はて

さみしくて仕方がないのは

むれでいきるのが いきのびれるから さみしくなる。という 中野信子さんのユーチューブを目にした。


でも さみしい。

ポストに 地域の 薄い雑誌が はいっていた。
この時期になると クリスマスケーキの チョコクリームのような 
ホールケーキが ひょうしにあった。

なぜか 父を 思いだす。

他界した 父。

さほそ かかわりは 自分とはなかったとおもっていたけれど、

なんとなく 家族の きもちが どういうふうなのかを きにして すごしていた。

さえいげない ホールケーキも、
かっていったら どんな はんのう どんな コーヒータイムになるかをそうぞうしながら ケーキとかは 買うものだろう。

うけがいいにしても わるいにしても
なんとなくすごす 家族との コーヒータイム。

きっと ちちは  さりげないひとだったけれども
子供の 気持に 負担をかけないような 
さりげない 日常を 、演出していた?

だから わたしは 父に 負担をかけないように 気を使ってもいた。
ある程度は 親切には まったく わたしからは していなかったかもしれない。

わかわかしいとおもっていたら 他界してしまった父。

いま ははが それなりに はなしかたなど としをとったなと おもうことがある。


とても さみしい。


環境の変化に、
身の回りにいる人を 幸せにしよう。とおもっている心がけのいいひとは、
さみしくなっている 暇などないのかもしれない。

わたしは ばかだ。
まわりに 親切にしながら つねに 相手の笑顔を確認出来たら
いや

ストレスのある 社会で。

何歳になろうと 親が生きているということは

生きていることを わすれて

うまれたときと おなじような 状態でいることに
固執して すごすことができたのに。


環境の変化に シャキッと 自分を かえなくては

解決しなそうだ。

解決できるのだろうか?