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自己肯定感が低い人の恋バナ

愛の部分はさておき、恋の部分の話ならできそうな気がする。

僕にとっての恋愛が、「そんなものは無いのである。」からのスタートだったのは前回書いたとおり。
それでも何度か恋をした経験があるのはやはり本能と言うべきものなのか。
恋をして、「そんなものは無い」と蓋をしようとして、蓋ができた恋とできなかった恋、それと蓋の存在を忘れていた恋がある。

蓋ができた恋は中高生の頃の恋。
同級生、先輩、後輩…アラいやだ、思い返せば恋多き女だったな。
でも全部なかったことにして蓋をした。
腕から時計を外すように男とサヨナラできた梓みちよさん風に、自分の気持ちをスッパリ切り捨てられたわけでもないけれど、男が男を好きなんて言ったら社会的に抹殺されるかもしれないという恐怖のほうが勝っていた。

蓋ができなかった恋は今の伴侶との恋。
例に漏れず、恐怖感から蓋はしようとしたものの全然できなかった。
無いものとしていた恋なのに、あまつさえ全てをかなぐり捨てて告白した結果、今に至るまで毎日を一緒に歩むことになったからこうして穏やかに暮らしていられるものの、19歳の自分の狼藉を思い出すだけでも動悸がする。
それまでもっとも恐れていた禁を冒したところで不利益を被るものでもないと体感した僕の中から、恋を無きものにする蓋がふっと消えたのがこの瞬間だった。

この後しばらくはアニメのキャラクターだったり、クルマだったり、人以外のサムシングばかりに恋する平穏な(?)日々が続く。
人見知りで引きこもりがち、股は開いてもココロは開かない生来の性質が災いしたのか幸いだったのか、伴侶以外の人にときめくことがないまま20代を終えたことを今も後悔している。

そして始まったSNS大航海時代。
恐る恐る顔写真を掲載し、少し狙って紡いでは垂れ流す言葉をきっかけに、それまでとは比べ物にならない人数と出会うようになった。
毎日のように誰かと会う約束を取り付けてはTOKIOに日参。
ええ、セックスのためにTOKIOへ通う田舎者はいても、田舎へ来てくれるTOKIOの人なんていませんもの。
書いてるだけでもしんどくなるような芸当をこなせたほどの若さがあったんだなと懐かしくなるけれど、何よりも新鮮で楽しい気持ちが上回っていたし、その夜限りの男に抱かれているときの痺れるような充足感がたまらなかった。
こうして僕の性的欲求充足の満足度は急上昇、もともと低い自己肯定感は水面下に突入。
その水中で必死に呼吸をしながら落ちる恋なんてロクなもんじゃない。
相手に「俺のどこが好きなの?」と聞かれ、「全部」と言いそうになるのを堪えた挙げ句、言うに事欠いて「顔」と答えてしまうくらいロクなもんじゃないのに、落ちました。

その時だって当然、パートナーはいるわけですよ。
そこに胡座をかいて全方向タイプど真ん中のオトコに恋してることに酔いました。
他の友人も含めて会っているときでも、早く2人になりたくて、他の人と会う約束があると言われればその相手に嫉妬して、本当にそうなのか猜疑心満々で彼のSNSを見ては何やってんだろと自己嫌悪。
ほどなくして気持ちは収まり、その人とも疎遠になって騒動は無事終わったけれど、自分の中の「情」みたいなものがあんなに燃え上がることを体験できたのはよかったのかもなと今では思う。

そこからまた何年かが過ぎ、不惑と言われる年齢を迎えて久しい昨今。
不惑のカケラも備わっていなかった僕はまた恋に落ちる。
いろんなしがらみや存在するかしないかもあやふやなルールに縛られて、周囲の期待を裏切ることを恐れて、だけども内なる欲望には隠しきれずモヤモヤしながらも平静を装いがちな人。
過去の自分を見ているような気がして興味を持ったと言えば聞こえがよいのだけれど、自分が好きなタイプの顔を2種類足して2で割ったような超絶バランスの取れたお顔立ちだったから。
「なんだかんだでやっぱりお前は顔なんだな。」と、妙な結論を導いてしまった感が否めない。
好みの顔は多少の瑕疵を見えなくする効果があると思う。

そんな彼とは「傍から見たらお前ら付き合ってるよね状態」で1年ほどが過ぎ、あちらに彼氏が出来たことで一応の終結を見るも、都合のいい関係は続いていて今に至る。
束縛したくないされたくない、という大義名分のもとに相手持ち同士がイチャコラすることへの賛否はともかく、自分以外の特定の誰かに割く時間が多い人のほうが人としての魅力は多いのは実感するところ。
楽しくなけりゃ恋じゃないと言えるくらいの経験値がまた一つ増えた。

I'm just a woman fallin' love……


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