辺際
平成11年。
新たな歌姫が低い天井の下で窮屈そうに歌っているうちに、巷に溢れる物はおよそ半透明になり、ジャニーズの新グループがデビュー曲で着た衣装も透けていた。
聞いて話すだけだった携帯電話がインターネットに繋がり、ポケベル娘から順調に成り上がってきたアイドルが難関大学へ3ヶ月しか登校しないと批判されていた頃、あちこちへ電話をかけていた平成おじさん内閣の支持率は急上昇し、日本の未来はWowWowWowWowだった。
この年、氷河期と言われた就職戦線を勝ち抜いて明るい未来に就職した、はずだった。大学を卒業したらどこかの企業に就職するものだと思い込んでいたし、周囲も当然それを期待していたし、それ以外の選択肢は思い浮かばなかった。消極的な理由の中で最大限積極的に会社を選んで選ばれた結果、スーツを着てネクタイを締めていた。真夏でも締めていた。クールビズはまだだいぶ先の話だ。
第一希望の企業とはご縁がなかったものの、その子会社の一つに滑り込んでそれなりにウキウキしていた僕は、内定式で同期と一堂に会した瞬間に目が覚める。役員たちの前で他の同期たちが胸を張って語る仕事への抱負や意気込みみたいなものが全く湧いて来なかった。就職することがゴールだった僕と、就職がスタートだった同期との明確な違いを目の当たりにして、さっきまでのウキウキ気分は雲散霧消していた。
実際に仕事に就いてからも自分に課されたタスクをこなし、そこそこの結果まで持って行くことは出来た。それは子供の頃から「出来ない奴」と思われるのが嫌だったちっぽけなプライドのおかげだった。ところが会社というのはそれだけで万事OKとはならなかった。付き合い、人脈、建前、暗黙のルール…そういった目に見えないものに翻弄されながらも舵を取り、上手く波に乗った者だけに快適な居場所が与えられた。今思い返せば、そういう人たちも波にさらわれまいと必死だったんだろう。それにその波を越えた先に何かしらの希望が見えていたんだろう。だけど、僕にはそれがなかった。日々会社へ身体を運び、疲弊してまた家に身体を運ぶ、それだけで給料を貰っていることをどこかで恥じながらも、その鬱屈とした気持ちはいつしか浪費することで満たすようになっていた。
既に就職前からマルイのキャッシングを使っていた。なんのことはない、もうだいぶ前から金銭感覚が狂っていた。給料が出たら銀行から引き出し、その足でマルイのカウンターへ行って返済をする。そうすると手持ちの現金では欲しい物に届かない。「7月に恐怖の大王が現れて世界が終わるんだから、今のうちに欲しいもの買っておけば支払わなくても済むよね。」なんて浅薄ここに極まれりな発想から、それまで作っただけでなんとなく怖くて使えなかったクレジットカードをあっけなく使い始めた。一括払いがキツくなってくるとボーナス払いやリボ払いに変更し、借金の額ははどんどん増えていった。挙句の果てにはボーナス払いの支払い時期に、ディーラーへ行ったその足で300万の新車を買った。勿論ローンを組んだ。申込書の勤務先欄に会社の名前を書くだけで、面白いくらい簡単に借金が出来た。
就職して3年目に実家を出て彼氏と一緒に暮らし始めた。そうなると、当然家賃を払わねばならない。辛うじて稼ぎの中でやりくり出来ていたところへ新たな、大きめの出費が増え、いよいよ厳しくなって来てもタガが外れたまま、この頃やたら各地に増殖していた消費者金融の無人契約機へ足を向けることになる。それでも最初は躊躇いもあった。サラ金という響きに恐怖心もあった。でもそれらが銀行口座の心もとない残高への焦燥感を上回ることはなかった。すぐに限度額に達し、1社また1社と財布の中にカラフルなキャッシュカードが増えていった。紛れもない多重債務者、一丁上がり。
就職してから10年弱で仕事は4回変わった。もっともらしい理由をつけて辞め、もっともらしい理由をつけて入り、その繰り返しだった。もともとやりたい仕事があったわけではなく、毎月の借金返済のためだけに働き口を見つけているだけだった。その都度、精力的に仕事に取り組んでいる人たちを見ては劣等感に苛まれて、でも何もできないまま日々を消費した。会社の昼休みに消費者金融の窓口に返済に行き、その帰りの道すがらかかってきた別の業者からの電話で「限度額を上げますのでもっと借りませんか?」とのお誘いを、「あ、そう言えば来週結婚式のご祝儀出さなきゃいけないしな。」と、二つ返事でOKする。完全に狂っていた。
気づけば20代が終わろうとしていた。ここまで来てようやく事の重大さに気づいたものの、借金は既に自分でコントロール出来る範囲を遥かに越えてどうにもならない金額に膨らんでいた。ギリギリの心理状態で辛うじて続けていた仕事も折り合いが悪くなって逃げるように辞めた。ほどなくして、自己破産を申請した僕の名前は官報に載ることになった。SNSが広まるほんの少し前、自分のことが広く世間に向けて公開されたのはこれが初めてだった。
いつも漠然と、どこかで誰かが守ってくれると思っていた。
自分のことを自分を守ってこなかったツケが回って来た。
全部やり直すことにした。
やりたいことをやるようにして、自分をごまかすのをやめた。山のようにあった服や鞄や靴、その他浪費の末に得た様々な物を捨て、一時は90kg近かった体重を70kgまで減らした。自炊も始めた。何でも否定から入ることをやめて、ひとまずやってみるようにした。知っておいて貰いたい人たちには自分がゲイであることを伝えた。遠方の人には無沙汰を詫びつつ、現地を訪問して直接会って伝えた。ガンで入院していて余命幾ばくも無かった最愛の叔母のところへ彼氏を連れて行き、自分がゲイであることとこの人と付き合っていることを伝えた。彼氏に「○○(僕の名前)を よろしくお願いします。」と言ってくれた叔母に救われた。実家の母が言ってくれた「知ってた。だけど何も変わらない。あなたはあなた。」に救われた。
そして何より、こんな状態に陥る前も最中も後も一緒に生きてくれた彼氏に救われた。
平成18年。
僕は30歳になった。
My Chemical Romanceの”Welcome To The Black Parade”をよく聞いていた。
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