寂しさと人間強度のはなし
明言したかどうかは曖昧なので念のため再度ここで書いておくと、僕はVtuberのリゼ・ヘルエスタさんが大好きです。
何故それを今更書こうと思い立ったかというと、先日の雑談配信で触れていた人間強度のはなしについて、思うところがあったりしたからです。
「友達は作らない。人間強度が下がるから」といえば、西尾維新さんの物語シリーズの主人公、阿良々木暦の過去のイタい言動として紹介された言葉として大変に有名です。
周りが群れる中、独りを貫けるのは心が強いから、という発言ですね。
とはいえ、僕はそれなりに好きな言葉なので、折に触れ心の中で唱えたりしていたのですが。
最も、僕は友達を作らない選択肢を取っていた訳ではなく、友達の作り方がそもそも解らないという消極的な理由だったのですが。
今の世の中、リアルで友達がいなくてもなんとかなってしまう側面があるので、それでも日常を送るのに差し支えなかったりする訳です。
学生の間は授業の合間や放課後などの時間を、卒業してからは退社後や休日を一人で過ごすということに、何を思うかという話です。
一人でいる事に、慣れる事ができる人とできない人がいる。
一人でいても、寂しさを感じる人もいれば、感じない人もいる。
のだと思っているのですが、僕は幸いにして慣れる事が出来て、寂しさはあまり感じないタイプの人間だったようです。
幸いにして、という表現をしたのは、それは僕が極度の面倒くさがりだからなのだと思います。
人付き合いをするからには、相手が退屈しないようにしないといけなかったり、手を煩わす事があってはいけないと思ってしまうし、ただでさえ不出来な人間の相手をしてもらってるのに、それすら次からは面倒に思われてしまうという恐怖心が多大にあるのです。
相手への気遣いすら裏目に出てしまう事もあるし、それでも気を揉んだり自分の恐怖心の相手をするのは本当に疲れる。
そんな面倒臭さから、最も気を遣わない手段として人付き合いをやめるという選択肢を取ってきたという側面があります。
時折、誰かといたいと思う時もあるのですが、それではそれは、人間強度が下がったと言えるのでしょうか。
僕としては否だと思います。
一人でいることが辛くない、という事を幸いと書いたのですが、同時に誰かといる事の嬉しさを知っているから、誰かといたいと思う時もあると思っているので。
端的に言うならば、異なる視点からみた幸いを己の中に持っているかどうかの違いなのだと思います。
一人でいることしか知らなければ、あるいは誰かといることしか知らなければ、当人にとっては比較対象が存在しない為、幸・不幸の判断が存在しないと考えられるのです。
人間の寂しさや幸福感には絶対的な基準がありません。
感情に由来する全ての基準は、その人の中にしかないのです。
人が幸せかどうか、寂しいかどうかを誰かが断ずることは決して出来ません。
周りから見てどうかと、当人がどう思っているかは無関係なのです。
リゼ・ヘルエスタさんは、心がとても綺麗な人です。
綺麗というのは、「真っ直ぐでしなやか」である事だと思っています。
当人は否定されると思いますが、僕はそう思っています。
配信の端々で感じさせるその言動を見聞きして、ぼんやりとこう思うことがあります。
幸せになってほしいなぁ、と。
出来るならば誰かの隣で、笑顔で生きてほしい人だなぁ、と思うのです。
それにきっと、そうなると思える人です。
もしこの記事を読んで気になった方がいたら、ぜひ一度配信を見てみてください。
きっと好きなところが見つかると思うので。
最終的に随分と気持ち悪い文章が出来上がりましたが、今回はこんな感じです。
最近は本当に思考がまとまらない……。
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