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禍記①

 あの日のことはぼんやり覚えている。昨年の冬くらいからサウナに興味を持ち、近くのスーパー銭湯で温まったり冷えたり、拷問のような状況を楽しんでいた。ご存じの方も多いだろうが、サウナにはテレビが設置されていることがある。長時間何もせずただただ耐えるというのは退屈だからだろう。私はひどく目が悪いので正直テレビが流れていても見ることはできないのだけれど、それでもなんとなしに音だけ聞いていることはある。ちょうどニュースが流れており、武漢での新型ウイルスを知らせるものだった。

「新型だって。肺炎になるんだって。パンデミックなんだって」

 まだまだ他人事で、無関心だった。ちょうど仕事がこれから忙しくなるタイミングだったし、何より暑くて暑くてどうしようもなく、一刻も早くサウナから出たかった。ドラマだったらどうせ「この時の僕は、まさか世界があんなことになるなんて想像だにしていなかった……」とか入るんだろう。でも本当にこんなに世界が変わってしまうようなことだとは誰も思わなかったに違いない。

 それから、ニュースを開ければその話題だった。海を隔てた向こう側でふるっていた猛威は、着実にこちらへ忍び寄ってきた。それでも他人事だった。それでもインターネットは大騒ぎ。検査をしろ。検査をするな。病院に行け。病院に行くな。津波のような情報に飲み込まれそうになる。何が正しいかを見極めなければいけないけれど、あの人の言うことももっともで、この人の言うことも一理ある。そういう状況はひどくしんどくて、目をそむけたくもなった。

「でも、大丈夫だよね?」

 これだけ騒いでいるけれど、すぐ収まるよね? 大変だったけどすぐ消えちゃったね と笑ってしまうような、そういう未来を望んでいた。なぜなら私は三月に休みを取って旅行に行く計画を立てていたのだ。多分、普通の人はなんてことない普通の事だと思うだろうが、私を知る人にとってはまた印象が違うだろう。
 私は出不精だ。非日常が苦手だ。つまり旅行が嫌いだ。修学旅行ですら行きたくなかった。友達と卒業旅行なんて考えたことがなかった。(そういう友達がいなかったというのもある)
 いつか触れることもあるかもしれないが、兎にも角にも旅行が嫌いなのだ。そういう人間が、気まぐれに、計画を立てていたというのに。むしろめったなことをした結果こんな悲惨な状況を呼び起こしてしまったのだとしたらどれだけ謝っても謝り切れない。

「神様どうかお願いです。この騒ぎが早く収まりますように」

 願いもむなしく、感染者は増加の一途をたどった。外出なんて、旅行なんてとんでもない、という風潮も出始めていた。実際、私も仕事で出張を予定していたが急遽取りやめとなったくらいだ。しかも四月には絶対に休んでいられない仕事も決まっており、そんな状況でもし自分が罹患してしまったら と考えると怖気が走る。
 結局、同行者とも話し合い今回は中止とした。空っぽの休暇を過ごすことになり、ひどく無駄にした気分だった。自分の間の悪さを呪いながら「でもきっと新幹線に乗っていたら罹患していた」と手の届かないブドウを酸っぱいと決めつける狐のような日々を過ごした。

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