「ベンチのふたり」
ある晩春の夕暮れ時、街の雑踏でTとSはすれ違った。まっすぐ歩いてゆくTの背中へ、ハッとしたSが叫ぶ。
「兄さん! 会いたかった!」
……その数分後、ふたりはひと気のない公園のベンチに並んで腰掛けている。
声を掛けられたTは、半身で振り返り、Sの姿を見つめると、無言のまま、小さく手招きしてSに付いてこさせ、横道から一筋二筋入って、座れる場所を見つけた。
Tはベンチの右端にSを座るように手で示し、自分は左端に座った。Sは腰を下ろした途端、両手で頭を抱えた。Tは黙って前方へ視線をやっている。
長い沈黙が続いた。
Sは震えている。精神状態がひどく混乱しているようだ。
Tは落ち着いている。いきなり見も知らぬ男に声を掛けられたのに、戸惑わず、無視することもなく、公園へと導いたのだ。
やがて、意を決したようにSが口を開いた。項垂れ、右手で自分の額を押さえ、絞り出すような声でこう切り出す。
「すみません、僕は壊れています。僕に兄はいません。何故あんな言葉が出たのか自分でも分からない。なのに、あなたは黙ってここまで導いて下さった。僕はすがりたい。話を聞いて頂きたいんです。ご迷惑と分かっていながら」
Tは相変わらず黙っている。この時点で、Tは、Sの話がどんなものか、という事より、この男を救うかどうかを考えていたのだ。
Sは自分のことを語り始めた。
昔からそんな意識はあった、それが年々加速している、それに耐えられなくなっている……と。
具体的な事例を幾つも吐き出し続ける。要約すると、自分に関わる人、親密になればなるほど、その人に何等かの不幸が起こると言うのだ。
自分は人と仲良く和やかに楽しくやり取りがしたい、けれど、仲良くなれば相手は病気になる、尊敬して近づこうとすると、その人は事故にあったりする、とても偶然の積み重なりとは思えない、綺麗な挿花に手を触れるとどれもこれも枯れてしまう悪夢……こんな悲しいことはない、友達一人作れない、孤独だ、淋しい、苦しくて気が変になりそうだ。
いっそ自分が消えればいい、もう終わりにしたい、しかし、それをどうしても何かが阻止する。この生き地獄を続けさせられる意味は一体何なのだろう……。
Sはむせび泣いた。溜め込んでいたものを吐き出して、涙でも浄化させようとするかのように。
Tは依然として黙って前を向いていた。
やはり、この男を見捨てるワケにはいかない。どうする? 試せるだろうか。
Tは口を開くことにした。通りで出会ってから、初めて発する言葉である。
「よく、頑張ってきた」
つぶやくような一言を口にしたTは徐ろに項垂れるSの方へと身を寄せ、Sの震える両手に自分の両手を重ね、強く握りしめた。
Sは驚いて泣き顔のままTを見た。困惑もしてない、その穏やかな表情に、何か救いの光を見た気持ちになった。
Tは、手を重ねながら、ゆっくりと語り始めた。ある程度の言葉は必要だ。その後で明確な感覚を感じて貰わなければならない。
「よく頑張ったな。お前は相当な課題を自分に課して生まれてきた。そして、それを長く積み重ねてきたのだ。
辛かったろう。
お前は、気づかぬうちに大切な魂の友の元へ廻り、彼らの課題を芽吹かせる役目を果たしてきたんだ。
彼ら彼女らが不幸になった?
冗談じゃない。
課題に向き合う最善のタイミングを、お前に開いて貰ったのだ。
そこからは彼ら彼女らの問題だ。
たとえ、その結果が死であったとしてもだ。
だが、一つ言っておく。課題が開いた相手のことを決して憐れむな。自分も罪悪感を持つな。ただ相手の最善を願い、うまくいくことを信じろ。
相手が課題を乗り越えた姿を思い浮かべ、それを信じ切ればいい。
お前はその、辛い辛いと自分で思い込んでいる役割、課題に向き合うことを、自分で選んで生まれてきたんだ。
立派だよ。
お前を死なせないものが何か分かるか?
お前の肉体に繋がっている本当のお前だよ。
苦しくても使命を果たす、という、生まれる前に交わした本当の自分との約束が働いているんだ」
Tは一言一言をSに沁み込ませるかのように伝え続けた。ただ、これだけではまだ足りない。
Tは、自らのことを伝えることにする。最後に手渡すもののために、理解しておいてもらわなくてはならない。
「オレにも役割があるんだ……。
オレの方は自覚してる。かれこれ30年やってるよ。
こちらは毎日一つの目印をビジョンに見て、その人物に会いに行く。
そして、魂の力を開かせる種を手渡すんだ。
そうすることで、その人は自力で自分の中の無限の力を引き出せるようになる。
肉体という器はさほど問題ではない。
魂が本来の自分を思い出せば、苦しみは消える。
そもそもお前は苦しむ必要はない。
いや、苦しんでいてはいけない。
お前は他者の課題を開かせ、その課題が改善されることを心から願う、そんな生き方をする、堂々とした光であるべきなんだ」
泣き顔のSは、Tの眼をジッと見つめていた。強く握られた手が、不思議な温もりを持ち始めていた。
Tは続ける。
「今から、オレはお前の内側に、その種を送り込む。
種は芽吹いて、お前にまだまだ生き抜く力を与えるだろう。
お前は挫けず、誇りを持って最後の最後まで自分の役割を一つの光として果たしてくれ」
Sは、何か清らかで輝かしい流れが自分の中に入ってきて充たすのを感じた。
グシャグシャだった心と身体と脳に、光の芯らしきものが現れ、それが自分の内側を強く照らすように思えた。
しばらくしてTは手を離し、ベンチの背もたれに少し身体を寄りかからせた。
Sは前を眺めるTの疲れた横顔を見つめる。
Tは前を向いたまま、言葉を絞り出す。
「お前はもう大丈夫だ。種は届いたよ。
今日、あの通りですれ違うようになっていたんだな。
そして、お前に呼び止められた。うまく出来てる。全ては天の計らいだ」
Tは立ち上がり、少しよろめきながら、
「じゃ、オレは行くよ」
と言う。
Sはビックリして、自分も立ち上がろうとしたが、
「いいよ、しばらくそこで休んでいろ」
とTが強く言い放った。
Sは、またポロポロと涙を流した。
「何て感謝したら……何て感謝したら……」
立ち去りゆくTの背中にSは、しゃがれた声で叫ぶ。
「有り難う、兄さん! また会えますね!」
Tは通りですれ違った時と同じように半身で振り返り、「いずれイヤというほど会えるよ」と言い残し、公園を出て行った。
Sは、立ち去ったTが、まだ自分の側に、いや、内面にいるような気がした。
何があっても、自分は受け入れてゆける、そう感じられて、Sはまた新しい爽やかな涙を流し続けていた。
さて、Tはよろめきながら、最後の対象の元へと向かっている。
兄さん……か。
ほんの一瞬だけ、彼の過去生がかすめたのだろう。こちらには過去生の記憶は出て来ないが、遅かれ早かれ分かることだ。
効果がうまく出ればいい。
プラシーボのようなものだ。本当の最後の種は、最後の対象のために残してある。
一か八か、自分のエネルギーの殆どを絞り、架空の種を作り、男の中へ力強く押し込んだ。
純粋な彼は疑いもなく信じるだろう。そして、また大切な課題を越えていってくれるこに違いない……。
さてさて、最後の相手に会いにゆく余力は何とか残っている。
その人の、耐え難い苦痛を溶かし、光を灯せるまで、この生命はもつだろう。
そこで、やっとこの役目もおしまいだ。
そう思っているが、この干涸らびた自分のどこかに、小さな隠しポケットがあって、もう一粒自分を生かす種があるとしたら……。
ふとそんなことを思ってみたが、まあ、どちらでもいいのだ。
Tは僅かに微笑みをうかべながら、すっかり宵闇となった街の雑踏へと消えていった。
(了)
©もりのまち◆みずのうた
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