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何から伝えればいいのかわからないまま時は流れて

散らばった粘り気の強い物体をかき集めて容器に入れて蓋をしようとしても、ニュルっと隙間から溢れては散らばって集めてを繰り返していた。
この2ヶ月間、文章をまとめることができなかった。

このマガジンに定期的に寄稿するようになってから早いもので1年が経った。
これまではどんなお題が出てもそこそこサラッと何かしらの記事には出来たのに、今回のテーマ「仕事」はそうはいかなかった。
それはきっと、今までずっと、自分の中で一番気になっていたことであり、同時にずっと蔑ろにしてきたことだからだ。

年末年始のどさくさに紛れたサボタージュだろうと言われれば、面と向かって反論の余地があるとは言えない。
新春合併号などと言いつつ2回分を1度に掲載したこじつけで賢察くださればこれ幸い。

前回の記事で、今まで生きてきた期間の中で仕事をしたいと思ったことが一度もないと書いた。
これに対して、「子供の頃になりたかったものや夢はないのか?」と聞きたくなる人もいるだろう。
それならそれなりにあって、記憶に残っているのは3つほど。

最初は警察官だった。
県警の音楽隊が演奏を鑑賞する機会があり、そのカッコよさにシビレた。
その次は鉄道の運転士だ。
寝台特急列車(ブルートレインと言えば当時は通じた)の運転士になりたかった。
そして、アイドル歌手。
キラキラした電飾に彩られたステージで大勢のスクールメイツをバックにお遊戯みたいな歌と踊りを披露してキャーキャー言われたかった。

純粋に夢として描けたこの3つについて、全部「世の中そんなに甘くないよ」と知った以降、おおむね中学2年の2学期くらいにはなりたいものではなくてなれるものを探すようになった。

サラリーマンが手っ取り早そうだった。
このまま高校、大学と進めばダブルのソフトスーツを着て分厚いシステム手帳を持ったサラリーマンになれるような空気が漂っていたし、そこかしこにそういう人が実在していたし、ドラマの主人公は会社のあるピカピカのビルへ毎日通っていた。

高校、大学と順調に月日だけが過ぎて、人一倍みんなと同じでありたいと思っていた僕だけがそのままだった。
だから必死で同化しようとした。
ロクな意識もないくせに、高い意識を携えて就職に挑む人たちのマネをした。
仕事をしたいわけでもないくせに、就職活動をしない同級生を侮蔑した。
やりたいと思っていないことをやりたいと思ってもらえるような志望動機を書くことにも慣れた頃、会社名を言えば概ね「あー、あそこね。」と言ってもらえるような会社の内定が出た。
友達にも、両親にも、世間様にも、自分自身にも、少なくとも面目が立つ結果を出せたことにだけ安堵した。

いざ働き始めてみるとこれはなかなか厳しいゾと感じることばかりだった。
サラリーマンは気楽な稼業でタイムレコーダーをガチャンと押せばどうにかカッコがつくものでもなかった。
教えてもらったことはその通りに遂行できたし、目の前にあるタスクをこなすこともできた。
ただ、たとえば新たな企画とか問題解決策みたいなものを考えるのが苦手だった。
2年目以降になると後輩ができたり、部下ができたりもするわけだけど、そのマネジメントのようなことも苦手だった。
そもそもの話、今就いている仕事に何の思い入れもないのに、企画だのマネジメントだのを考えるなんて土台無理な話なんだけど、当時はそれに気づけなかったし、気づいてもなんとか体裁を整えなければと思っていた。
自分は働いているんだ、社会の一員としてみんなと同じようにサラリーマンをしているんだ、ここからこぼれ落ちるわけにはいかないんだ。
大卒の就職率が史上最低を記録したことと、QちゃんがLOVE2000を聞きながら走っているということくらいしかニュースの記憶がない頃、転職ができるとも思えなかった。

今となっては案の定、でも当時は「石の上にも3年いたし」なんて理由をつけて、4年目の夏に会社を辞めた。
何かをやりたかったわけではなく、ただ直前に就いていた営業という仕事はどうにもこうにも耐えられなかった。
売上を出せない営業マンは給料泥棒と陰口を叩かれながら、その人たちと同じ部屋の空気を吸って生きているのが辛かったし、周囲からできない人間と思われるのがイヤだった。
ソフトスーツのヤンエグなんてとっくにいなくなったこの頃、下手に名が通った会社を辞めることへの抵抗は自分自身より周囲のほうが大きかったようで、両親からも親戚一同からも総スカンをくらった。
本人はただひたすら辞めたかった、それ以外何も考えていなかった。

以降、数年毎に会社が変わった。
ルーティン業務だけで生きていきたいのに、しばらくするとステップアップさせられたり、人の上に立たされたりするので、入社してしばらくすると次の会社を探し始める感じだった。

とある会社はとても日本的と言うか、社屋もビジネスモデルも古き良き時代のままの企業だった。
人の出入りも少ない、よく言えば家庭的、ともすれば閉鎖的なその職場の人たちは中途採用のよそ者にはあまり好意的ではなかった。
転職は35歳が限界と言われていたこの時代、既に30歳を超えていた身としてはそれでもしがみつこうとした。
10年弱の社会人生活でそれくらいの気概は醸成されているような気もしたが、半年でギブアップ。
出社することができなくなり、社員証やその他備品を退職届と一緒に郵送し、会社からの連絡を一切遮断して逃げた。

もともと大きな流れには乗れないとわかっていながら、みんなと同じでありたいともがいてみたゲイの20年に亘る壮大でちっぽけな悪あがきはあっけなく終わった。







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