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思案

平成元年、生まれる10年前。

思いを馳せてみる。

歴史や社会や情勢には疎いので表面的に。
西暦にすると1989年。80年代。感覚的には大昔。
ネットの普及はwin95の台頭からと聞いている。
それ以前のゲイの出会いといえば、数少ないゲイ雑誌の投書欄から手紙のやり取りをし、遠く離れた街まで行き待ち合わせをする。あの頃は会うだけで一大イベントという事で、その人の見た目がどうなんていうのはさほど重要ではなく、長い文通で培った関係性が恋そのものであったと聞いたことがある。

1989年というとようやく小型携帯が出た頃で、2年前までは近代史の教科書で見るようなどでかい携帯が、もう少し前にはバブリーなショルダーホンが使われていたような時代。

手紙を書くのでさえ億劫で、新年の挨拶だってスマホで済ましてしまうような私。簡潔で手間を取らない人間関係ばかり構築してきた私、そしてそれが許される世界にいる私にはとても考えられない。

私がいわゆるゲイ活をし始めたのは中3の終わり、スマホを手にしてから。
赤アプリを使用し、少しの操作で登録。近くにいるお仲間さんを探しては適当にメッセージを送りセックスができてしまう。
オナニーだってネタはネットで探せばちょちょいと希望通りのモノが手に入る。

一度ゲイ出会い掲示板を訪れたことがある。
「ゲイ エロ セックス」だなんて検索して、地域別でページが用意されている掲示板。
中には時系列でスレッドが並べられ、「ヤれる人募集」「◯◯公園で発展」だなんて記載とともに、たまにプロフィール、たまにメールアドレス。

青い心にも、これでは厳しいだろうと感じた覚えがある。結婚はおろか、恋もできはしない。
そんな世界に生まれ落ちたのだ。
ドラマでは、アニメでは、漫画では、本では。あれほど当たり前のように恋に落ちているのに。下世話な世界観の中では、セックスはツールのようにも取り上げられているのに。キスはあれほどエッチで美しいとされているのに。
子供を授かるための行為なのに。

平成も半ばでそれほどの絶望を味わっていたのに、あの頃を生きる方々は。あの頃に青春を過ごす方は。青年期を迎え、結婚をする友達も現れた頃の方もいるでしょう。おじさんになり1人で過ごす方、親と過ごす方、禿げた方、定年を迎えた方、死にゆく方々は。
想像に難しとも確実に存在した方、どのように過ごされたのでしょう。何を感じ、考え、諦め、決心されていたのでしょうか。
家を継ぐため、親のため、社会からの視線や絶望の中、異性との結婚を選ばれた方もいると聞きます。

未だそのような方はいらっしゃるとも思いますが、それでも、多様性がとりだたされテレビでもタブーとされず社会の課題として取り上げられ、結婚という概念でさえも多様に認められる時代に成人を迎えた私にはその悲しみはあまりにも重く、受け入れられさえしないものです。

その初動は、偏見や差別のなか苦しみに耐えかね勇気を振り絞り声をあげた方、笑いに変えて受け入れてきた方、心の奥に落とし込み飲み込んで日々を過ごしてきた方に支えられていたのだと思います。

私の想像でしかありませんが。

今でこそ若い子におじさんだなんてバカにされてしまうような方々が、苦しく長い時代を耐え抜いて来たのだと思うと感服です。尊敬です。
今の基盤をどうもありがとう。
今の足掻きこそきっと美しい。

田舎に暮らす私には見えない世界もあるかと思います。ぎりぎりベールに隠されているアンダーグラウンドなコミュニティだって当然に存在しているように、深い繋がりだってあるのかもしれません。あったのかもしれません。

被害者意識の強い妄想ばかり膨らんでしまいますが、1つ壁を挟んだ世界だからこその情事を美しく時には淫らに楽しんだ方もいらっしゃるのでしょう。

しかし私は、私があの時代に生きていたら。
それだけで一歩踏み出せる。崖の下へ。
なんて言いつつ誤魔化し受け入れそれとなく、なんとなく生きていたでしょう。今でさえ鬱々と陰気に過ごしているのに。

マイノリティという大きな括りでのロールモデル、ぜひ私も見させていただきたいものです。
そして、皆さんの頭の中を覗けること含め好奇心をそそられる場を用意してくださったことに感謝です。

次回は?生まれた頃かな。

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