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終わりと始まり

昭和64年1月7日。

中学受験を間近に控えて、通っていた塾の冬期講習最終日。
まだその人のことをよく理解していなかった、教科書に出て来る眼鏡を掛けたおじいちゃん。その人が何なのかイマイチ掴みにくいけれどいつもそこにいたっぽい人が亡くなったとテレビが伝えていた。

映像には涙を浮かべる大人が映っていたけれど、ついこないだまで同級生にからかわれては度々泣いていた僕でもその程度の認識しかない人が亡くなったところで涙が出て来るはずもなく、「7日しかない昭和64年の硬貨は数が少ないからいずれ値上がりするぞ。」という、いたく世俗的な話に耳をそばだてて、いつもは嫌がる親からの言い付けで行かされる買い物へ自ら進んで行ったり、商店を営んでいた父親が毎晩帳簿付けをしている時に、釣り銭用の硬貨を改めさせてもらったりしていた。とは言え、昭和64年が終わってすぐに硬貨が流通するわけもなく釣果は全く無く、すぐに飽きてやめてしまった。すっかり忘れた頃に、同級生が件の硬貨を何枚か自慢気に見せてくれた時、地道な努力を続けることが出来る人間とそうでない人間がいることを知った。無論、僕は後者だ。
翌日からあっさりと元号が変わった。

そして僕は中学受験に失敗した。第一志望も第二志望も、我が子の不出来っぷりに慌てた両親が探して来た2次募集にも引っ掛からなかった。合格発表の日、地道な努力を続けて来た人たちが受験票を片手に大喜びしていた。でも、受験をした当事者である同い年の子供より親や進学塾の先生たちの方がより嬉しがっているようにも見えた。さほど乗り気でないまま、親の言いなりで受験した自分にそこまでの落胆はなかったけど、そうとは全く思っていない周囲の大人たちが向けて来る哀憐の視線が嫌だった。様々な思いを隠し切れていないまま投げつけられる激励が正直なところ面倒臭かった。

ほどなくして眼鏡のおじいちゃんの葬儀で学校が休みになったは良いものの、テレビは全てその関連番組で占められていて恐ろしくつまらない。それではと行ったレンタルビデオ店の棚の、僕が借りるべきビデオテープには悉く「レンタル中」の札が提げられていた。皆が皆同じことを考えて同じ行動をしていた。

桜が咲き、終わってしまった前の時代への嘆きより新しい時代の幕開けに期待する声が増えて来た頃、僕は中学生になった。算数が数学になり、図工が美術になっても、僕がゲイであることに変わりはなかった。思春期真っ盛りで何でも興味本位で接して来る同級生に対して、自分の性的対象が男性であることがバレないように壁を作ることに執着した。誰からも見えないけど確実に自分を守る壁を作る必要があった。そうしなければこの世界で生きていかれないと漠然とした、しかし切実な思いがあった。
ただ、壁を作って外敵から身を守るはずなのに、そこから身を乗り出してあえて危険に身を晒す衝動に駆られることもあった。そんな葛藤は生まれて初めての経験だった。僕はとある男子に恋をした。その子の前では壁を取り払いたい、いや取り払いたくないと毎日悶々としていた。「好きな服を着てるだけ悪いことしてないよ」なんて流行っていた歌みたいに、好きな人が好きなだけと言い切れたら随分と楽になれたのかもしれないなぁと今は思うけど、この頃はそんな発想にすら至ることもなかった。
ストレスのせいか呼吸がいつも浅く、息が詰まったようになって空咳を繰り返すようになった。風邪かと思ったらしい祖母に内科や咽喉科に連れて行かれ、処方された薬を飲んでも治らなかった。緊張するとすぐに咳が出て、定期試験の最中なんかも止まらないのには参った。初恋の相手と一緒にいる時には咳が出なかったことに気づくのはだいぶ後になってからだ。

眼鏡のおじいちゃんの体調に忖度して、様々なことが自粛されていた前年までの雰囲気とは打って変わって新時代を謳歌しようとする空気が、僕の住んでいた田舎町にも漂っていた。景気のいいニュースと上昇し続ける株価や地価に日本中が沸き、軽佻浮薄な80年代を締め括るにはまさにお誂え向きの雰囲気だったのかもしれない。もう随分前から車の免許を取りたいがためだけに早く大人になりたいと思っていた僕は、テレビや雑誌で目にする大人の世界に憧れた。カッコいい洋服を着て横文字系の仕事をしてカッコいい外車に乗って毎夜ディスコやプールバーに繰り出す、当時流行していたトレンディードラマそのままの世界に、大人になったら生きられると思っていたけれど、その世界には必ず存在していた綺麗な女の人との色恋沙汰だけはない事になっていたので、いつも何となく締まりが悪かった。

この頃、初めてCDを買った。最初に買ったのは米米CLUBとZIGGYのシングルだった。家にあったCDプレーヤーで縦長の8cmCDを再生するのにはアダプターが必要だった。家の電話にはまだコードが付いていたし、携帯電話は建設業を装ったその筋の人か業界人の専用アイテムだった。駅には伝言板があって、改札口では駅員が切符に鋏を入れる音が響いていた。消費税が新設されたせいで従来は賽銭箱か募金箱に入れるくらいしか用がなかった1円玉が一躍脚光を浴びていた。110円になるかもと噂されていた自販機の飲み物はまだ100円のままだったけど、切手は40円から41円に、葉書は60円から62円になっていた。自分にとっての唯一無二のゲイメディアである雑誌を買うのは経済的にも心理的にもハードルが高かったけど、それを上回る衝動が誰も自分のことを知っているはずもない遠くの街の本屋まで足を急がせた。夢はなかったけど、欲求だけは人一倍あった。

CMの影響で品薄になっていた山下達郎の『クリスマス・イブ』のCDをようやく手にした頃、日経平均株価が史上最高値を更新した。そのまま何となく大人になってファイロファックスを手放さないヤンエグになれると思っていた僕の平成元年は暮れようとしていた。


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