尾崎豊論・声への歓待 Ⅲ 言葉の氾濫 声の反乱

Ⅲ 言葉の氾濫 声の反乱


 ライブで彼の姿を見た者たちは、『誕生』以後の尾崎の声が「苦しげだった」と語ることも多い。曰く、「声が出ていなかった」「痛々しく振り絞るようだった」などと。我々がここまで、帆柱に体をくくりつけて聞いてきたセイレーンの魔術的な歌声が、衰えているように感じられていたらしい。もちろんそれは、現場にいた者それぞれの感想に過ぎず、断定的に受けとめるべきものではない。
 しかし、例えば『放熱の証』を聴くとき、「尾崎の声は最後まで美しく、魅力的。声が出ていなかったなんてことはない」という感想より、「幻滅」の言葉に妥当性を感じる。最後のアルバムでの尾崎の声は、『十七歳の地図』『回帰線』の頃の伸びやかさを失い、無理矢理張り上げたような高音と、たどたどしい中低音とが、妙な明るさを持つサウンドのもとにパッケージ化されている印象を拭えない。虚空を飛び、聴き手を刺し射貫く矢のようなあの声が、聴き手の足下を掘り返す重機のような印象に変わっていて、もどかしいのだ。その重機も、決して最新鋭のものではなく、散々使われてガタがきた古ぼけた一台のイメージだ。
 このような変化が、なぜ、尾崎に起こったのだろうか。加齢(といっても、彼はまだ二十代半ばだが)や薬物の使用等による肉体的な変化は否みがたいだろう。だが、このような空中戦から地下水脈探しへの変化の始まったころを尋ねると、我々は尾崎がその短い生涯の中で新たに産みだそうとしていたものの存在、その徴候に気づく。
 それは、『誕生』の「Love Way」に始まる。だが、内省の深まりによって源流へと遡行していくのではなく、全ての審級が混乱したままいっぺんに押し込まれる形になっている。それは確かに、未完成な試行である。我々はここに、意識的に腑分けしながら踏み込んでいく。
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  罪、裏切り、言葉

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