尾崎豊論 序 恥じらいを産む「声」

  序 恥じらいを産む「声」
 例えば、「15の夜」。その声を「聴く」ことは、身を捩りたくなる恥じらいを呼び起こす。マラソン・ランナーの伴走者のように寄り添うピアノ。さりげなく、しっかりと。それとともに進み歌う声。その声。――
 また、一方で、その名前を聞くことも、少なからぬ人に羞恥をもたらす。西原理恵子は、近著(『洗えば使える泥名言』)の中で、編集者から提案されたタイトルに対し(『泥だらけの名言』というものだった)、「そんな尾崎豊くさいタイトル絶対嫌だあああ!」と激しく抵抗したことを明かしている。社会学者の南田勝也は尾崎豊の「青くささやきまじめさ」が、彼の生前から「嘲笑の対象でしかなかった」と指摘している(『ロック・ミュージックの社会学』)。お笑い芸人と呼ばれる人たちに、彼のスタイルを模した者もいる。「恥ずかしさ」を言うことが、当時も今も一定の社会的存在感を持っている存在――それが尾崎豊なのである。
 しかし、それだけだろうか。彼の「声」を「聴く」時、我々の「今」はそんなに割り切れたものだろうか。もっと、何か我々に「ふれる」ものではないか。

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