令和歌物語

 

一の段 あるお転婆の半生


 今は昔、女ありけり。
 昭和なる時代(ときよ)、世のカーキ色に染まりたるころし、顔白き大男この地に降り立つ幾年か前、人より牛の多き里に生まれたり。
 同胞は男三人、女は彼を含めて五人。皆揃ひて八人。その中ほどに生まれ、姉あり、兄あり、妹あり、弟あり。父母の一組と父の父、さらにその父もいまし、東の殊に鄙びた里にしあれば、都を襲ひたる様々なる苦難もおおよそ知らで育ちたり。

 やがて父と祖父は亡くなれり。その父、往生に臨みて残せる末期の言葉に、
「うぬだけは男ならざることを惜しむ。動き動きてなほも強き心と体を備へたるが故に。吾罷りてのちは、母に尽くせ。家に尽くせ。よくよく任せたる父の思ひ、ゆめな忘れそ」
 とは、一族選り抜いて猛き性(さが)なるお転婆娘と目せしこそ。亡くなりゆく父の思ひは篤く深く、かのお転婆の中に、最も純粋なる珠あるを信じて、ことさらに餞とせし言葉ならむ。

 父を火に焚き、天に上らせて二年(ふたとせ)。高校を出でし後、お転婆、都東京へと旅立ちぬ。草深きを出で、人多きところにたつき求めてのことなり。さらに、強き心の世界に対ふ二つ穴とも見ゆる大きなる瞳を持つ美しきその容貌をあててか、二つ、三つと縁談の持ち込まれるを嫌ひ果てての思ひもあらむとなり。

 都にはたつきあり。やがて、夫も得ぬ。
 ともに過ごす季節の四つ、めぐりめぐりめぐりかけ、三年に足らざる頃に、夫の身罷りたり。友なる誰彼の言ふに、夫、若き者らの世を動かさんとするに加われるが、あきらめて、命を絶ちたりとかや。
 女、すでに子の一人あり。大人しき子なり。体強からざり、高き熱を出すことも度々なるが、優しき子なり。夫、自ら身罷りし時には、さらにも女の腹に子のあり。お転婆娘は野卑の誹りを厭はぬ母とならむと心を決し、優しき子一人の手を引き、腹を抑へ抑へ、鄙の里へと戻りたり。
 子を置いて行けと迫る夫の縁者とは、その時、全ての縁を切りたると聞き、お転婆の真髄と田舎の家族らは、呆れつつ、迎へ入れるなり。

 亡き夫と暮らしたる家を出でし後、何者か、戸に残せる歌のあり。

昔ものを思はざりしは竹の節割れたるのちにすきだけ見せて 

 
 

二の段 盆切り遠し


 大学で学びたる男あり。英国の文学と言語文化を学びてゐたり。
 ある日、級友の幾人かと、歩きたり。
 一人、言ふ。
「われ、英国の文学を学ばんと参りぬ。童なりしころ、『指輪物語』を読みてより、思ひさだめつるなり」
 別の者、「『ロード・オブ・ザ・リング』の映画なれば、われも見たり。オーランド・ブルームなど、見たること覚えたるなり。色男と思ひ深みたり」
 人々、話し続けたり。
 このうちに終始無言なる別の男あり。カタカナでゆっくり呼ばれたる「オーランド・ブルーム」と言ふ名の残れり。

 やがて、先の男、一人住む家に帰りたり。
 誰にも聞こえやらぬやうな小声にて、一人歌ひ、暗みゆく時に灯(とも)しも点けず、一人ベッドに座り、やがて微睡むに任せたり。

 おどま 盆きり 盆きり 盆から先は おーらんどー

 しばし経ちて、幼き兄の目なうらに見ゆ。男、自らの錯覚に気づきて微笑めば、兄はすぐ消えたり。
 
盆きりと時の足らぬを嘆けどもおらずにおらむどの時も君は

 男、幼き日、母、兄と分かれて、親戚の家に過ごしたり。
 正月のみは、母が一人借りたる狭き一間のアパートにて、母、兄と過ごしたり。
 兄、幼き彼を抱きて揺すりて歌ふ「ぼんぎり」と言ふ声を、不思議に思ひて聞き覚えつるなり。

 兄、田舎に働きて、彼の学費を出したりけるころの思ひ出となむ。

 

三の段 うみある恋


 男あり。夕べの波に星が飛び跳ぬる泡と輝き始める頃、一人、浜辺にあり。
 男、大学の合宿にて近くの宿に泊まりて、演習の終ひて後、浜まで来たり。サンダルを履けるが、片方の足の甲に、血の筋のやうなもの、刻み込まれたり。
 これの所以は、昨夜、ここにて出会ひし女と二人連れ立ちて歩ける。女に不慣れなる男なれば、思いきりて震ふ声をかけたるに馴染める女のあるが嬉しくこの浜を辿れる。この時、鋭利なるガラス瓶の砕けたるに、足踏みこみたり。右の小指と薬指の股を、烈しく切りたり。血のあふるることいみじきなり。
 男の呻きたるを聞きて、女、驚きたり。
 女、しゃがみて男の足に顔を近づけ、タオル地なるハンカチを手に巻きて、音の肌に付きたるガラス片を掃き除けぬ。
「すぐに水で洗ふがよき」
 と、女、やがて顔をあげて言ふ。
 えくぼある女と、男、気付きぬ。男、その奥に飲まるるごとく思ひて、見つめたり。
 男、女に支えられたるやうにして、宿へと帰りたり。

 今、男が浜辺にあるは、昨夜、女と出会ひし所に、今一度会はむ、礼を言はむとて、来たるなり。
 されど、女はなし。
 しゃがめば痛む足には、少しの腫れあり。
 月の傾くまで浜にあり。甲斐なし。

連れ立ちて歩ける足ぞ愛しける 深きあなたに惚れしうみ持ち
 

   
 

四の段 路線バスの人々


 男あり。出張先での仕事、早く終はる日あり。そのまま、妻子ある家に戻るべきなれど、故知らず、ひがみたる心わきたり。日頃より二つ先の小さき駅にて電車を降り、ロータリーに停まりしバスに乗りぬ。
 行く先は音にて流れたれど、乗り込むのみにても大儀なる思ひのしたりければ、聞かず。ただ、年老いたる三、四人の男女のぽつらぽつらと座り、最も後ろの横繋がれる席に、小学生と思しき年頃の男子と、それよりも幼き女子の居るを見たり。男、それより二つ前、車輪の上にて盛り上がれる席に座りぬ。
 バス、走りたり。初めは信号も車も多きに、進みては停まれるの繰り返し、なかなか進まざりき。いくつかのバス停もアナウンスされたれど、誰も降りず乗らず、ただのろのろと進みき。男、バス停の名を聞き流しつつも、見慣れるやうでもあり、まると見知らぬやうとも思ふ街を、窓より眺めき。
 音にも景色にも慣れたるころ、男の耳、聞くともなく、後ろの子等の声を覚えつ。
「にィに、にィに。ママは、無事なるか?」
 女子の声、すがりたるやうにも、責めたるやうにも響けり。
「無事なり。無事なり。汝も、先刻、電話にて父からさう聞きたらむに」
「にィに、吾は分からず。パパは時に、我に嘘を言ふならひ。前に、歯医者さんに連れられし時、痛くはあらじと言ひたもふが…」
「今は嘘にあらじ」
 兄、妹の言葉を断ちたり。
 しばし二人の言葉の収まれると思ひしが、やがてまた、妹、話し出しぬ。幼き声にてあれば、よく車内に通りたり。
「パパはなぜ、今日は我らを迎えに来ぬや。ママのもとを離れられぬにあらざるや」
 兄の声、聞こえず。妹の高き声、車中に響きたり。
「何故、仕事に行きたるパパが病院にや。ママに何やらあるに違ひなきなり」
「黙りたまへ、黙りたまへ」
 兄の声の大きく強きに、男、振り返りたり。手を出しかねぬ勢ひありたるも、ただ、妹の肩をさすりたる兄の姿あり。
「妹、思へ。幼き君にも分かるべきことなれば、ただ思ひたまへ。長く会えなんだ母に、やつと会えたる十日前を。痩せたりといへど、優しき母の顔。汝も見給ふべし。やがてまたみんなで暮らさむと、指を繋いで誓ひて共に寝て十日。十日で変はらうものか。わずか十日で…」
 やがて、兄の泣き伏せる声の聞こえたり。間もなく、妹の泣き声、上に混じりたり。
 病院の前のバス停に至りぬ。男、泣きたる二人の座席をそっと叩き、降りぬべきを知らせたり。他の乗客もほぼ降りれば、男もなにとなく、二人の後につきておりたり。
 降りるとき、妹の体のひどく揺れければ、男、後ろから、「失礼なるが、手伝はむ」と言ひて、彼女の体を持ち上げて、静かに下ろしぬ。
 幼子二人、「ありがたうございます」と揃ひて一礼し、病院へと歩き始めたり。
「育ち良かりし子等なり。定めて、よき父母なるらむ」
 男、しばし離れ行く姿を見守り一人ゐたるが、やがて道の反対のバス停に歩き行き、バス時間を見たり。

乗りあひてわずかな時の共なれど情けの風呂に温みこそすれ

 男、自らの母と死に別れし朝を思ふなり。 
 

 

五の段 町境隠沼(こもりく)心中


 やいや、やいや、やいやい、やいやと子等も暑さに消え、むしろ静かなる八月の運動公園。ただ、暑さの暑く、時に降る雨の、世に憎しみのあらむ限りに激しく。涼やかな虫の音を聞くころなればあらはるる、ベンチの上に平たく眠れる人の影もいまは未だなく。
 夏真っ只中の昼なり。

 この駐車場に、数台の車あり。多くは人の姿なきか、一台のみ、前座席に男女二人の影あり。
 運転席には、若き男とも見ゆれど、ハンドルをもてあそぶ手には、三十路を表す皺の刻まれたり。その横に、髪長き、大きなるサングラスをかけたる女あり。この女、マスクもしたるが、額にやや老けし影のありて、男より年長と見えたり。
 二人、他に人のおらずと言ひても、世を憚るところもあらむか、先には小声で密かに語りたる。が、やがてやうやう熱の籠りて、互いに向かひ岸にいるかのごとく、言ひ合ひたり。
 やがて、女の言ひ放ちたる。
「別るるならば、わりゃ、死なむ」
 男、返す。
「お前さまの言ふによつて、夜も尽くしたり、金も渡したり。無理を重ね重ねて、幾度とも知らぬほど渡したり。ともに家族のある我ら。お前さま、姉様、なんとしても、正気に戻られたまへ」
「金なんど、欲しいものかは。返せと言はば、いまいま返さむ。ただ、お前と添ひたき我が心。添へぬなら、いつそその手でこの身を殺せ」
「姉よ、姉。お前さま。何としても目を覚まされよ。道ならぬ恋に進みし我らが足は、罪の沼にはまりて、もはや前にも進まれず。我はまた、この足を切らばやとすら思ふに」
「真なる心より思はば、二つの足より、己が中にある足をこそ切り給ふべけれ」
 女、真向ひに男を見、笑みたり。

 町の北東、隣り町との境にありしコンテナ群。その一つより、いみじき悪臭漂ふなりと人々の口々に。警察の立ち行くに、際立ちたる悪臭あり。容易に知れるそれは、空きたるコンテナなれど、小さき鍵のつけられたり。警察、管理会社の立ち合ひのもと、誰のものかとも知れぬそを断ち切りたり。
 その様、己が目で見たる人々のあはれさよ。
 胸より血のあふれたる髪長き女、かつと目を開け、奥に座らされたり。ブルーシートを折りてドアの前にまくる仕業に、血の多くはせき止められたるまま、固まれる。さながら、濁り沼のごとしとかや。

 間もなく、男の捕らへられぬ。
 男の言ひ条、「ともに死すべし、死すべし、死すべし。共に死せば、互いの連れ合ひや子等にも、いづれ我らが誠の届くべし。女の繰り言を聞き聞きするほどに、共に死さむとやがて我も思ふやうになつたり。女の乳の間の下、骨の隙みに刃物たてたるは、我の愛しみて吸ひまさぐるるものを思ひ切れぬがためなりき。息の途絶えしのちには、血を浴びながら、動かぬその両の手をわが品物に導き、服をまくり、血のあふれるより上に乳の先を持ち上げ、右も左も吸ひあげたる。女の息のいよよ果つる間際、我に当てし手の動きたるを感じたるを境に、後を追ふ気の失せたり。女を運べる何処もなければ、かの所にしまひたり」
「しまひたるとは、僻事ならむ」
 人の責めて尋ぬるに、男、言ふ。
「我、捨てたるにあらず。しまひたること、真実なり」
 と。

刺せる刃の道に外れし身を突けば ちを這ふ恋の荷を仕舞ひたり 

 
  

六の段 鬼神の歯がみ


 男子あり。小学校に通ひたり。
 日々をゲームに過ごせるなり。一人子なれば、父、母ともに、なんのかのと注意もすれど、響きたる気配もなし。
 
 ある午後。リビングのソファーにて、寝入りたるかの男子、母の見つけて肩を揺すりて起こしたるに、如何にも気狂ひしたるやうに、「やあああ」と大声挙げ、かつと目を開け、身を起こしたる。
「あさましきや。いかがしたるか」
 母の驚きて問へば、男子
「姫は何処?」
 と、宙を見上げて問ふ。
 何やら寝ぼけたるかと悟りて、母、背をさすりて言ふ。
「姫とは、如何?」
 問はれて、男子、初めて横なる母を見る。
「無事なり。我や。無事なり。よきかな。よきかな…」
 男子、「よきかな」を小声に繰り返したるのち、泣き出したる。
 母、一度子の許を離れ、甘きコーラをコップに注ぎて、渡したり。男子、やうやう落ち着き始めぬ。
 母の問ふに、子の語り出したり。

「我、城に忍び入る」
 母、「城」なる語を解せぬに問ひたけれど、子のつひに話しだしたるゆえ、黙りたり。
「城の中に、門あり。前に、大きなる金棒を持ちし鬼、左右に二体あり。我、怖気つきけれど、姫を助けたきに、進み入り手だてを考えぬ」
「姫とは?」
 母、つひ問ひたる。
「マース姫なり。マース姫を助けむと、我、伏して歩めど、門番、我を見つけぬ。一人が我が右肩を両手で掴み、もう一人が、左手を掴みぬ。二人、我を裂き喰らはんとしたるらし。我、首を境に割られるところなり。そこで母を見て、生き延びたり」
 母、子の夢を悟りて、息子に問ふ。
「マース姫は、いま、いかに?」
 息子、悲しみにあふれて、言ひたり。
「姫は、我が胸に宿りぬ。見給へ」
 母、子の肩脱ぎになれるを見れば、何者かが噛みたるごとき輪になる歯型あり。血のとめどなく溢れだしたりとか。  

鬼もまた神なる者の二つ名と苛性の夢の形見の傷よ
 

 

七の段 愛(かな)しき人


 男ありけり。東の方より来たりて一人暮らす女と馴染みたり。やがて、女の家にて目覚めし朝のあり。
 女、手づから作りたる朝飯を男と食ひぬ。器を洗ふなどして後、歯を磨き終え、身支度を初めけり。女、勤めのあれば、顔を明るくし、髪整えなどす。
 男、そを見、心の内にて思ふなり。
「などか、愛(かな)し。愛しく、愛しく、愛し。かほど愛しくて、自ら鏡を見て、この上なく愛しきわが身とは思はざるか。あやしきことなり。不思議なり」

 やがて、二人、夫婦となりぬ。
 
 六年の後。
 二人の子をなしぬ。一人はすでに生まれてあり、次なるが、女の大きなる腹の中にをりたり。
 さても、男、塞ぎがちになりて、時には、煩はしきこと傍には見えぬだに、一人涙にくれしことあり。
 女、気づきて「なでふ辛きか」と問ひたるに、男、ただ「価値なき我なり。人の親になるに値なく、汝の夫の価値もなし」
 女の様々に慰めど、彼、聞かず。ただ、泣きに泣くのみ。
 さる時節、男、自ら生を捨てたり。

 女、二人の男子の母となりて、田舎に引き込みぬ。
 幼き兄弟、四つの年隔て、弟、父の亡くなりて二月ほど経ちて後、生まれしなり。
 兄の弟を慈しむこと、太陽の土を愛するにも似たり。一日中働き通せど不如意なる母の収入(たつき)を持ちて買ひ買ひ与へたるわずかなるお八つなども、兄、全てを弟に与えたり。
 世話に通ひたるせし祖母にこれを聞きたる母は咎めて、兄も取るべく言いつくるに、兄、「弟の喜ぶは、喜びなり。母の咎めは、不当なり」と言ひ返したり。
 ある夜、二人の寝顔を母の見る。
「なんと愛しき者たち。愛しくて、愛しくてならず。自ら愛しきとは思はぬものか」
 
 三十年、経ちぬ。
 母なる女、病みて伏せたり。
 病院にいること数日。医師の言ふに、今日、明日なり。
 兄弟、それぞれの連れ合ひともども、交互にベッドに寄り添ひたり。
 血圧下がり、呼吸(いき)弱くなりたり。
 ベッド脇から母を見つめ、兄の言ふ。
「彼岸にこの年老いたる女がたどり着く。さて、若くして死にたる父の、不審に思はざるか」と。
 身をかがめ、母の手をさすりたる弟が振り向き、見上げて言ふ。
「肯なり。父は三十にて自ら彼岸に発ち、遅れて駆けつくる母は七十。歯が全てなくなりたる代わりに、皺の豊富に刻まれたる顔を見、父の愛しがりたる女と気づくものかは」
 連れ合ひ二人、彼らの言を咎めたり。
 兄弟介せず、兄の弟に言ふ。
「汝、父に文(ふみ)を渡せ。この人、君が愛しき女なりと」
 弟、頷きたり。
 やがて、母の命の消えたり。
 悲しむ間もなく、不慣れなる段取りあり。その中にあれど、兄と弟、二度三度と二人して話し込む姿あり。

 母の棺を閉める間際、兄が弟の書きたる書を、母の胸に入れたり。葬儀社の者、咎めずなり。
 
 書は、かのやうに
「この愛しき人は、君が連れ合ひなり。君去りし後、長き間、我ら兄弟が母として、借り来たり。今ここに、君に返す。君、この女に慣るるにしばしかかろうとも、ゆめゆめ邪険にすることなかれ。皺の多きも、歯のなきも、全て我らがためにその身にこだわらず生きぬかむためなり。
 世に子を愛す母は多し。されど、これほどの幸せを子等に与えたる母の、余所にたんとはあらじ。我らはこの人の子であること、生まれて一度も嫌ひしことなし。
 今、思ひ返すに、この人を囲みたる暮らし、悲しみあり、怒りあり、憎しみに近き悔しさもあれど、ともに生きたる喜び、何より大きかり。そは、三人が離れて暮らせる後になりても、我らがともどもにこの世界に生きたることを思ふのみにて、生き続くる力を湧かせ続けたり。
 されど、今、別れにありて、我らはこの人の過ちに気づきたり。この人、常に我ら二人を『母が宝物』と呼びたるが、これ誤りなり。真には、この人こそ、我らが『宝』なり。我ら兄弟、半身を失うほどの痛みを伴ひて、悟りたり。
 君が連れ合ひを長く借りたるが、ここに縁の替はり目来たり。君にこの人を、返す。返すが、我らが宝なる母、何よりも大事にすること、君と約したし。この生より逃げたる君を恨めるは我ら永き習ひなれど、今、君を許し、約を交はせるにふさはしき相手と定めねば、母を送れぬ。この悔しさよ、嬉しさよ。君も辛きことのありけむことと、今はただ、君に安らぎあらむことをも願ふ。ゆえに、我らが安らぎの宝を、君に送る。大事に、大事に、愛しみたまへ」
 末尾に、兄弟二人の名前あり。
 
君帰す生きとしいける道の辺に愛しき花の風にこそ鳴れ
 

八の段 無彩の彩


 男あり。高校を卒(す)ませしよりスーパーに職を得、勤むること十一年。鮮魚、惣菜、青果など受け持ち、今や副店長・フロア長とぞ呼ばれつる。
 男、この三年のうち先の二年、家に帰りたる後、様々なる布を裁つこと多し。スーパーの中なる百円ショップにて、求めたる布なり。その布を以て、男、器用なる手つきにて、マスクを縫ひたり。人面の下半分を覆ひ、息の他人に直ぐに届かざるやうにしたるマスクを。
 数へて作るにはあらねど、衣装ケースに仕舞ひたるもの、五~六十枚ほどと見えたり。よくよく見れば、大小二つのマスクあり。
 大きなるものは、白なり、黒なりと、色味の多きものは少なし。小さきものは、様々な明るき色合ひ。水玉模様あり、パンダや猫やウサギのイラスト模様あり。子ども用のハンカチやタオルを裁ちて縫ひたると知れる。顔にはめれば、をかしき絵の口の辺りに出で来るやうに、丁寧に縫はれたるなり。
 小さきものは、離れ暮らす七歳の娘にと、縫ひたるものなり。三年前に妻なりし女に別れ求められ、せむかたなく応じれば、娘まで取られぬ。初めの一年こそ、月に一度と取り決めし娘との逢瀬も守られしが、妻の他県へ引っ越したりし直後、あらかたの人々、家族にても離れ暮らす者に会ふことを慎める世になりければ、あれやこれやと言ひ抜けられ、電話にて話すことも嫌がられる始末となりたり。
 男、矢も楯もたまらず、娘に会ひに行かむと思ふこともありけれど、行かず。娘の前にて妻なりし女と揉めるが忍び難く思へるなり。されど、独り身にありて娘を思ひ思へば、悲しきこと限りなし。その無聊に、マスク不足の言はれたるころなれば、いつか娘に送らむと、マスクを縫ひて慰みたり。
 されど、娘に渡すこと、かなはず。郵送にて送らむも、受け取る妻にそのまま打ち捨てらるるが恐さに、心退けて出来ず。

 胸の走り悩むまま何もせざる数年の後、世、マスクの手に入れ易き時勢に戻りぬ。男、つひに一枚のマスクも娘に送れざり。
 
 ある夜、男、思ひ立ちて、狭き一間の部屋にてテーブルを片付け、一枚、一枚、自分と娘に作りしマスクを並べたり。青きもの、緑のもの、自らはいささか寒き色味のものの多きに、娘に縫ひたるものは、桜色や黄色、橙色など、明るき生地のもの多かりと、きと悟りたり。
 並べ終へて一枚一枚を手にとりて改めて眺むるに、縫ひたる時の心地の蘇る。今、その時に戻れるやうな心地するこそ、あさましけれ。やがては、雨も降らぬに雨の音を聞き、風も吹かぬに風の窓をうちつける心地し、小さき娘の柔らかき手を握り、丸き頬の我が前にあらむ気配に心奪はるる。
 やがて、涙のあふれたり。
 男、しばし泣きゐたり。

日をせひて求むるものを世も変はり余れるマスクに子の頬を見ず

 男、やがてすべてのマスクを捨て始めたり。ゴミ袋に入るる時に、自ら怪しみぬ。
 妻なりし人に作りたるマスクはなきなり。

 

 

九の段 純愛


 女あり。夫婦ならむと言ひ寄りて枕を交はせし男あり。されど、やがてこの男、いくたりかの他の女とも結べるに気づきて、女、瀬をはやみ、岩に堰かるる思ひを固め言ひ出だせば、男、泣きに泣き伏す。その姿に心醒め、男を捨てて帰れり。
 女、男に知らせず、住むところも変えたり。電話も着信拒否にしたり。
 三月あまり後。男より電話あり。知らぬ番号なるが故に、いぶかしがりても、つと出てしまひたり。
 男、言ふ。
「われ、なまなかならぬ借金したり。返せじとあらば、わが身いかなるものか。思へば恐ろし。ここばかり、今ばかり、いかでか助けななむ。われには御身のみなれば、ただただ…、いかでも、いかでも…」
 女、男の言葉尻に乗せむほど速やかに、問ひたり。
「返さねば、汝、いかにならむ」
「悪き筋のものもあり。思ふだに、恐ろしきに…」
 男の言ひ終はらぬうちに、女、電話を切りたり。ままに、着信拒否の作業をしぬ。
 
愚かなる男を疎み別れきてさらにあひなく思ひつるかな
   
別れたる後は迷ひに揺らるると聞けば聞くほど我の嬉しさ
 

 

十の段 女と自転車


 一人の女あり。
 生まれし家に住み永らへて、学校を出でて働く今まで、妹とともに、両親の立てたる同じ家に住みたり。
 ある日、女、勤めに行くとて、近きバス停まで歩かむとする時に、門を出でて振り向けば、玄関脇のガレージの隅に倒せかけたる自転車を見き。
 この自転車、彼の女の中学に入りたる時に父母とショッピング・モールにて買ひ求めたるものなり。中学、高校ともに、少しの雨の日も風の日も変はらず、およそこれに乗りて通ひたり。
 されど、大学からはバスを使ふとなりにければ、この自転車は使はず。勤めても変わらず。ただ、父の車に当たぬやう、隅にぞ置きしままに。

 この年ごろ、バスにて多くの人とともにあることを厭ひたる世になりぬれば、かの自転車の胴を拭き磨き、鎖に油をさしさし、再び駅までを乗るやうになりたり。駅からは他の手だておおよそなければ電車には乗りけれど、少しでも密を避けらるればとて。

 それの世も過ぎたる今朝。
 まだバスまで少しの時間のあれば、女、自転車に歩み寄り、その手でペダルを掴みぬ。足の滑らぬ為とてか、ごつごつとイボをなしたる踏み場の面の手触り、鮮明なり。生きたる物のごとき、湿りすら、感じさせたり。

人の世は行けど残れるものの我が手にぞあんなる つぶだてるもの


 

十一(とおあまりひとつ)の段 図書館旅行


 いつの世に、日本人と言へる人々の、旅などこれほど好めるやうになりたるや。
 かねて三年ほど、外から人の入らず、こちらから外へも行けぬなり。出来ぬとなりて後に思ひの高ぶるは、牛肉の丼を商ふ店、異国の牛の入れにくくなりて、一時牛商ひを止めたるに、かねて聞きなれぬ「国民食」なる言葉をもて、「国民食の喪失」など言ひあらはされたるに似たる騒ぎとも見えたり。「旅」の「国民趣味」とでも言ひ擬ふるべき現在か。

 女、一人あり。このごろ、早起きすること多し。
 二日、あるひは三日に空けず、五時前に起き、すぐにP.C.のインスタグラムを開き、各地の図書館をぞめぐりたる。
 北、南、東、西。あるいは、山の中、海沿い。人多しと見ゆる街中、幹線道路に面したるショッピング・モールの中。人少なしと思はるる民家まばらなる里…。女、インスタを開く脇に高校より使ひ古びたる「地図帳」を開き、時々覗きつつ。ただただ、こだわりなく、日々、偶然に任せて見て歩く。
 蔵書の紹介あり。有名人や学者を呼びてのイベントあり。子どものための読み聞かせあり。蔵書点検の休みあり。
 旅が趣味ともあらぬ女なれど、実地には一生縁もなき土地の図書館に、自ら本を探したる思ひに染まりている時の落ち着き、心地よさ。
 いかなるわけもなく不意と始めたることなれど、朝によきことを見つけたる幸せと、女は思ひて、やがて勤めに出でたり。

行きもせぬ街に読まざる本満つる図書館知りて華やぐいき路
 

 

十二(とおあまりふたつ)の段 喪失


 独居せる老爺あり。連れ合ひ先立たれしも古きこと。身は傘寿に至りたり。
 ある日、パンを食みたるに、固うて、残れる前歯のひとつ、揺らぎ出したり。歯科医に行くのも大儀なれば、時に舌で触りてその揺れをむしろ愉しむ様にて、過ごしたり。
 夕になりて、病み始めぬ。やがて、堪えがたきにはあらねど、忘れがたき痛みとなりぬ。
 見やれば外も暗きに、すでに家に買ひ置きし痛み止めを飲まむと、冷え置きたる飯に味噌を乗せ、ぬるき湯で溶き、流し込みぬ。その後に、痛み止めを飲みたり。
 座椅子に座れるうちに、やがてふわふわと怪しき心地の差し来たる。寝るとあらば奥の部屋にあるベッドでと思ひつつあれど、ただ瞼の重く、胴と背の溶け行くやうに感じたり。

 彼、前に、ベッドを見たり。白き柵のごとき鉄の棒に囲まれ、上から様々に管の伸びたり。つ、つ…なる機械の音が絶え間なく。
 彼、ベッドの中を見て、涙のあふれたり。
 永くともにありし連れ合ひの逝きゆくこと、悟りぬ。
 彼、その顔を覗こうと身を乗り出せど、そこのみ暗く、顔見えず。
 管に繋がれたる手を取らむとすれど、手も消えたり。
「いかに。いかに」
 と叫べど、何処からか、「ご臨終」との声のみ、響きたり。
「定めて偽りならむ。皆人、我をたばかるらむ。知らず。認めぬ」
 男呼べど、誰も答へず。

 彼、日付変はるを告ぐる時計の音に驚けば、口に歯なし。
 翌朝、畳に落ちし一本の黄色き歯を見つけたり。 
 
かけてなほ汝を愛しと言はねども 口のすきにぞたふときものを

 老ゐの身なれば、屋根や床下に投げるにもあらで、しばし紙に包みてしまひたるが、やがてそれも忘れたりとかや。

十三(とおあまりみつつ)の段 草寝の月


 男あり。四十越えたり。
 仕事、家族ともに苦しきことありて、死なむと心決めたり。
 死なむと思ひ定めたる日は、すでに数年前に彼岸に発ちたる母の、おのれ幼きころに兄と共に連れ来し宿に一人泊まらむと思ひたちて、県と県との境の里に向かひたり。
 バスを二度乗り継ぎて行けるに、日も暮れぬ。見渡せば、人もおらず。思ひ出すなにもなきに、一人、まずは歩き出したり。
 道も破れたり。時々脚をとられる地の穴いくつか。転びかけ、転びかけ、時に声を出し自ら叱咤しつつ、進みぬ。
 まぎれなく夜となる。母と泊まりしはおろか、宿の一つもあらず。ただ、草のみにほひながら、生き生きとして。
 やがて、破れこぼれたる建物を見つけたり。人の住み捨てたる家と思しき。
 男、すずろに草の茂みを超えて、入りたり。
 大きなる石を見つけ、その上に腰を下ろしたり。
 見上ぐる夜空に、月の出づる。
 男、ゆくりなく、目を閉じ、寝たり。
 草の匂ひの近く、彼を包みたり。

いつにほふ人なき里の青み草 母往きたまひ我はうたた寝

寂しきは秋の夜嘆き鳴く虫の母失せしゆゑと聞く我が心

虫の一つ、彼の手に乗りたり。血を吸ふものにもあらで、男、そのまま這はせおきたり。

 男、明け方になりて、死ぬことをやめて、帰りにけり。

     

 

十四(とおあまりよつつ)の段 夏の神童


 さてはさて、人の心の騒げる日々のこと。
 一人の農家あり。米作りたり。町の外れの運動公園横に、田を持ちたり。運動公園の周囲、大きなる樹木の植え並べられ、さながら森のごとし。
 油蝉の声、空から降りしきるころ、昼食べむとて家に戻らむとするに、運動公園の駐車場、木陰なる一隅に停めたる車までて、男、道を歩きたり。
 門より入れば、入口脇にあるバス停に、一人の男子を見たり。ベンチもなく、ただ標識の立ちたる停留所に、徒然に立ちたる小さき影。ピッツアほどの丸き麦わら帽を被れる頭を見下ろせば、短き胴体の下に、半ズボンより出でたる玉のごとき両ひざの見えたり。バスを一人で待つにはまだ幼きに、農家の男、奇妙に感じ、吸い寄せらるる。近づきて、話しかけたる。
「バスを待ちたるか、童。ここはいみじう暑きに、一人立ちたるは、よからず」
 童、答へず。男を見ることもなき。
「親は、連れは、いづこ」
 男、見回すに、童の他、一人としてなし。
「われは一人、共同霊園へ参る」
 童、つと話し出したり。目はあはず、ただピッツアに隔てらるるまま、男は聞きたり。
「お金は持ちたり。御身、案ずるべからず」
 男、問ひかけたり。
「なにゆゑ、墓地へ参られるか。遠き所なるぞ。一時間はかかるらむ。また、墓地なるもの、幼には危うきところなり。小さきお前様が、一人行くべき所にあらず」
 童、答ふ。
「吾に一人の叔父あり。父の弟なり。彼、今は遠く、出雲の神様近くに住み、働きたる」
 出雲といふは、ここより電車を何度も乗り継ぎ、日中まるまるかけて行くところなり。男、その遠さを思ひたる。また、童の話、町の共同墓地とも繋がらず。あやしみたれども話さず。ただ聞きたる。
 童、続けぬ。
「離れて暮らせる叔父なれど、われ生まるるより、いといみじう愛で、愛で、慈しみくれたり。彼と会へるは二年に一度ほどなりしも、ただわれ、いつもいつも楽し。会へる二日三日は夢のごとく、彼、帰るとて別れるその朝は、涙の留めようもなし。ただ、会へぬ日々も、彼は様々にメールをぞ送りくれたる」。
 男、ここに口を挟む。
「童はまだ、字の読めぬべし」
 童、顔もあげず答ふ。
「字は読めず。絵にてくるるなり」
 男、黄色い笑顔や様々な顔の絵文字を思ひたり。
「されど、近頃、送り来ず。われ、不審に思ひたり」
 麦わらピッツア揺れたり。男、目が合ふかと思へど、童、顔を上げず、話し続けたり。
「今朝、父の言へり。叔父、倒れ伏したりと」
 男、そは、今に流行りし病いなるかと尋ぬれば、ピッツア、前後に揺れたり。
「われ、そのために、行かんと欲す」
 男の驚きて尋ねたり。
「童、ここより出雲に参られるか」
「あらず。われはそこまでの道は知らぬゆえ。ただ、ここのバスに乗りて、霊園へと赴くべし」
 病ひの人に願いを馳せて霊園とは。男、不吉にも思ひて、さらに尋ねたる。
「霊園に行きて、何をすなるや」
「彼の地に、我の生まれる前に先だちたる祖母の墓あり。我が父、我が叔父は、叔父の生まれたるころ父を失くし、祖母、父、叔父の三人のみ、貧しく、様々に苦しき思ひすも、生き抜きたる家なり。父の言ふ。祖母の最も愛せしは叔父なり。人誰しもに考えあり、生き方あるが、その最も似たるが、祖母と叔父なり。彼岸に渡りし後も、叔父のそばには祖母の霊ありて、守護せるべしと。ゆゑに、我思ふ。我、霊園の祖母に参り、祖母に叔父を助けたまへと祈らばやと」
 ここまでの声を聞くに、横から誘ひたるごとき風の吹きたり。農家の男、つと目の覚めたる思いに立ちたるに、麦わら帽の吹き飛ばされて転がる。見れば、先まで童ありたる所、誰もおらず。右、左、前、後ろ。数歩歩きつ戻りつすれど、人影、絶えてなし。果ては空を見上げ、足元を眺めても、一匹の小さき甲虫の牡が、のろのろと歩き去るのみ。
 男、おそろしき神童をみたりと思ひきとか申すなり。

 途絶え行く夢の浮橋渡る子の見せるは夏の神の面影


 

十五(とおあまりいつつ)の段 ある無花果農家


 男あり。父すでに亡く、老いたる母と二人、農を継ぎたり。米は作らず、果実のみ成したり。
 葉月初め、無花果成り始めぬ。あと半月に出荷を控えたる頃、台風の二つ、近づくと聞こえたり。
 男、迷ふ。わが無花果はまだ透けるごとき色なり。売るべきころにあらず。また、人の好みて食すこの実は、そもそも花なり。花なるこれは、雨に弱し。雨に濡れれば、疾く疾く傷む。故に、常にはパイプを組みて覆い渡せるビニルハウスにて、雨を凌ぐ。
 この度恐るるは、風の強さ。強き風にパイプの折れ曲がれば、ハウスそのもの使えず。修繕を必要とすべきこと、必定なり。被害は今年のみにあらず、来年にも渡りかねぬ。
 男、自ら考えたり。ビニルを外せば、今年の収穫はなし。ビニルを被せたるままにしてパイプの損傷あらば、数年の害も生まれ来む。
 今年、収穫のなかりせば、すでに手伝いを頼みたる人々への影響もあることも、彼を迷はせぬ。
 
 夕食の際、男、母に言ひぬ。
「母に願ふ。雨風の強うなる前に、手伝ひたまへ」
 
 夜明けごろ、昼に台風の近づくといふ予報を聞きたる母子は二人して、全てのビニルを外し回る。
 男、早く色づける無花果をいくつか取りて、母に捧げたるとかや。

育てたる果ての思ひに捨てゆくは明日を明日とて生きゆかむため

 

十六(とおあまりむつつ)の段 陸封


 老ひたる女あり。
 自らの家を好めど、ホームに暮らしたり。ホームは、山迫り、土手を挟みて二十間ほどの幅の川の前なる平地にあり。淡く紅く色づきたる、三階建ての施設なり。

 この女に娘あり。訪ぬるに訪ねられぬ三年の時を経て、ホームへと、会ひに行くことを許されたり。
 娘、家を出づる前、握り飯作りたり。母の好む鮭をほぐし、飯のうちに込める時、涙こぼれたり。「いかに、いかに」と思へど、涙の止まらず、ただ流れ落ちたり。

三年の避けねばならぬ日々を越え かれの封じを解ける日とこそ

 
 

十七(とおあまりななつ)の段 老いの棲み処


 女あり。連れ合ひと小学生なる一人の男子ある家に住めり。時に自らも働き、家族を支えたり。
 彼の女の両親、いまの女住む家より自転車にて十五分ほどなる所にあり。そは女の実家なり。
 父親、すでに仕事を退き、父母共に一つ家に、穏やかに住みならはしぬ。父のみ持ちたりし運転免許を返納しつる後は、時にタクシーにて女の家に訪ね来ぬ。彼らの得たるただ一人の孫とさまざまじゃれ合ふことが、老いたる二人の身の最もなる幸福とこそ、傍からも見て取られつれ。
 やがて、世の人、往来を好まぬ時となりぬ。かの両親も、娘夫婦、孫と会へぬ日の増えぬ。彼等それぞれ別の病院に通院する日のあれば、娘の付き添ふことありしかど、両親、遠慮がちになりて、お互いに付き添ひて、二人のみで行くこと重なりぬ。
 
 この夏、暑きこと甚だし。昼は申すべきもなく、夜になりて醒めることなく続き、女、日々ラインにて老母と連絡を取らむとするも、やうやう返信なきこと増えぬ。
 女、胸騒ぎを覚ゆ。或る夕べ、連れ合いの早く帰るに子を頼み、自らタクシーを呼ぶ。
 両親のもとに着くに、父母ともに薄着にて汗ばみ、扇風機のみまはしてゐたり。いくらか話しながら、二人の様子を見るに、なにとなく動きの不確かなるを感じ、さらによく見てみれば、訪ね来る自らを見る眼差し、少し鬱陶しがるやうなる言葉、普段にまま変はらぬとは言へど、それとしても、やや所作が遅く感じたり。
「などクーラーをば、使はぬか」
 娘の問ひければ、
「クーラーは寒きが故に、我らが身には毒なり。」
 女、老ひ人のエアコンを嫌がることのあるとはかねて聞けど、我が親もかと思ひ当りて、いささか心暗みたり。
 それでも娘、エアコンをかくるべきこと、老父母に説きたり。親、宜はず。しばし、この問答の続きぬ。
 やがて、娘、エアコンの「冷」ボタンを押して後、怒れるままに家を出づ。
 女、さらに心暗みたり。
 
親思ふ心しあれば長き夜の暑さ寒さにこの身責められ

 

十八(とおあまりやつつ)の段 お転婆月の涙


 男あり。父を男の生るる間際に失へど、母と兄ありし故郷を出で、都東京のさる有名大学に入り、大学院と進み、卒業して後、さる企業に職を得、転任すること三度。地方都市の職場にありて伴侶を得、身を固めたり。気づけば、その街にあること、四半世紀を越え、男、五十路の半ばとなりたり。
 つひに、役職定年の歳となり、部長なる職を退きたり。定年となりて後は再雇用を求めるか、或は別の職など探すかは、決めかねたり。家の者にも余所ながら相談をせしも、思ふがままに、など言はれ、ありがたしと思ひしも、決めぬまま。急ぐことでもなければ、考え切らずに捨て置けり。
 いよよ役職を退く前年になりぬ。
 後任者は未だ決まらねど、引継ぐべく業務をまとむるうちに、心に隙間のごときもの見え始めたり。支給p.c.に一つ一つ情報を落とし込むうちに、自らもその中に埋めらるる心地し、打ち込む我こそ僻事、p.c.の中こそ空蝉とこそ思はるれ。
 家の中にありても、思ふこと整はず。家の者の心尽くしに甘え、どこかの子ども食堂でも手伝はせてもらうべきかなどと、料理のほとんど出来ぬ身を考えずに、会社にて数十名の部下持つ身として十年を過ごした初老の夢想せしこそ、愚かにもおかしけれ。
 
 さて、男、会社に、とても寂しき日あり。他人がみれば常のことなれども、その日は、強く心にこたへたり。社の中では言ひても誰も聞かぬ感情を持てるわが身を感じたり。若き身ならねば、そは誰の心にも同じくあるに違ひなき澱とは思へど、その日は沈めり。
家に帰りて後、動画のチャンネルを開きたり。スマホを操るうちに、自らが十代のうちに憧れたるロック・スターのライブが近隣で開かれるのに気付けり。彼の人は、彼の十代にありて憧れし人なり。東京に出でしより部長職にありたるここ十年まで、CD等を買ひ求め、聞くことはあれども、ライブを見る機会はなし。東京で過ごしたる学生時代は、田舎におりたる十代のころに憧れたるアーティストの全てのライブを見るべしと息巻きたるも、己が生くる必死さに、その機会なく。
 ネットで見れば、彼のアーティスト、すでに七十代の半ばとなりたり。三人の少数編制で、小さなライブ・ハウスを回れる日々とか。彼、強き思ひに撃たるるうちに、思ひ出づること、一つあり。

 中学生の、彼あり。新聞を読みてゐたり。
 彼の住む県の都なる街に、彼の憧れたるロック・アーティストの公演のあるを告ぐる記事あり。
 彼、しばし、見つめてゐたり。
 時に彼の家、その会場より電車、バスを乗り継ぎて2時間半はかかれり。チケット代も、交通費も、中学生の彼には出せず。不如意なる家計の足しにすべしと新聞配達も学校の許可を受け、勤めたれども、これに出すべきほどはなし。
 彼、大きく溜息をつけり。
 知らぬ間に隣に寄りたる母、彼の横でその知らせを見れる目をつと彼に寄せ、目をあはせぬ。
「ゆかしきや。ゆかしきや。おまえさまの憧るる人なれば」
「せむかたなきこと」
 彼、さばかり言ひて、ページを閉じたり。
 母、なほ、一人語りに語り、震へたり。
「この母、常の人よりやや貧しく、金もなし。車もなし。免許もなし。休みかなふ時もなし。子の憧れが近くに来るを知りながら、添へやる手もなし。不憫なり、我が子。恨み給へ。恨み給へ…」
 彼、母の肩に手を添へ、言ひたり。幼き生意気の盛りなればこその強き言ひ条なり。
「沈み給ふな、母。必要なるものは、全て君より分け与へられたり。我、不足に思ふこと、かつて一度もなし。我が欲しきものは、皆、我自身の手で掴むべし。母があり、兄があり。特に体に損なひたるもなし。不足なし、不足なし」
 彼、笑ひて言ひたりが、母、沈みていたり。
 その後、兄の高校を出でてぢきに働き始めぬ。彼、母と兄との援助ありて、大学にいきたり。
 
 男、まざまざと彼の時の母の顔の思ひだされ、倉卒となりて、このライブのチケットを求めたり。

 ライブまでの日々、男は自ら大学のサークル同人誌に書きし彼のアーティストへの批評の載りたるを書棚から出して読み返したり。男、映画や音楽に携わる仕事を目指したる頃の書きものにて、四人の仲間たちと競ひて新機軸を打ち立てんと始むる同人誌なり。年を経、数回の転居を重ねても捨てられず、書棚の上に置きたるものなり。これらの評、かのアーティストの人気の高きころなれども高き曲をあへて選ばず、あまり目立たぬが快き曲を柱に据え、論じたり。その同人誌を一年に三号ほど出して終ひたるが、最終号にはそれぞれの記事に書き手の顔写真、巻頭に全員の集合写真を付け、解散せり。三冊をまとめ、それぞれが取り上げしアーティストの連絡先に送れども、さらに音沙汰なし。
 その時にはうらさぶく思へども、今はあやしくも、胸弾む心地ばかり残りたり。

 ライブに来たり。男、早く着きて、前から二列目に座りたり。
 かのアーティスト、男がかつて賞賛せし曲を歌ひたり。男、嬉しく聞きたり。
 曲の後、アーティストの話せるを聞きて、男、陶然となりたり。
「今の曲、四十年も前の曲にて、滅多にやるものではなけれど、先日、出版社に求められて自伝をものすべく資料を整理したるに、この曲を取り上げ、褒めてくれたる大学生あり。我、この評を、今も面白く読めるが嬉しさ。故に、この度、久しく時はあけども、演奏したるなり」
 男、我が事かと思へども、すぐに取るにたらぬ身の思ひあがりと慎み、この時を楽しみたり。アーティストの声、若き頃より、一際優しくなれると感じ入るも、嬉しき。

 やがて、ライブの終ひぬ。
 アーティスト自ら、見送りに立ち、観客一人一人と握手を交わしたり。男の番が来たり。優しき中にも鋭き目のあり。男、永き時を憧れながら声を交わしたことのなき憧れの「先生」の前に立ちたる思ひなり。少し震えたり。
 男の手を出さぬうちに、かのアーティストから手を差し出し給ひ、男の手を握りくれたり。
「君なり。かの記事、嬉しかり。見し面影よりも、君、白き髪の多き。されど、すぐに君と知れる」
 と笑ひたり。
 握りたる手を上下に振りつつ、その人、男に言ひたり。
「ありがたう。励まされたるなり」
 男、驚きて彼の目を見れば、屈託なきほほ笑みあり。
 男「こちらこそ、嬉しきなり」と出ぬ声を震はせながら振り絞り、頭を下げ下げ、夢中に外に出でぬ。

 帰路には、火照りたる頭を覚ましたき思ひもあり、男、家まで三十分ほどの所にて、男、タクシーを降りぬ。
「なんと嬉しきや。我が敬意の届きたるとは」
 かの歌、かの声、思ひ出し思ひ出し歩くに、目の熱くなり、涙のあふれむとすなり。五十を越えたる男の泣けるとは恥ずかしと恥ぢけれど、頬を濡らすものあり。男、せむかたなく、顔をあげ、夜空を見上ぐるなり。
 雲に下半分を少し覆われたる月あり。見るに、不意に人の声が聞こえぬ。
「いみじう嬉し。ただ、嬉し。君の寂しさ、悔しさ、今、解くるらむ」
 男、月に答へぬ。
「母よ、母。我がお転婆なる母君よ。過たれるな。我、寂しくも、悔しくもなし。ただ、自ら生き、自ら歩める生の中にあり、自ら掴めるものを掴みたり。君が、君が子として」
 男、雨の粒の頬にかかれるを感じたり。
 暗き天のうちに、年老いたる母の泣きたる顔を見たる心地するなり。

五十年(いつとせ)の愛しか持てぬ身に注ぐ 天なる老婆(ばば)の涙の守り

生まれ来て未だに死をも知らざれば 生とも死とも愛重ね行く

末の序

 村田珠光翁、ある人への文(ふみ)あり。茶の道を歩める人々に言へるものとて、広く伝はる。
 翁曰く、この道に志す人、我慢我執を越ゆることこそ肝要なり。よき人を見ても僻まず、劣れる人を見ても蔑まずと。その文の結びは、
 心の師とはなれ。心を師とせざれ。
 となり。
 滋味深き言(げん)なり。
 我、凡愚なる身をもって、日々この言を薬とし、暮らし来たり。
 やがて知れり。心の師とはなれ。心を師とせざるなとは、もとは釈迦牟尼のお言葉なり。『スッタニパーダ』と呼ばれたる古き仏典の章句なることと。
 我、やうやう思ひ始めたり。尊き仏教開祖のお言葉とあれば、珠光翁の言へる我慢我執とは、ただ茶道にのみ繋がるにあらず。さらに広き人の心を指すべきにやあらむと。

 中世と呼ばれ慣らはす数百年。その末(すえ)に近き珠光翁に対し、その本(もと)(初め)に近きころに、鴨長明ありき。彼の『発心集』に記すに、我慢我執のをかしき話あり。
 ある男、美しき庭を作りたり。様々な花々咲きて、蝶の何羽か遊ぶ。何故、かく庭を飾れるかと、人に問はれれて、主の言ふやう。
 我がみ罷りし父、蝶を愛すこと甚だしく。彼のもしや蝶に転生すならむかと思ひ、美しき庭を作り、蝶の好みて寄れる庭にせむと思ひたりと。
 この段には、木を深く愛するが故に蛇と転生し、その下に巣くひたる男の話も読まれたり。
 長明、いかのごとく、これを結びぬ。
すべて念々の妄執、一々に悪心を受くることは、はたして疑ひなし。まことに恐れても恐るべきことなり。 (巻一の八)
 恐ろしとは、輪廻転生の考えありてと我は思ふなり。
 されど、ただこれを読める我は、「妄執」と呼ばれ、「悪心」と呼ばるる人の心にこそ、深く深く惹かれたれ。
 自らこだわりたる思ひを今の世に見れば、こなたに独り身貧しく苦労と苦労を重ね二人の子を育て早く死にたる母親、恵まれたる身を知りながら家に帰るをためらふ日のある男、幼き身にあれど妹を励ます兄、励まさるる妹、離れ暮らす人や亡き人に思ひ寄する人と人、わずかなる楽しみに心を弾ます人々…。
 ここに刻みたる令和の世に生きぬる凡凡たる人々の心。いささかものにこだわりたるは認めざるを得ず。尊き仏の教えに断てといふ障りであり、「執心」「悪心」なるものに違ひなし。
 しかあれど、こららの人々、その強き思ひ、げに愛しきものにあらずや。
 かく思ふは、過ち多き凡俗なるわが身の蒙か。されど、長明の『方丈記』も、愛深き者こそ早く死にたることの書かれたるがために、いつまでもいつまでも読まれ継がれたる書となりたるにやあらむか。説教臭く、物知り顔にて枯れ悟りたる独居の翁の身、なんぞ人心を掴めるものかは。
 迷ひあり、我執あり。しかして、多くの人の生くる所なり。

 我、ここに、傲岸の誹りを宜いつつ「令和」なる名を付け、その「執心」「悪心」の様にてただ心惹かれたる、名も知らぬ人々姿を書きつけむ。古来の物語に倣ひて、その三半量なる十八の話をえり抜きたり。
 良心・分別ある読者諸氏の反面なる教へともせられたし。

知られざるあはれに心裁ちかねて 十八となる切れの織り代(しろ)
  

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