尾崎豊論/声への歓待 Ⅱ 価値ある言葉(とその近傍)

 Ⅱ 価値ある言葉(とその近傍)

 死後、四半世紀経った現在、尾崎の名は、「I LOVE YOU」や「OH MY LITTLE GIRL」といった最初期のラブ・ソングで思い出されることが多い。数年前に作られた一九八十年代を舞台にした邦画(『ホットロード』)でも、「OH MY LITTLE GIRL」が主題歌となっていた。
 しかし、彼が活動していたころは、そのようなイメージが中心ではなかった。その時代では、「15の夜」や「十七歳の地図」、「卒業」の印象が強かったはずだ。なぜ、このように変化したのか。
 また、これら有名バラード二曲の後にも、彼には、「Forget-me-not」というその声の美質が最大に生かされた曲がある。一度でもそれを聴いた者には、いつまでもその印象が消えない。まるでタイトル通りだ。ところが、この曲の後半は、その端正な世界を不意に放棄してしまう。『壊れた扉から』で最後に完成した曲(須藤晃『尾崎豊 覚え書き』)なのだが、むしろ、そのような自壊をこそ彼は求めたようにさえ聴こえる。なぜ彼は、「Forget-me-not」を、「I LOVE YOU」的に作り込めなかったのか。あるいは作り込まなかったのか。
 この曲には、彼の用語法が示す亀裂が顕在化しているからだ。
※ ※ ※
 a 愛(と恋)
 尾崎豊の六枚のアルバム(約七十曲)の中で、最頻出かつ中心的な概念を担う語彙が「愛」であることは、誰の耳にも明らかだ。名詞としての「愛」だけではなく、「愛している」「愛しい」「LOVE」などの周辺語も含めば、ほぼ六割の曲に、それらの語が存在する。
 尾崎豊のこの語に示す関心の強さは、デビュー前から一貫していたようだ。『尾崎豊 覚え書き』には、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』を、「難しくてページがなかなか進まないんです」と言いながら持ち歩いている姿が描かれている。愛の技術(愛は育むものであり、人はそのための方法を自覚的に学び、自らに養うべきである)を説くこの書。この書が彼の用いる「愛」という言葉の意味を幾分でも明確にしたのではないかと考えてみる。ところが、『街路樹』や、「LOVE WAY」という曲から始まる『誕生』のころになると、明らかに志向性を欠いた「愛」が頻出している。空回りしているのだ。
 たしかに、『十七歳の地図』の頃は、「愛という言葉をたやすく口にするのを嫌うのも/一体何が愛なのか それは誰にも解らないから」(「愛の消えた街」)と歌うことで、「何が愛なのか」を彼自身は知っているかのように振る舞うエモーショナルな確信があった。「十七歳の地図」で「もて遊」ばれる「愛」は、肉体の行為から喚起されるイメージであることも明らかだ。このころの「愛」は、内実があって屹立している。対して、『街路樹』以降は空虚にただ乱打されている感がある。
 尾崎豊に関して書かれた先行する文章の多くは「愛」を意識することで具体性を失う。この語の意味への拘りが陥穽となるのだ。あまりに頻出する語の一部のみを掴んで、論者側の思いを重ねる形になってしまっている。それほど、これの発する光は、強く広く届く。ならば、我々はその照らされていない部分、近傍に押しやられたものからアプローチしてみよう。
  
 尾崎豊の歌では、「愛」が頻繁に用いられるのに対して、意外なほど存在感のない言葉がある。「恋」という語である。
 彼がデビューした八十年代初頭。「恋」あるいは「(男女間の)好きだ」という感情は、大衆音楽の最大のテーマであった。スージー鈴木は『1984年の歌謡曲』で、「歌謡曲とニューミュージックの/雪解け」がこの年に起こったと指摘している。ここに挙げられている曲には多く、男女の恋愛が歌われている。その傾向は、J・ポップや演歌も含めて、現在まで多くの大衆歌謡に共通している。聴き手は「恋(恋愛)」を求めていたのだ。
 これに対し、尾崎の歌には、不思議なほど「恋」が出てこない。「15の夜」では「あの娘と俺」の「恋」はちらっと触れられるだけだし、「卒業」でも「恋に落ち」た彼らの心を奪うのは「愛の言葉」だ。さらに、最もラブ・ソング的だと思われている「I LOVE YOU」でさえ、「おまえ」がなくすことを恐れるのは「この愛」で、「恋」ではない。尾崎が十代でデビューし、そのアイドル的なルックスもあって人気を博した存在である以上、この「恋」への関わりの無さは、やはり強い節操を感じさせる。彼の先行者たる浜田省吾や佐野元春は、エモーショナルでストーリー性があり、イメージ喚起力の強い恋そのものを歌う曲を、幾つも持っている(浜田「もう一つの土曜日」、佐野「情けない週末」など)。しかし、尾崎は、「愛」ばかり歌って「恋」を歌えない。

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