るろうに剣心最終章について―対の物語がなぜ相克の物語になったのか―

※こちらはるろうに剣心最終章についての個人的感想です。
人気シリーズとしてファンの期待値も高かった実写るろうに剣心最終章。
しかしいざ公開してみると、やや期待外れな結果に終わってしまったのは何故か(特にThe beginning)
かなり厳しめな意見となりますので、最終章が大好き!マイナス感想は見たくない!!という方はご注意ください。

①大変申し上げにくいのですが、そのエピソードは前座です

・原作最終章の因数分解
まず、今回のるろ剣最終章二部作にあたる原作人誅編と追憶の章を、起承転結で見ると大体こんな感じかと思います。

人誅編
 剣心と親しくしていた町の人々が攻撃され、それが剣心への復讐だったと判明する

 ※ここから追憶の章
  起 幕末、人斬り抜刀斎誕生&巴との出会い  
  承 池田屋事件、禁門の変を経て結婚、巴との生活で剣心は幸せを知る
  転 巴が敵の元へ行き、剣心は彼女を取り戻すために戦うも誤って殺害
  結 巴の死後、剣心は自分が巴の婚約者の仇だったと知る

 剣心の過去を知ってなお「一緒にいたい」と告白する薫。剣心と共に戦おうと奥義習得を目指す弥彦。薫死亡のミスリードへの伏線。

 縁との戦いの中で薫が殺され、剣心は「俺はまた大切な人を守れなかった……」と絶望し落人村へ

※この間に左之助の実家騒動、弥彦VS鯨波の戦い

 落人村の剣心の元に、燕が弥彦の窮地を知らせ「助けて」と懇願。その声に応えずにいられない自分に気づいて剣心は贖罪の答えを見つける。

このように、原作では人誅編こそが本編のストーリーであり、追憶の章はその中の一部に過ぎません。
縁との因縁の発端にして、剣心を絶望に突き落とす「二度目の喪失」を演出するための一度目の喪失。
若き抜刀斎時代、一人目の妻・巴を喪った剣心は、それでも立ち上がり、新時代のために戦います。
しかし薫を喪った時はもう無理でした。一度目は耐えられても、二度目は無理だった。
死ぬまで復讐という秘密を打ち明けなかった巴と違って、薫は様々な戦いを経て愛情と信頼関係を結んだ相手。加えて志々雄との激闘の際には「薫が俺の帰りを待っている」という一心で生還したほどの存在。
だからこそ薫を喪った剣心は「もう疲れた」と絶望した。ここから己を見つめ直し、贖罪の答えを出すまでが人誅編です。

そのため、原作の追憶の章は人誅編のための前座として描かれています。
剣心以外のキャラクターの心理描写を最小限に抑え、展開もほぼあらすじのみ。
実写るろ剣において本来ならグランドフィナーレとなるだろう最終話に、この前座のエピソードを持ってくるのは本来なら最悪手。京都編で例えるなら、志々雄を倒した後に新月村の戦いをやるようなものです。
しかし実写の構成が原作と大幅に違うことや、一般的に二部作の映画は前編の方が売れること等、商業的な判断のもと、本来なら先に公開されるはずだったThe beginningが後になったのでしょう。
異論は多いでしょうが、個人的にはこの判断、上手くいけば大正解だったと思います。というのも、過去作から続くシリーズ物として考えた場合、あの京都編を作ってしまった時点で人誅編を原作通りにやることは不可能なのです。

・3部作で終わるはずだった物語
もともと実写版るろ剣は三部作までで終わるはずでした。
よって、これが最後のつもりだった制作陣は京都編の方に「薫死亡のミスリード」という人誅編の要素を入れた。薫の死を受けて「また守れなかった」という絶望から、志々雄との闘いへ向かって「それでも人々のために剣を振るい続ける」という剣心が決意する要素を。
これに続くThe finalで再び「薫の死」という要素を入れても原作ほどのインパクトにはならず、更に剣心が原作通りに廃人化すれば、前回は大丈夫だったのに今回どうした?となってしまう。
実写るろうに剣心は、京都編二部作に人誅編の要素を入れたことで、今度はfinalの要素が足りなくなってしまったんですね。

・最終章は対の物語
上記の理由から、個人的には最終章二部作の順序を入れ替えたことは(あくまで上手くいけば)良かったと思っていました。
追憶編と人誅編は本当なら対の物語。

あらすじのみの追憶編と、メインストーリーとして多くのエピソードがある人誅編。
剣心を愛したがゆえに傷つけることに成功した巴と、剣心を憎むも敗北した縁。
追憶編のクライマックスは冬の雪山、人誅編のクライマックスは(原作では)夏の浜辺。
己の罪から逃げた少年剣心と、向き合って答えを出した大人剣心。

そしてどちらの物語にも「ヒロインの死」という共通のインパクトがある。


人誅編の「薫の死」を使えない以上、追憶編を後に持ってきてもう一人のヒロインの死──即ち「剣心による巴斬殺」というインパクトを最終章全体のクライマックスとする。
この判断自体は間違っていなかった。
単純に時系列に沿って作るだけが映画ではありません。二部作全体の構成を鑑みて順序を入れ替えても、名作になり得る可能性は十分にあった。

では、何故あんなことになったのか?

一言で言えば、制作スタッフの中に「物語」を作るプロがいなかった。

これに尽きます。

②The finalはシリーズでただ一つ、剣心の心に変化が無い物語

・原作の「贖罪の答え」は、実のところ「答え」ではない
The final感想でよく見る意見の一つに、剣心が贖罪の答えを出していない、というのがありました。
原作では縁と対峙して、剣心は己の罪と向き合わざるを得なくなります。心ならずも殺してしまった妻・巴を悪夢に見て心身ともに疲弊し、薫を殺され生き地獄に突き落とされ、その中でようやく贖罪の答えを出す。

しかしこの「贖罪の答え」、より正確に言うと「答え」ではありません。

なんたって事は殺人なのです。そうそう簡単に「罪を贖うための答え」など見つかるはずがない。というか、殺人の罪を償う方法などこの世のどこにも存在しない。
時が不可逆のものである以上、剣心が何をしようと彼が殺した人々が生き返ることは無い。剣心の罪が消えることは決して無い。
だから剣心は「罪を償って許されたい」と思うこと自体をやめた。許されないまま、罪を背負ったまま、せめて今、生きている人々を守ることに人生を捧げると。
剣心の出した「剣と心を賭して闘いの人生を完遂する」というセリフは、「許されるための答え」ではなく「未来へ進むための決意」なのです。

原作人誅編の最終決戦、剣心が縁に向かってこの台詞を告げるシーンは、それまでの剣心の性格を考えると些か不自然です。
自分が不幸にしてしまった相手に向かって、謝罪ではなく自分がこれからどう生きるかを宣言している。それまで常に自分ではなく他人を優先してきた剣心の行動としてはしっくりこない。
当時、リアタイで読んでいた読者の中には、そう思った人が少なからずいたのではないでしょうか。薫が殺されたり剣心が廃人になったりと全体的に暗いのも相まって、原作人誅編は京都編ほどの盛り上がりは見せませんでした。
しかし、それでも人誅編は必要な物語だった。
るろうに剣心は少年漫画、それも天下のジャンプで連載された作品です。当時の少年漫画には珍しいアラサーの主人公、1話の時点で既に最強の人斬りというチートな戦闘力。
しかし他の数多のジャンプ作品がそうであるように、るろ剣もまた主人公の成長の物語でした。
東京編で薫や仲間と出会い、京都編で仲間(主に薫)のために生きようとする意志を培い、そして人誅編で生涯闘い抜くと決意する。
自分の罪から逃げ続けてきた元人斬りが、仲間との絆を支えに己の闇に打ち克ち、罪を背負って生きる覚悟をするまでの物語。
それを完成させるために、人誅編は必要だったのです。

・俳優は作家ではない
上記の通り、原作の贖罪の答えは物語に必要な反面、縁に告げるには相応しくない台詞です。他ならぬ剣心が縁から姉を奪った以上、剣心が何を言っても縁が救われることは無い。
主演の佐藤氏も恐らくそう思われたのでしょう。彼の質問を受けて、原作者は「贖罪の答えは少年漫画として言葉にすることに拘った」と答えています。
当時のジャンプの読者層は十代の少年少女、人生経験も読解力も浅い子供たちにこの重いテーマを伝えるには、明確に言葉にする必要があったと。
その答えを聞いて、主演氏は考えたはずです。剣心が縁に対して、ある意味開き直りとも言える答えを告げたのは、少年漫画として分かりやすくするため。

では媒体が少年漫画ではなかったら?

二十年以上前の漫画の実写化、観客の多くは既に大人のはず。そして実写るろ剣を見る人間は原作ファンだけとは限らない。
人誅編の肝にして作品を総括する剣心の決意は、下手に扱えば剣心のイメージが下がってしまうのではないか?
絵ではなく人間が演じる実写映画は、漫画とはまた違う生々しさがある。
ここは原作添いにこだわるより、観客が思う剣心のイメージを壊さない方が重要なのではないか。
今回、主演氏が脚本に意見し、剣心ならこうするはずだ、という自分の解釈を出してきたのは、こういう考えあってのことかなと推察します。
実際、縁と対峙し、戦い、縁の刃を受け止めて「すまなかった」と告げた剣心の演技は素晴らしかった。
京都編までの時点で薫の喪失を経験している実写剣心が、既に贖罪の答えを出しているとしたら、あの「ただひたすら縁に誠実に向き合う剣心」も有りでしょう。
finalは今まで通りの異世界線るろ剣として、「もし剣心が縁と出会った時、既に贖罪の答えを出していたらどうするか」を見せてくれた。銀幕の剣心として、俳優として、さすがの貫禄だったと思います。

しかし残念なことに、彼はストーリーテラーではなかった。

役者の仕事は物語を作ることではなく、キャラクターを演じることです。
キャラクターを自分の中に取り込み、理解し、そのキャラに相応しい台詞や行動は考えられても、物語全体を俯瞰して見つめ、作品に仕立て上げる創作者ではない。
彼は剣心を演じることにかけては紛れもなく一流でしたが、剣心の物語を作るプロフェッショナルではなかった。
京都編で人誅編の要素をやってしまった実写剣心は、メタ的に言えば人誅編でやることが無くなってしまった。
よって主演氏は「縁に誠実に対峙する剣心」を演じたのですが、それゆえにThe finalは前三部作にあった剣心の心の成長が存在しない、いわば剣心がただ謝ってるだけの映画になってしまったのですね。

・現代人には理解されにくいからこそ「贖罪の答え」は必要だったのでは。
前述の通り、The finalは剣心がただ謝ってるだけの話になっていました。しかし、個人的にはこれでも十分面白かった。
剣心の成長が無かった代わりにfinalは縁の物語として再構築されており、地上波アニメにならず知名度の低かった縁というキャラクターを人々の心に刻み付けてくれました。
しかし一方で、作り方によってはもっと強烈なメッセージを発する作品にできたのでは、とも思います。

るろうに剣心は名作であると同時に、読者の読解力が試される作品です。
殺人者は必ず法の裁きを受けるもの、という現代に生まれ育った、いわゆる戦争を知らない子供達の思考回路で読めば、人誅編は被害者に向かって開き直る加害者の話になってしまう。

「剣と心を賭して闘いの人生を完遂する」

これは確かに、剣心に大切な人を殺された被害者遺族、縁の視点から見れば至って腹立たしい、いっそ無神経にすら感じられる決意です。

しかし、どうか思い出していただきたい。
るろうに剣心の時代設定が、明治初期であることを。

剣心も戦った鳥羽伏見の戦いに始まり、薫の父が出征した西南戦争にかけて、日本人同士が血で血を洗う内戦を繰り広げた時代。
警察組織を作った初代警視総監でさえ、禁門の変で長州の猛将を討ち取った(殺した)という説がある。
石を投げれば従軍経験者に当たり、近所の優しそうなおじさんが西南戦争で同じ日本人を殺していても不思議はない世界観。
戦争や革命で出た殺人者をいちいち裁いてたら国が立ち行かない。だから「許されない罪を犯したからといって、蹲ったままじゃ誰も守れない」と剣心は立ち上がった。
剣心だけではない、元新撰組の斎藤一。若き維新志士時代は英国大使館に放火した(!)説がある初代総理大臣伊藤博文。そして何気に一番本物に似てた大警視川路利良。
その他大勢の「あの時代に戦った人々」は、多かれ少なかれ加害者であり被害者であり、剣心と同じく罪を背負って生きている。
現代人の感覚では、殺人の罪は許されない、ましてや殺人者が開き直るなどもっての外、なんて思ってしまいますが、そもそもその考えこそが平和で生ぬるい時代に生きている人間の甘っちょろい戯言なのです。

当時、勧善懲悪が基本だった少年ジャンプで、許されない罪を犯した主人公が、許されないまま生きていく覚悟を固める物語をやった。
それこそがるろうに剣心の特色であり、人誅編の魅力でもありました。
日本人が最後の戦争を経験してもう70年以上。平和が当たり前になってしまった現代人に、苛烈な時代を生きる原作剣心の決意を見せつけてほしかった。

最終章と銘打つならば、剣心の覚悟と決意の言葉はどこかに挿入するべきだったのでは、と思いました。

③The beginningの何がいけなかったのか

時系列では一番最初の物語にして公開順序的にはシリーズ最後の作品、The beginning。この映画、個人的に惜しいなーと思う所が沢山ありました。
ただ、The beginningのお陰で新しい発見や再確認したこともあり、ある意味で学びのある作品ではありました。

・アクションシーンはちゃんとある。無いのは〇〇〇。
The beginningの感想でよく見る意見の一つに、アクションシーンが少ない、というのがありました。私も初めに見た時はそう感じました。前作までにはあった圧倒的な派手さを感じなかった。
でも実はアクションシーン自体は結構あったんですよね。
初めの対馬藩邸での大暴れ、奇兵隊入隊時、暗殺シーンに池田屋・沖田との対戦、そして闇乃武との闘い。
これらのシーンで大友組と谷垣監督が撮っていたのは確かにアクションでした。それもシリーズ中最も美しく残酷な極上のアクション。
では何故、物足りなさを感じたのか?

答えは簡単、敵が弱いんですね。

1作目から4作目までの敵は、雇われ暗殺者に殺人狂、国盗りを企むカリスマ、剣心を殺すために強くなった復讐者など強者ぞろい。
対してbeginningの敵はあまり強くなさそうな、ぶっちゃけ政敵というだけの一般人。一般人ではない闇乃武と沖田との戦いも、かなりグダグダな終わり方でスッキリしない。
前者のアクションに、逆刃刀というハンデ付きの主人公が強い敵を倒す爽快感があるのに対し、後者のアクションは、強い主人公が普通の刀で一般人をただ殺害する(または決着前に戦意喪失する)シーン。
そして今までファンが楽しんできたのは、主人公が強い敵を倒す爽快感だった。
主演氏は「刀は切れた方が良い」と言っていましたが、見る側としては、ただ主人公が無双していれば良いってもんでもないんだな、と意外な発見でした。

しかし、この辺りまでは制作側も承知の上でしょう。監督や主演のインタビューでもbeginningはストーリー重視の作品だといわれている。彼らはアクションで与えられる爽快感など初めから捨てるつもりだったのです。
問題は、その爽快感を捨ててまで重視したストーリーの作りでした。

・ストーリー重視ならキャラを掘り下げて
The beginningは場面ごとに美しいカットがてんこ盛りの作品です。
初っ端の対馬藩邸で大暴れに始まり、ラストの燃え盛る家をバックに立ち去る剣心の姿まで、どこを切り取っても絵になるシーンが目白押し。
しかしそのわりに観客の感情を揺さぶる映画ではなかった。出演者や追憶の章に特別な愛着が無い人は、悲恋なのに何だかアッサリしてると感じたのではないでしょうか。
思うにその原因はキャラの掘り下げが少ないことと、劇中の時間経過によるキャラの心理変化が滅茶苦茶なことです。

まず剣心。弱き人々が笑って暮らせる国にするため、新時代のために人を斬っていると言いながら、肝心の何故、剣心はそれほど強く新時代を望むのか?が語られません。
原作では京都編で幼少期の悲劇と、師に反発して山を下りる正義感の強さが描かれていた。
OVAでも、原作のエピソードを更に濃厚に描き、若き剣心の信念がどこから出たのかを語っていた。
しかし実写ではその部分がゴッソリ欠けている。師匠役の福山さんを引っ張ってこれなかったにしても、せめてどこかに伝説の最期編の冒頭を挟めなかったのでしょうか。
何ならもう台詞で良いから闇乃武の辰巳に向かって、

「幕府が病に苦しむ貧民を救ってくれたか? 人買いに売られ野盗に殺された娘たちを救ってくれたか? 俺の知る幕府の世に、お前たちの言う平和など無かった!!」

くらい言わせて欲しかった。そうすればあの雪山の闘いは旧時代と新時代の闘いに、男と男の信念のぶつかり合いになっていたでしょう。せっかく辰巳の台詞が増えていたのに残念でしたね。
原作の剣心は人々を救いたい一心で人を斬り、巴の幸せを守るために闇乃武と戦った。しかしbeginningでは、人斬りまでしている剣心の信念が見えない。
また、巴に惹かれていく描写も非常に薄い(まさかbeginning初の剣心の微笑みが巴ではなく大根に向けられるとは思いませんでしたよ……。)
終始剣心の感情の起伏が浅く、劇中通して変化に乏しいんですね。
もっとも、これは二部作の撮影方法を聞くに、主演氏、ひょっとして過労で表情筋が動かなかったのでは……?とも思いますが。

次に巴。彼女は原作でも無表情のクールビューティーなキャラで、想いが変化する過程はさほど描かれません。前座である追憶の章を濃厚に描きすぎると、本編である人誅編とのバランスが悪くなるためでしょう。
追憶の章のみで作られたOVAでは、抜刀斎への怒りと憎しみ、それでも愛してしまった苦しみが原作より色濃く描かれています。
しかしbeginningはOVAと同じ独立作品でありながら、原作と同じ前座の巴をやってしまった。
仇討ちのために剣心に近付いたにもかかわらず、憎しみが愛情に変化していく過程をほとんどすっ飛ばしているんですね。
彼女の復讐者としての想いが表されるのは、初めて名乗る際の冷たい表情と、このまま人を殺め続けるつもりですか、と手ぬぐいを差し出す時くらいでしょうか。
祇園祭で会話する場面では剣心を被害者扱いし、憐れみを込めて諭そうとしている。そこに至るまでの過程はもう無言で剣心を切なそうに見つめるだけ。有村さんの表情の演技頼みなのです。
特にもったいないと思ったのは、巴が新しい刀を剣心に渡す場面。これは、原作人誅編で、剣心が薫から逆刃刀を受け取るシーンのオマージュかな、と思いました。
が、原作のそれが「剣心にとって生きようとする意志の根源である薫が、不殺の誓いの証である逆刃刀を渡す」シーンであるのに対し、beginningのそれは「剣心に婚約者を殺された巴が、新しい人殺しの道具を他ならぬ剣心に渡す」シーンなのです。
それをあんな洗いあがった洗濯物を渡す時みたいに撮るのはどうなのか。
あそこは、剣心が刀の手入れをしているカッコいいだけで何の意味もないシーンより、巴が桂から新品の刀を渡されるところから撮るべきではなかったでしょうか。
愛する人を殺した仇に新しい殺人刀を渡せ、と言われた巴が果たしてどんな顔をして刀を受け取ったのか。
せっかく原作にもOVAにも無いシーンだったのに、もったいなかったですね。

そして何より惜しいのは、不要な改変のせいでキャラクターの感情変化が分かりにくくなっていること。
原作では巴の感情表現が薄い分、剣心が感情の変化を引っ張ります。

巴と出会った翌日、出ていけと言うも煙に巻かれる

夜中に手を洗っていると巴が現れ、「このままずっと人を殺めるつもりですか?」と訊かれる

小萩屋で寝ている際に巴がショールを掛けようとして近づき、誤って斬りかかる。ここで「君だけは絶対に斬らない」と告げる。

祇園祭の夜には巴の傍で気を許して眠っている

禁門の変後、初めて優しい顔で「共に暮らそう」と告げる

結婚後、巴に「君との暮らしが幸せを教えてくれた」と微笑みながら告げる

このように、原作では剣心の変化がきちんと劇中の時間経過に沿っています。
初めは威嚇していた野良猫が次第に懐き始めるようにハッキリと変わっているため、巴の方がずっと無表情でも読者は「ああ、この剣心の変化に巴は絆されていったのだろうな」と思える。

しかしbeginningでは、誤って斬りかかるシーンを、気を許して眠っているシーンの後に持ってきてしまった。
恐らく、そのシーンでの「君だけは絶対に斬らない」を剣心から巴への告白とみなし、告白直後の逃避行を演出したかったのでしょうが、そのために実写剣心は、出会ったばかりの巴にすぐ気を許してスヤスヤ眠り、しかしその数日後には飛び起きて斬りかかり、君だけは斬らないと言い、間を置かず共に暮らそうと言う流れになっています。
結婚後、寝ている剣心に巴が布団をかけても眠ったまま……という演出はありますが、なにせ出会った直後に巴の前でスヤスヤ寝ているので、巴との新婚生活でようやく安らぎを得たというより、禁門の変後の不安定な政情から遠ざかったために安らいでいるように見える。
そして巴は剣心にデレるのが早すぎる。原作では無言だった「共に暮らそう」に「お供させていただきます」とあの時点でしっかり答えてしまっており、何なら新婚生活では剣心よりニコニコしてるので、剣心に絆されて次第に愛するようになったというより、剣心を愛するという設定に沿っているだけのように見える。
ドラマチックな演出を優先して場面を入れ変えたり、ラブストーリー色を強めようとした結果、却って二人の心理変化が時系列にそぐわなくなり、惹かれ合っていく様子がチグハグになったんですね。

ストーリー上、不要な改変によって分かりにくくなっているのは桂一生もそうでした。
実写の桂さんは原作ともOVAとも違い、巴に向かって「あいつ(抜刀斎)の剣を鈍らせんでほしい」と脅すように忠告しています。
これは、優しい桂さんより腹に一物ありそうな不穏な桂さんの方が高橋一生さんに似合うためでしょうが、禁門の変後、巴に「緋村を頼む」と言うところは原作通りなので、巴を抜刀斎から引き離したいのか近づけたいのか、言動に一貫性が無くなっている。
これでもし「緋村を頼む」の前に飯塚あたりに、

「桂さん、人斬りとはいえ緋村はガキだ。誰か気の安らぐ相手がいないと、いつか心が折れますよ」

みたいな台詞でも言わせていれば、却って人斬りとして剣心を使う冷酷な政治家と、少年剣心を思いやる年長者の狭間で揺れ動く桂一生が演出できたと思うのですが……。
とにかくこのbeginning、各キャラクターの掘り下げや心理描写が非常に惜しいのです。


・「なんやかんや」が一番大事
これは、プロ・アマ、オリジナル・二次創作の別なく創作するタイプの人間ならピンとくると思うのですが、クライマックスや見せ場になる場面はしっかり思い浮かぶのに、なんやかんやあってその場面に至るまでの「なんやかんや」が思いつかない――ということはありませんか?
クライマックスは書けるのに、そこまで繋ぐ道筋が書けない。しかしここで手を抜くとストーリーが安っぽくなってしまう。
最も面倒で書くのに苦労する繋ぎの部分は、音楽に例えるならベースです。華やかな主旋律ではないものの、あの重低音がなくては作品に厚みが出ない。
これが趣味で作る二次創作なら、ええいもういっそのこと書きたいとこだけ書きました!で済ませてしまおうか、なんて出来るのですが、今回、最終章の脚本も担当した大友監督は、よりにもよって商業作品でそれをやってしまいました。
すなわち、話の「なんやかんや」の部分を、俳優の顔をゆっくり撮ったり、綺麗な映像やカッコいいアクションシーンを挿入するだけで凌いでしまっているんですね。

出会ってしばらく、巴の想いが変化する過程は有村巴の美しい顔をゆっくり撮るだけ。いっそ潔いほど彼女の演技力に丸投げです。

池田屋の夜、剣心と沖田総司との闘い。逃げた維新志士を追う沖田と池田屋に走る剣心が偶然エンカウントするまでは良いでしょう。アクションも大変良かった。
しかし終わり方がグダグダ過ぎる上に、ついさっきまで池田屋で維新志士を斬りまくっていた斎藤さんが剣心たちをアッサリ見逃すので、あの池田屋での大暴れはなんだったのかという気分になる。
なんやかんやあって剣心が沖田と戦うことになり、またなんやかんやあってどちらも死なずに戦いを止める、としたかったのでしょうが、いくら何でも雑過ぎます。
もし私なら、祇園祭で親とはぐれた子供を出して、沖田がその子供を剣心から守るように庇い、それを見た剣心が「自分は弱き人々を守る人間ではなく人斬りなのだ」と実感して戦意喪失するシーンにします(斎藤さんとは道端ですれ違うくらいでいいよ)
そうすれば昼の巴との会話から繋がるし、涙を流す剣心に違和感も無くなる。一昔前のVシネじゃあるまいし、オッサン同士の睨み合いで場を収めるのはちょっと地味過ぎました。

そして池田屋から禁門の変に至るまでは、もう巴が月を眺めている映像だけで繋いでしまっている。海外ファンなど日本史に疎い人が見れば、いきなりスクリーンに燃え盛る街が現れて何が起きたのか分からないでしょう。
その上、その燃える町を映した直後には、大火前とさほど様子の変わらない小萩屋で剣心は以前と同じように飯を食っているのです。
原作では小萩屋も焼けてしまい、行き場を失ってからの巴にプロポーズという激動の幕末感満載だったのが、実写ではオッサンが「朝敵になった!」と怒鳴り散らすだけなので緊迫感がまるで無い。
せっかくの「新撰組に追われて逃避行」という演出が、そこに至るまでの雑さのせいでドラマチックになり損ねている。せめてこの池田屋から禁門の変に至るまでに、モブでいいから維新志士たちの
「池田屋が襲われたぞ!」
「なんてこった……! こんなことが長州に知れたら進発派が黙っていない。戦になるぞ!!」

みたいな会話のひとつも挟んでいれば、見せ場から見せ場を繋ぐ線ができた。
燃える町を映したなら、その後には灰の降る焼け落ちた町を映すべきでしょう。なぜ燃える前と変わらない小萩屋に戻ってしまったのか。

雪山での戦いも、もう少し初戦の敵に活舌良く説明してもらった方が良かったと思います(聞き取れなかった)。
映像的には綺麗で迫力もあったものの、原作もOVAも知らない人には、何故か敵が騒ぎながら勝手に自爆していくシーンに見えたのではないでしょうか。

作品のクライマックスや見せ場の部分は点であり、それらを線で繋いだものが物語です。
大友監督もまた「演出」のプロでありストーリーテラーではないので、地味でパッとしない絵は撮る気にならなかったのかもしれない。
しかし、絵にならなくても、美しくなくても、物語上、必要なシーンというのはあるのです。
むしろ、普通に撮れば絵にならないシーンをどうやって上手に挟むか、そこに監督としての力量が問われるのではないでしょうか。


・ストーリー  <  演出という作りはfinalでも同じだったが
なんやかんやの部分がおざなりというのは、同じく大友監督脚本のfinalでも(というか今までずっと)そうでした。
縁に襲撃されていながら街をうろつく剣心や、縁の屋敷で肖像画や風車を見る薫(いずれも無言)の顔をゆっくり撮ったり、ビラ撒きのためだけに気球を飛ばす無言の縁や、薫が攫われたのに道場で無駄に瞑想している剣心をこれまたゆっくり撮ったりしているわりに、肝心の縁が何をしたかったのかが今一つ分からない。
原作では「薫を殺すことで剣心を生き地獄に突き落とす」という目的が明確でしたが、実写ではそれが使えないため、縁が派手に街を破壊したわりには単に人質を取って剣心と戦うだけの話になっている。
それでもfinalは一応新規エピソードになっていたし、今までと同じ派手なアクションお祭り映画だった。
どんなにストーリーにツッコミどころがあっても、細かいことはいーんだよ!そんなことよりアクション見ようぜ!!とばかりにスクリーンから発せられる莫大なエネルギーが全てを押し流してしまう。
実写るろ剣を語る時に散々言われてきた「アクションは良いんだけどストーリーがね(笑)」という揶揄は、裏を返せば物足りないストーリーを補って余りあるほどアクション(によって得られる爽快感)が凄いという意味です。
finalもまたそうだった。だからこそ、この情勢下で40億越えの大ヒットとなったのです。
派手なアクションお祭り映画という特色を捨てるなら、beginningはもっと脚本に力を入れるべきでした。

・必要なのは「映像演出」ではなく「エピソード」
①で述べた通り、もともと原作追憶の章は前座的な話です。しかし実写は人誅編と追憶の章をそれぞれ一つの映画にした。
よって、エピソードが多すぎる人誅編からはエピソードを削り、逆に少なすぎる追憶の章にはエピソードを追加しなければなりませんでした。
finalでは上手くいっていたと思います。「薫の死」というエピソードを削り、縁の物語として成立させ、ツッコミどころはアクションで押し流した。
しかしbeginningではエピソードを追加というより、ほとんど綺麗な映像や演出を追加するだけで終わってしまいました。

前述した剣心の奇兵隊入隊時、カッコいい抜刀術はありますが、剣心が奇兵隊に入ろうと思った動機は語られません。

剣心に婚約者を殺された巴が新しい刀を剣心に渡すという、ある意味、残酷な場面も、巴の心理描写より剣心が刀を手入れしている綺麗なだけの絵を優先している。

剣心と沖田との戦いもただカッコ良かっただけ。どうせなら沖田戦をきっかけに剣心が新選組に顔バレして指名手配され、そこから巴との逃避行に繋げればいいのに、わざわざ一か月後の禁門の変を挟んで緊張感を無くしている。

里山での新婚生活も、いくら二人が寡黙だからってセリフ少なすぎませんか。これは映画で、お茶のCMを作ってるわけじゃないでしょう。
原作では村の子供たちとの戯れによって剣心の変化を描いていました。子役を雇う予算が無かったとしても、せっかく好きな女と結婚できたのだから、剣心の喜びをもっと、例えば巴を相手に空回ったり無駄に焦ったり緊張したりと、十代の少年らしいエピソードで見せても良かったのでは。

あと裏切者である飯塚が空気過ぎます。丸焼き前の志々雄を出せとは言いませんが、巴が斬殺される原因の一つでもある彼が桂さんの台詞だけでナレ死というのは流石にどうなのか。

同じく縁も空気。beginningはfinalの因縁の始まりを描く物語でもあるのに、少年縁が巴の死を目撃するシーンさえ無い。

縁の同志の中で唯一beginningにも出てる無名異も、「画面には映ってないけど(雪山の戦闘で)逃げてfinalに出てくる」とオーディオコメンタリーで言及されるだけです。そこは剣心を恨むキッカケとして撮った方が良かったのでは。

もう一つ一つ言い出せばキリがありませんが、要はこの映画の製作陣、ストーリーを演出するために映像を作るのではなく、撮りたい映像のためにストーリーを継ぎ接ぎしているんですね。
よって、場面場面は美しいのに、いざそれらを繋げて物語として見た時、キャラの心情や話の展開が上手く繋がらず、当然観客も入り込めず、結果として妙にアッサリ感じる映画になった。
アクションの爽快感で強引に押し流してきたfinalまでと全く同じ作り方。絵に描いたような美しいラブストーリーを作ろうとして、本当にただ絵に描いただけの薄味な話を作ってしまったのです。

ここから学び取れるのは、やはりキャラの掘り下げと「なんやかんや」の部分は大事だということ。演出はあくまで物語に準じるべきもので、演出のために物語をおざなりにしてはならないということでしょうか。
ファンとしては物足りませんでしたが、ある意味、学びのある作品ではありました。


④「ヒロイン=主役と恋愛するキャラ」という固定観念を捨てろ

・巴は薫にはなれない
そもそも人誅編と追憶の章は、剣心と復讐者・雪代姉弟の話です。
今まで正義の側に立って戦ってきた不殺の主人公が、かつて犯した罪を突き付けられる物語。決してベタなラブストーリーではなく、ましてや巴を挟んだ縁と剣心の三角関係の話ではありません。

人誅編は罪を背負って生きる決意をする物語。
追憶の章は殺人の罪深さを思い知る物語。

finalの縁は最愛の姉を殺された恨みによって剣心に復讐しに来た。
ならばbeginningの巴、縁と並ぶもう一人の復讐者である彼女も(少なくとも最初は)剣心を恨む敵として演出すべきだったのではないでしょうか。
彼女は原作縁が企んだ愛する者を奪って剣心を生き地獄に突き落とすという復讐を、偶然とはいえ、ほぼ完璧な形でやり遂げています。
beginningからfinalという本来の時系列で公開されていれば、巴の立ち位置は京都大火編で逆刃刀影打をブチ折った宗次郎と同じです(巴が折ったのは剣心の刀じゃなく心だったけどね!)
しかし残念なことに、実写制作陣は「巴は女性である」「剣心の恋の相手である」という表面上の情報だけを汲み取り、巴というヒロインの本質を捨ててしまった。
ヒロイン=主人公の恋愛相手、という古くありきたりな固定観念に則り、既に薫という太刀打ちできない公式ヒロインがいる場所に巴を立たせた。

その結果、巴の本来の魅力が半減してしまいました。

原作、アニメ、そして実写。どの媒体でも1話から登場し、最終話(実写はfinal)までメインヒロインをやっている薫には、るろ剣という物語の中に確固たる立ち位置がある。
原作ファン、アニメだけ見ていた勢、実写だけ見た勢。どのファン層にも好き嫌いに関わらず、るろ剣のメインヒロインといえば薫、という共通認識が出来上がっています。
この状態でいきなり巴を薫と似たような立場に立たせても、巴がただの薫の代替品、しかも知名度の低い下位互換にしかならない。
特にライト層のファンは巴というキャラ自体に馴染みが無いため、剣心の隣にいるのが薫や剣心組ではない=るろうに剣心に見えない、と感じてしまう。更に言えば、いくらbeginningが過去の話と言っても、直前に公開されたfinalまでは薫が固定ヒロインなので剣心が不誠実に見える。
加えて、巴は剣心に婚約者を殺され、復讐のために近づいた女性である、という前提条件があります。そんなヒロインが剣心とのラブストーリーをやると言われれば、詳しい内容を知らない人にとって、巴は婚約者を殺した相手に平気で乗り換える理解できないヒロインに思えてしまう。
るろ剣が元々ラブストーリーではなく、ファンも剣心の恋愛だけが見たいわけではないので、初めから見る気が失せるのです。
るろ剣は剣心と仲間たちの物語であり、謎めいた美女との恋物語ではない。巴は非常に魅力的なキャラですが、シリーズ全体を通してのヒロインではない。
巴に比べれば、連載初期から出ている赤べこの妙や燕の方がまだ知名度はあります(地上波アニメにも出ているので)。ライト層にとっては新キャラとなる巴の扱いは、もっと慎重にすべきでした。
巴は薫にはなれないし、また、なる必要もない。彼女には彼女だけの特別な役割と立ち位置がある。

剣心の心と左頬に一生の傷を負わせた復讐者。戦えない女の身で人斬り抜刀斎を相手に勝ち逃げをキメた、ある意味、志々雄と同レベルのキャラクターという立ち位置が。

これは物語初期から剣心に好意を寄せる薫や、恵、操、他のどのヒロインにも無い、巴だけの立ち位置であり、個性です。
そのせっかくの個性を実写公式は最初からブン投げた。ヒロインだから女だからと主人公との恋愛「だけ」にフォーカスし、挙句に薫の二番煎じのように扱ってしまった。
作中の時系列ではbeginningより後になるfinalで、薫と共に巴の墓に別れを告げる剣心を見せた後で、巴と剣心のラブストーリーをやったのです。
二人がスクリーンの中でどんなに惹かれ合っても、愛し合っても、最終的に剣心が薫の手を取り、巴を過去にすることを既に観客は知っている。
というか原作と同じようにfinalで前座の回想シーンとしても観ているので、なんかもうbeginningの剣心と巴の恋物語そのものが、後にfinalで未来へ歩んでいく剣心と薫の前座のように感じてしまう。
原作では剣心を傷つけ、復讐を果たして「これで良いんです」と言って死んでいった見事なヒロインだった巴は、こうして剣心のただの過去の女に成り下がったのです。
本当に巴を剣心にとって一生の女として演出し、彼女の魅力をより強く観客の心に刻みつけたいのなら、ただの恋愛要員にしてはならなかった。

縁の復讐心が剣心に贖罪の答えを出させたように、巴の復讐心は剣心に殺人の罪深さを教えた。

薫が剣心にとって生きようとする意志の根源になったように、巴は剣心にとって不殺の信念の根源になった。

ならば巴は剣心の心を成長させる敵、または原作のコンセプト通りミステリアスな謎の女として扱う方が良かったでしょう。
剣心から巴への恋心をもっと深く濃厚に描き、逆に巴から剣心への愛情はもっと希薄に、いっそ何を考えているか分からないくらいに描く。
そうすることで「婚約者を殺した相手に平気で乗り換える不誠実なヒロイン」という負の印象を抱かせず、剣心にとって忘れられない女として演出する。
剣心の恋人的な意味でのヒロインではなく、人斬り抜刀斎を命懸けで戒めたヒロイン、剣心が生涯背負う十字架のような存在にするべきだったのです。

しかし実写はヒロイン=主人公の恋愛相手という固定観念から抜け出せず、追憶の章を巴と剣心の恋愛物にしてしまった。
そのために本来のテーマも歪み、巴だけではなく剣心までも、最悪なキャラ改変が起きてしまいました。

・beginningをラブストーリーにしたことで何が起きたか
大友監督のインタビューの一つに、beginningは幕末という激動の中で時代に翻弄される恋人たちの物語だ、というのがありました。
かつて龍馬伝で一世を風靡した監督です。龍馬伝と同じ幕末の世界観で、歴史の荒波に呑まれる悲恋物を作りたかったのでしょう。
しかし、るろうに剣心は龍馬伝ではありません。追憶の章で実際に時代に翻弄され、運命に引き裂かれた恋人同士なのは、剣心と巴ではなく清里と巴です。
二人を引き裂いたのが他ならぬ剣心であり、それゆえに剣心は罪の意識に苦しみ、苦しんだ挙句に贖罪の答えを出す。それが元々のストーリーでした。
原作追憶の章のラストでは、自分が巴にとって婚約者の仇だったことを知り、剣心は愕然とします。自分が清里を殺しさえしなければ、巴は死ぬこともなく幸せになれていたと知って、途方もない罪悪感に打ちのめされる。
巴がどんな気持ちで仇である自分の傍に居たのか、そもそも彼女は自分を本当に愛していたのか。分からないからこそ十数年の後に巴の幻は悪夢となって剣心を苦しめた。
その苦しみこそが人誅編で出す答えに繋がるのですが、beginningはラブストーリーを前面に押し出して、巴の内心までも剣心と観客にさらけ出してしまいました。
そしてfinalでは、剣心が贖罪の答えを(少なくとも言葉にしては)出さなかった。
この二つが合わさったことで、最終章は見ようによっては、

「結婚して幸せになるはずだった清里と巴を殺しちゃったけど、巴は俺を愛してたんだからオールオッケーだよね★」

という極めて軽薄な、倫理的にも人道的にも最低にして最悪な話になっちゃったんですね……。
実際、beginningのラスト、そしてfinalで縁との最終決戦に赴く前、剣心は巴の日記内容を思い返しています。「私が命に代えても(剣心を)守る」という巴からの愛の言葉を。
巴の幸せを奪い、命を奪った罪悪感よりも、自分が巴に愛されていた事の方を重要視してしまっている。
ゆえに「当の巴が俺を愛していたんだから」を免罪符に、何の成長もせず、ただ縁を叩きのめしに行ったように見えてしまう。
実のところ、finalにこの巴のモノローグが差し込まれていたからこそ、私は「まさかこれで終わりじゃないだろう」と思いました。
なんらかのフォローがbeginningに入るはずだ、そうでもないと巴があまりにも惨め過ぎると。
しかしbeginningはfinalの回想シーンを引き延ばしただけ、原作には無いキスシーンもラブシーンも追加して、巴を復讐者ではなく剣心と恋愛するためのヒロインに変えてしまった。
その結果、

巴は、幼馴染兼婚約者を殺した剣心を菩薩の慈愛をもって諭して愛して、普通の幸せを教えてやってファーストキスと童貞も奪ってやって、庇い守って死んでやって、更に死んだ後までも剣心が縁を叩きのめすための免罪符になってやるという、どこまでも剣心にとってのみ超都合の良い消耗品のような女になり、

剣心は巴の愛の上に胡坐をかいて縁を叩きのめし、自分は新しく出会った若い美少女(薫)と手を繋いでスッキリした顔で未来へ歩むというクズ男のようになってしまった。

本来、巴の復讐譚にして剣心の喪失の物語だった追憶の章をラブストーリーに作り変えた結果、「剣心が己の罪深さを思い知る」という物語の役割も消え去り、メインキャラの印象も恐ろしく悪化してしまったんですね。


・そして対の物語は相克の物語へ
The finalとThe beginning。どちらも演出はこの上なく素晴らしいのに、ストーリーは残念なことになりました(特にThe beginning)
更に言えば、それぞれのエピソードがお互いを補い合うはずだったこの二部作は、finalにbeginningの描写を入れ、beginningにfinalへ続く因縁を入れなかったことで、対の物語にもなり損ねた。

finalを見ればbeginningが一から十までネタバレされるのでbeginningを見なくても良いような気分になり、

beginningを見ればfinalより無印一作目を見たくなり、

finalとbeginningを両方見れば、剣心がクズ男のように思えてしまう

という、お互いがお互いの魅力を打ち消し合う相克の物語になってしまったのです。


⑤終わりに

実写るろうに剣心最終章、日本映画としては破格の総製作費50億をかけた一大プロジェクトでしたが、正直、色々かなり勿体ない映画になってしまったと思います。
演出の素晴らしさに追い付いてないストーリーもさることながら、何が一番切ないってこれ、制作側は本当に心から素晴らしい映画にしようと思ってたんだろうな、と汲み取れる所です。
前作超えを目標に掲げたというアクション、どこを切り取っても絵になる画面構成。衣装に美術。
本職の脚本家でもないのに撮影と同時進行で脚本を書いていたという監督。新キャラに加えて、今までの人気キャラも多少強引にでも出そうという気概。
そして、何をしたかったのか分らない縁、使い捨ての女に見えてしまう巴や、最低なクズ男になってしまった剣心を、天才的な演技力でギリギリカバーした俳優陣。
どこもかしこも血の滲むような努力が見えます。制作陣の情熱と、何よりファンを楽しませようというサービス精神は凄く伝わる。
原作ファンとして、それだけでもう感謝はしています。二十年以上前の漫画をここまで大規模にやって貰えるジャンルなどそうそうないでしょう。本当にありがたかったです。

しかし出来上がったのはこれだった。

今回のプロジェクトに足りなかったのは、制作陣の努力でも情熱でもありません。彼らはすごくがんばった。
最終章の雪代姉弟は京都編の志々雄と宗次郎と同じです。見慣れた剣心組より新キャラの彼らがフォーカスされるのは当然で、制作陣は剣心組に関心が無かったとかそんなことはありません。
巴が恋愛要員にされたのも、なんだかんだベタで分かりやすい話の方が商業的に売れるからで、それによって剣心の印象が悪化してしまったのも多分ただの不可抗力。
制作陣の方に原作を貶めるつもりや、ましてや剣心をクズ化する気などあったはずがありません。原作に忠実にではなく誠実に、という精神は決して失われてはいなかった。

finalの神谷道場で剣心が瞑想するシーンは、脚本の段階では薫との回想だけだったと公式noteに書かれていました。
つまりあのシーンは、本当なら薫との思い出を胸に、過去と決着をつけようと決意するシーンになるはずで、主演氏もそのつもりで演じていたものと思われます。
間違っても「巴は日記にこう書いてたし、結局は俺に惚れてたんだから許してくれてるよな(笑)」と思ってるシーンではなく。
そこに今までの仲間との回想を入れたのも良かった。余計だったのは巴の声だけです。最後だからシリーズのメインキャラは出来るだけ入れようと思ったのでしょう多分。それによって巴の愛が免罪符のように見えてしまうことには気付かなかったのでしょう多分。
もちろん巴の日記内容自体は良いのです。原作から上手く台詞を取り入れてあり、実に見事でした。ただ挿入する部分がマズかった。
特に縁が日記を読んで涙するシーンは、縁が完全に一人で空回った悲しきピエロとなっており、クズ化した剣心と相まって一層可哀そうなことになりました。

beginningの祇園祭で巴と剣心が会話するシーンは、原作の巴と抜刀斎の想いを分かりやすく掘り下げていたと思います。まともな二人の掘り下げはそのシーンくらいしかありませんでしたが。
巴の遺体を背後に淡々と食事をとる剣心の表情は、自分には泣く資格さえないと思っているかのようで素晴らしかったです。
そこにやっぱり巴のモノローグを入れてしまったことで、「巴の幸せを知らずに奪っていたことを悔いて不殺を誓う」と言うより「巴との愛を胸に生きていく」ような印象になっていましたが。にもかかわらずfinalでは巴にさよならするので、剣心が軽薄な男に見えてしまいましたが。
言及されもしない花言葉だけではなく、きちんと「十字傷は薄れても消えることは無い」と言ってほしかったです。

とにかく、この最終章は駄目だったのではなく、惜しいのです。
ほんの少し構成を変えるだけで、というか、もうぶっちゃけ巴のモノローグを全部消すだけでも、かなり違って見えると思います。
キャラクターの性格を作品に落とし込むことには成功している。ファンの期待に応えようとする意気込みも、原作への愛もちゃんとある。

足りなかったのはストーリーテラーと分析力です。

スポンサーから莫大な資金を提供された責任をもって、ビジネスとして物語を分析し、作品に仕立て上げる能力。
ストーリー内におけるキャラの個性と立ち位置を把握し、最適な宣伝をする能力。
このキャラクターならこうするはずだ、剣心がカッコ良いシーンを撮りたい、という個々の情熱を総括し、物語にまとめる人がいなかった。
監督をはじめ映画の作り手は、とかく「美しい映像を撮る」ことに注力しがちです。しかし観客が欲しているのは物語であり、美しいだけのプロモーションビデオが見たいわけじゃない。
スクリーンに展開される話の中で、キャラクターがどんな行動を取り、何を感じ、どう成長、あるいは変化するか。
演出とは、その物語を修飾する額縁のようなものなのです。

無印からfinalまでの作品にあったアクションの爽快感は、言うなれば格闘技の試合のようなものでした。ボクシングやプロレスの試合興業のように、物語が多少おざなりでもきちんと商業作品になった。
しかしbeginningはそれを捨て、いわばジャンルの神絵師が描きたいとこだけを描いた同人誌になった。よって、剣心と巴のカップル推しや俳優ファンでもない限り、ちょっと地味に感じてしまう作品になりました。
ですが、一般的に10億も行けばヒット作と言われる日本映画で、同人誌に近い内容にもかかわらず20億越えの興行収入を叩き出したというのは誇って良いと思います。
あの内容で20億越えは十分すぎるヒット作。beginningは、るろ剣というタイトルの実力を証明した作品になったと言えるでしょう。

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