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ほんのしょうかい:『なやめるあなたの道徳教育読本』〈『思想の科学研究会 年報 最初の一滴』より〉

「思想の科学研究会 年報」では、第二号の「最初の一滴」より、[ほんのしょうかい]というコーナを立てて、サークルなどで扱った本の紹介を始めました。紹介した本は、それなりの価値があると思っていますので、ここnoteでも、記事を添付していきます。

神代健彦・藤谷秀編著:『道徳教育読本』(はるか書房)


(著者の一人である研究会員の和田悠氏より寄贈)

 2015 年の「学校教育法施行規則および学習指導要領」の一部改正により、道徳科がスタートし、2018年度から小学校、2019 年度から中学校で実施されることになった。『道徳教育読本』は、このことを踏まえて、道徳教育をいかに考えるべきかをテーマとして編まれた編著である。
 道徳をいかに授業で扱うか、これは、簡単に答えがでるような問いではない。特に日本では、アジア・太平洋戦争下で、教育勅語と共に、日本の軍国主義教育の中核を担ったのが、当時、修身と呼ばれた道徳教育でもあったからだ。今回の道徳の教科化は、戦後教育改革の中で一度は否定された修身の復活や、思想信条の自由を侵害する可能性も危惧されている。
 子供たちの健全な精神の発育を守るために、なにが大切なのか、道徳の教科化の危険性のみを主張し、この問題から目を背けることが、正しい選択だろうか。そして、その課題を与えられて苦しむ真面目な教師への共感。そういう切羽詰まった彼等の思いが、この本を出す動機になったと信じる。道徳というものが求めていることは、日々の営みの際に、悪への選択をしない、不正を遠ざけるという生き方を選ぶことであろう。それは、よく生きること、自分から逃げずにまっすぐに生きることなのであるが、それは、自分の中の気づきを育てることにほかならない。これは、固有の人格をもつ多くの人の振る舞いに心をくばることで、気づき考えれるきっかけがあたえられることだ。汝の敵を愛せよ、これは、人物としての自分の立ち位置と距離のある人から、自分のことを気づかされることがあるということなのかもしれない。
 教育とは果てしなく継続する苦行かもしれない。けれども、結果として、生涯で、たった一人の生徒が目覚める輝きを見いだせたら、それは、きっと、僥倖なのだ。そして、その子によって、教師は道徳を教わるのだろう。 苦しい道かもしれない。けれども、やはり、踏み出すべき一歩がここにあるのだろう。
 第三章の小谷英生氏の「自己犠牲の道徳論はもうやめよう」の論考では、人格と人物を明確に分けた上で、人権というものにアプローチしている。おそらく、西欧哲学での、歴史的に根拠のある考えかたを踏まえていると推測するが、日本では、人格と人物の概念の境界があいまいで、そのことによる混乱を小谷氏は指摘したいのではないだろうか。人文系の学者からすれば、当たり前なのかもしれないが、私には、この点を意識し始めた論述が、最近、現れ始めているように思える。ここも強調しておきたい。(本間神一郎)


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