命されたのですか?

MF:いや。この町にはエヒード運営委員会はなく、共同体集会も行われていない。いいですか、何年か前、教区神父と行政区首長が町の広場で共同体集会を開催したことがある。人口2,500人以上の町で、50人か70人、多くても100人程度の参加者が公園にばらばらと散らばっていた。集会の目的は、教区教会を改造するため多額の資金150万ペソを集めることだった。
 宗教とは無関係で、市民としての責任があり、信仰は問わず全員が協力する義務があるとされた。男性1,000ペソ、女性500ペソの募金額が設定され、街区単位の委員会が募金を集めた。ある人が反対意見を言ったら、集会に参加しなかったのが悪いとか、集会で「人々」が決めたのだから協力するのは当然であるという答えが返ってきた。
 私たちも、やろうと思えば同じような茶番でCIG代議員を選任できた。10、20、50、100人、それ以上の人が集まり(家族・友人関係を招集すれば問題なく集まる)、「人々」が選んだと言うこともできた。だが、それは嘘であり、欺瞞でしかない。私たちはそんな形で始めるようとは思わなかったし、思ってもいない。
 残念ながら、私たちの行政区や地域は制度的革命党(PRI)支持者と国民行動党(PAN)支持者に完全に分かれ、労働党(PT)、民主革命党(PRD)、国民刷新運動(Morena)などのいくつかの左派グループもある。近年、ウィツィルテペックでは党派間の暴力的な対立が起きている。一例をあげてみよう。過去の行政区選挙【2013年行政区選挙、PRI派勝利】では、PAN支持者が選挙管理事務所を占拠し、火炎瓶を持ち歩き、「選挙管理委員長がPRIの勝利を否定し無効にしなければ、選挙管理委員長の女性を生きたまま燃やす」と脅迫する事態が発生した。1999年には、PRD支持者が、PRI派のリーダーを誘拐・暴行、行政区役場を占拠、地区評議会と暴力的に衝突したが、その後はPANに寝返った。

MQ:では、どのように代議員に任命されたのですか?ここプエブラ州ミステカ地域ナワは、CNIのリストによれば第65区【全体で93区】ですが?

MF:まず、私たちが実行したことは、自分たちの状況や現実を考察・分析することだった。ここでは政党以外の政治的組織の形態が存在していないことが明らかである。しかも、数週間前、一人の女性下院議員が講演をするためこの町にやって来た。それはアントルチャ・カンペシナ【1974年、プエブラ州南部テコマトランで創設された農民組織、PRI支持】のリーダーで創設者アキレス・コルドバ・モランの妹だった。これは現PRI首長が引き継いた遺産で、行政区におけるアントルチャ・カンペシナの影響力と存在感を物語る。
 こうして、私たちに残された最後の正当な政治的組織の単位はマヨルドミアという形をとるしかないことに気が付いた。しかも、マヨルドミアは町の習わしと慣習として根付いている。この村では、教区司祭が直接管理するマヨルドミアがいくつかあるが、巡礼のように、教区教会に守護聖人像を置くことなく、高度な自治を維持しているものもある。彼らはミサ執行費用だけを支払い、何をするかは自分たちで決めている。

CS:では、代議員のあなたはマヨルドミアに任命されたということですか?

MF:そうですね。町で一番小さいマヨルドミアによって。

CS:どういうことですか。なぜ一番小さいのですか?

MF:この町には多くのマヨルドミーアがある。中でも一番大きかったのは、つい最近祝祭があったサンタクララだった。数年前、教区司祭が祝祭を管理しだし、マヨルドモはなくなった。今あるのは、彼が直接コントロールする委員会であり、教区司祭にとって実入りの多いビジネスとなっている。
 しかし、サンタクルス(5月3日)、音楽隊(11月22日、サンタセシリアを祭る)、セリート(12月12日、町のグアダルーペ祝日)などのマヨルドミアは残っている。それ以外に、カルメン、ロシタス、テハルパへの巡礼【プエブラ州テウィッィンゴにある教会、四旬節5週目に巡礼】、グアダルーペ大聖堂への巡礼、聖フディタスの巡礼、ドロローサ、イエスの心臓の巡礼など、小規模なマヨルドミアがある。

画像20

         2016年第1回マセワル巡礼募集ポスター

 私たちのマヨルドミアが一番小さいかも。始まったのは昨年だから。マセワル巡礼である。昨年12月18日、「世界に向かって歌うカラコル」にあるグアダルーペのピラミッドから、20人ほどが徒歩で出発した。5日間、私たちは小道、通り、道路、集落、渓谷、丘や川、都市を横断し、ポポカテペトルとイスタシワトル火山の間の峠を通過した。そして12月22日朝、ついにテペヤックの丘に到着した。その聖なる丘で、私たちは、疲れや痛みを堪えながら、トナンツィン、崇拝する母、大地に花と歌を捧げた。

画像20

         マセワル巡礼、グアダルーペ大聖堂に到着

CS:マセワル巡礼は他のグアダルーペ巡礼とは多少違うようですね?

MF:そのとおり。カトリックではなくマセワルであるという単純な理由で、私たちの巡礼はグアダルーペ大聖堂が目的地ではない。私たちの小さなマヨルドミアは、地元教区司祭やカトリック教会とは無関係で、それらに依存することはない。私たちは完全に自律的なマヨルドミアである。
 しかし、問題はもっと複雑である。マヨルドミアには定められた目的や任務がある。領土にある特定の神殿を管理運営し、宗教的な祭典を開催し、何百人もの人々に食事を提供することがある。私たちのマセワル巡礼は、資本主義体制の破壊とナワトル世界の再構築を目的・任務としている。同様にすべてのマヨルドミアには、その活動に意味と正当性を与える儀式的行為がある。私たちの場合は、5日間かけて聖なる丘テペヤックを目指して歩くことである。これはゲームではない。それは、規律、強い意志、犠牲、責任を伴う膨大な努力であり、尊敬に値するものである。一人の先住民にとって、聖なるものに深く関与することは、まさに生死に関わる問題であることを知ってほしい。私たちの場合、マセワルとしての関与は、ナワトル語でトナンツィンと呼ばれる母なる大地とのものである。

CS:ところで、マセワルは何という意味でしょうか?

MF:多くの意味がある。『ナワトル・スペイン語辞書』で調べると、農民、家臣、村の人々というが出てくる。しかし、あなたの質問に私が答えられるのは、マセワルは、私たちは「ふさわしい者」、つまりこの土地の最古の住民の後継者を意味していることである。それは、私たちが地球という大地のこの地域に生まれたことを意味する。ナワトル文化からの視点から、世界を見つめ理解するということを意味する。私たちはユダヤ人ではなく、私たちの歴史は中東でなくこの土地にあることである。
 16世紀半ば、私たちの一人であるトラクイロ、つまりナワの絵師、ペドロ・デ・ガンテ師の学校【先住民布教者養成のため1536年設立のサンタクルス学院】の生徒が、聖母マリア像を描いたが、先住民絵文書の方法で描いたので、ナワトル世界でしか意味をもたないシンボルやメタファーを配置した。スペイン征服のはるか以前の古代から、テペヤックの丘は、古代ナワトルの宗教の母なる大地、トナンツィンに捧げられる儀式執行の聖地だったことを意味する。500年間にわたる殲滅戦争にもかかわらず、我々を殲滅することができなかったことを意味する。

CS:はい、ではそのマセワル巡礼であなたは代議員に指名されたのですね。

MF:私たちが指名された。

CS:すみません。あなたのほかには誰ですか?

MF:僕と彼女です。トトラルティクパクナンツィン(後を指して言った)。

CS:その旗のトトラルティクパクナンツィンって、誰ですか?

MF:トトラルティクパクナンツィンは「私たちの尊敬すべき母」である。それは「地表に存在するすべてのもの」を意味する。南部解放軍【1911~19年のメキシコ革命の際、エミリアーノ・サパタが率いた南部革命軍】は、母なる大地をトトラルティクパクナンツィンと呼んでいた。100年前、サパティスタ軍は、グアダルーペの旗を掲げ、メキシコシティに凱旋したことを思い起こしてほしい。この旗がシンボルとして掲げられていた。

画像20

         南部解放軍が掲げたグアダルーペの旗

 マセワル巡礼者の私たちは、この旗を先頭に掲げ巡礼を行う。私たちの旗にはCNIのロゴも描かれている。2匹のガラガラ蛇の頭が向かい合った形で描かれ、母なる大地の顔となっている。その頭から、先住民の女性の気高い姿をした「シワピリ」が立ち現れる。これはあらゆるシンボルを保存している先住民絵文書のようなものである。いろんな色の糸で刺繍されている。ナワトルの芸術作品である。私たちにとって神聖なものであり、私たちの過去の姿、現在の姿、そして何よりも将来の姿を象徴している。

画像20

          トトラルティクパクナンツィン

 CNIの呼び掛けでは、男性と女性を1名ずつ代議員として指名することが求められている。マセワル巡礼では、彼女と私、私と彼女が代議員である。どこに行くにしても、私たちは一緒に行く。私たちはつねに同行する。出入国管理官、軍兵士、海兵隊員、機動隊とのやり取りや、デモ行進や集会、地下鉄や街頭、長距離バスセンター、学校や大学、町や都市などにおいて、この旗と私は興味深い感動的な状況を数多く体験してきた。もちろん、質問すらせず、私たちを拒絶し、軽蔑し、告発し、裁定し、判決する人たちもいる。

CS:つまり、マセワル巡礼はあなたたちを指名したのですね。

MF:そのとおり。私たちはCNIのCIG設立総会に書簡を送り、私たちの動機と理由を語り、説明し主張した。その手紙には最初の5人の署名がある。この町のマヨルドミアでは、3人、4人、そして最初の5人が前面に立ち、緊急かつ重要な決定を下すことがある。

CS:マセワル巡礼は何人で構成されているのですか?

MF:分からない。はっきりとした数は不明だ。1年前は20人くらいだったが、行きたいのに行けない人が何人もいた。ゆっくりだが増えていることがはっきりとしている。今年は何人かな。自分がマセワルと気づかないマセワルも多い。まだ眠っているかもしれないが、やがて覚醒するだろう。また、まだ幼い人もいるし、生まれていない人もいる。

CS:分かったような気がします。この自治学校、カラコルという名目だと、組織の内部にとどまってしまう。それをマヨルドミアにすれば、どんなに小さくても、人々に開放して、広げていける。そうではないでしょうか。

MF:まあね。そうなれば、エミリアーノ・サパタ自治学校と無関係の人も、このマヨルドミアに参加することができる。別の例を挙げよう。去る6月24日、CNIの一人の同志が、アカツィンゴの地区のひとつにある古代のテテレス(ピラミッド)で夏至の儀式を執行した。彼の家を出たところ、近くのアコサクから来た女性たちが近づいてきた。そのうち一人が、笑顔で私に「祝福のハグをしてもいいか」と尋ねた。「何で?」と、私は少し驚いて答えた。「何で、ですって!」と言うと、世界で最も当たり前のことを私に教えるかのように、「私たちの代議員になってくれたことよ!」と答えた。驚いた私は、「あなたは私が代議員と知っているのですか」と尋ねるしかなかった。「もちろんよ!」と二人は声をそろえて答えた。そして一人ずつ順番に私を抱きしめ、祝福してくれた。旗を持っていた私は、どちらか一人に旗を持ってもらわないと、相手を抱擁できなかった。
 分かりましたか?しかし、あなたが忘れてはいけないのは、とっても偉大なものはとっても小さいものから始まるということである。この町で、私たちはほんの一握りでしかなかったが、私たちはできることをやってきた。私たちが、数百、数千になったら、どうなるか、想像してみてほしい。

CS:最後の質問です。マエストロ、あなたにとってCNIとは何ですか?

MF:CNI内部では、私たちは「CNIはメキシコ先住民族の家である。私たちはいつでも歓迎します」と言っている。それは組織の大小にかかわらず、私たちの言葉に耳が傾けられ尊重される空間である。つまりCNIでは、何万人もの組織を代表する人の言葉も、私たちのような小さな組織の人の言葉も、まったく同じ価値を持つ。CNIにはリーダーや指導者はなく、すべての決定は集団的に満場一致で行うと言っている。だから私にとって、CNIは学校でもある。私が知るかぎり最も素晴らしい学校である。私はCNIで、他者の眼差しに耳を傾け、他者の言葉を見つめることを学んだ。

CS:マエストロ・フィロ、興味深いインタビューありがとうございました。

MF:こちらこそ、どういたしまして。私たちは同志でしょ。違いますか。いろいろ質問、ありがとう。ところで、なぜインタビューをしたかったの?

CS:あぁ、あなたにプレゼントするためです。あなたにインタビュー記事をお渡ししたかったからです。私は書き起こしてメールで送ります。その原稿で何をすべきか、あなたたちはご存知でしょうだから。

 まるで一つの契約が成立したかのように、マエストロ・フィロと第六員会の女性同志は強い握手と抱擁を交わす。旗はただ見守り、沈黙し、声を発することはない。しかし、そこから女性的なものが大気中に溢れだしている。五角形の部屋から出た第6委員会の女性同志は、漆黒の夜の小道で迷うことになった。マエストロ・フィロは1本のロウソクと燭台の火を消したからである。文書館グアダルーペ研究センターが真っ暗になり、彼は顔のバンダナを外した。
 屋外では、ほとんど声が聴こえなくなっていた。大半の参加者はすでに眠りについている。すでに、彼らはこの質問に対する答えを夢見ているかもしれない。「あなたはどうですか?教育のために何をしていますか?」 
 その間にも、ホタルや流れ星は、天空に痕跡を残しながら飛び交い続ける。大空にじっとしている星々は笑っている。プエブラ州ミステカ地域にある小さな「世界に向かって歌うカラコル」が眺め、聴きながら笑っている。



 

























この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?