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世界と世態と世代の中で

ふと、去年のカレンダーをぼんやりと意味なくスクロール。
2019年の4月の今ごろ。
憲政史上初、200年ぶりの譲位に伴う改元が間近にせまったお祭りムードの中、なにかにつけて「令和」を謳えばそれでヨシと言わんばかりのころ。
自分のスケジュールにも「平成最後の〜」といった大義名分の集まりが記録されていた。
平成最後の日は中野でジンギスカンを食べて、翌日の令和初日から車で旅行に出かけたんだった。
そういえば、この『つれづれつづり』だってそれぞれの平成を振り返る企画から始まったんだった。

あれから1年。
世界が変わった。
阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、山一證券の倒産、9.11、3.11。
世界が変わったと感じた瞬間は以前にもあった。
でも、常日頃から是とされていた人と人との繋がりを抑制される事態は体験したことがなかった。

今もこの先もスケジュールに色がつけられない世界で、つかみどころのない浮遊感に包まれながらもこうして文章を書いている。
今回のテーマである「老後」を論ずるにはいささか難しい状況だ。
もとより社会が定めた教科書どおりの明るい未来を謳歌できるような境遇に生まれついてはいない身としては、ともすれば滑稽に思えたりもする。
でも、明日の先にあると信じていた未来がある日突然やって来なくなると思い知った経験を重ねると、明日すら見えないままだいぶ先の未来を妄想することさえ悪くないんじゃないかと思い始めた。

物心ついたときにはバブルが弾け終わって、氷河期真っ只中凍てついた世界に放り出され、ロスジェネなんて横文字がむしろ清々しくさえ感じる世代に属していると、とかく「いいことなんてなにもない」とネガティブな方向を向くのは随分とステレオタイプに甘んじた気がする。
そう思うのは勝手だけど、世代なんて広告主の顔色しか見ていないメディアの輪の中で時代の風を読むセンスが人より少しあっただけの人がネーミングしただけのことよ、ワタシはワタシよ関係ないわと啖呵を切るほどのポジティブな感覚にはなれない。

0か1、ONかOFF、白か黒。
そういう議論は、どこにさらしてもケチがつくことがない経歴をお持ちの人や、一言発して高額納税者になれる人におまかせして、どっちつかずの薄ぼんやりしたグラデーションな独り言をつづっていこうかなと思っている。

スーパーでずっと品切れ中のお徳用かつ愛用スパゲティ(1.7mm)をどう入手しようか考えるほうが、正直な話よっぽど重要ではあるのだけれど。

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