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【1945.9の月】

戦争が終わって一月経った9月中旬のことだった。
満州の月は本土(日本)の月など比べ物にならないくっきりとした大きなものだった。
恐らく乾燥した空気のせいで、より煌々と夜空に浮かんでいたのだろう。

小学4年の秋、伯母は満州吉野町の家の庭で学校の友達3人と遊んでいた。
日本の統治が終わり混乱した社会の中で、子ども達は子ども達で情報をやり取りし、生き抜く為に闘っていた。
女の子は家で大人しくしているものだと教わってはきたが、事ここに及んでは、生きる為に“子ども”というハンディを逆手に取って、物売りする事で家族を養っていた。
祖父が仕事中に捕捉され、シベリア送りとなり稼ぎ手のない心細い毎日であった。
守ってくれるはずの関東軍はとっくに空っぽとなっていた。
男手のない家は狙われる。
だから、祖母も大伯母も街角で物売りなどできない。
強姦される恐れがあるからだ。
勢い、伯母達が売れそうな物を家から持ち出し、ソ連兵相手に商売をした。
週ごとにお金がソ連のものになるか、八路軍のものになるか。
価値は都度都度変わり、昨日買い物のできた紙幣が、ただの紙切れになる。

子どもの頃は「来週からこの金は使えなくらしいぞ。今のうちに買えるだけの物を買っておけ」と情報を交換しあった。

そんな情報源の男の子達が伯母と遊んでいた時だった。

ふと、一人の子が家の屋根を見上げた。

影になった屋根の向こうには、大きな大きな黄色い月が子ども達を見守っている。

その時左からふわふわと金色に近い白い光が我が家の上にやって来た。

男の子達が叫んだ。
「火の魂だ❗️」
ざわざわする子ども達をよそに、その火の魂は
我が家の屋根の上ですっと家の中に消えた。

すると、別の子が
「あっ、まただ❗️」
と叫んだ。
今度は右からゆっくりと白に近い黄色の火の魂が飛んできて、同じように屋根の上で止まると、スッと家の中に消えた。

「あれは火の魂だ。火の魂だ。」
「ヨッちゃんちで誰か死んだんだよ」
「おじさん(祖父のこと)亡くなったんじゃないのか、ヨッちゃん」

火の魂は青白いモノだと思っていたし、そういうものは煙突から入るもんだと思い込んでいた幼い伯母は「?」となっていた。
「お父さん死んじゃったの?」
ゾクっとしたそうだ。

子ども達がガヤガヤと騒いでいるところに、さすがにうるさいと思ったのか、伯母の母、つまり祖母がやって来て、
「あんた達、もう遅いから帰りなさい」
と促し、この日は解散となった。

家に入り、家人に見た事を話すと、
「お父さん、シベリアで亡くなったんだろうか?」
と祖母は言い、
「兄さん達じゃ」
と徴兵された兄弟2人の事を大叔母(祖母の妹)が顔面蒼白となりながら呟いた。

その夜、家族全員が恐ろしさで口をきけなかったそうである。

翌日、例の子達が「ヨッちゃんち、誰か亡くなったの?」と聞いてきたが、祖父の消息も分からないし、大叔父達(祖母の弟達)の事も分からない(本土との音信が途絶えていたので、戦死広報は本土の実家には届いていたとしても、問い合わすことができない)。

生死の所在さえ分からないまま、時は過ぎた。

日本に戻った時、大叔母が最初に聞いたのが、「兄さん達は?」だったそうだ。

大叔父達は、親代わりをしてくれた姉さん夫婦の元に、実家ではなく、満州の家に帰って来てくれたのだろう。
そこには可愛い妹と、懐いていた姪甥達がいた。

あの混乱の中、満州から一人も逸れずに無事本土の土を踏めたのは、もしかしたら、大叔父達の力添えもあったかもしれない。
死してなお遺族を守ろうという力が働いてのことかも知れない。
それくらい満州から戻るというのはあの時代奇跡なのだ。

今日、大叔父の一人の永代神楽祭に参殿した。
「二人のお陰で今も可愛がってくれたヨッちゃんは幸せにやってますよ」
黙祷しながら感謝を念じた。

🌕🌕🌕
1945年9月中旬の満州での話である。

photo by 豊田 功

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