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ガイジンと呼ばれた自分と『自分ルール』の芽生え

平成元年。14歳。
西暦で言うと何年になるんだ。
あらやだ、1989年ですって。いまが2019年だから何年経過したのかしら。
繰り下がりのある引き算むずかしいし、レディーに年齢を聞くのってヤボだと思う。いまが平成31年なんだから、平成元年からならすぐわかるだろって?いやよいや、マコはそんな無粋なことしたくないっ!マコはいやっ!

放っておくとこうしてわたしの文章はどんどん脱線していくので、きちんとここで本題に戻りたい。第1回の共通テーマ『平成元年』を振り返るにあたって、まずはわたしの生い立ちをつづりたい。

地元でも評判の美少年としてこの世に生を受けたわたしは、生後まもなく父の仕事の都合で海外を転々とした。
時代と場所柄日本人学校なんてないような土地ばかりで、アメリカンスクールがあればそちらに、なければ現地のスクールに通っていた。
お友だちは現地の子から、同じように移住してきた日本人姉妹や金髪ブルーアイのお姫さまみたいな女の子、「同じ黒髪のヒトがいる!日本人!」とキャーキャー付きまとったが実際はチャイニーズだった優しいお兄さんなど、友達に限らなければそれこそ多人種の環境で、わたしは育ってきた。

あの頃のわたしは、ヒトはヒト、わたしはわたし、あなたはあなた、それが当たり前だと思っていた。

「日本の教育を受けさせたい」
父の一言でわたしたちだけが帰国となった。現地で出会ったひとたちと別れるのはとてもとても辛く不安だったけれど、元来の太陽のような明るさで日本でだってやっていけるわと10年ぶりに日本の地に足を付けた。

そこで待ち構えていた日本での現実はわたしが思っていたよりもすこしだけ残酷だった。

その土地で帰国子女が珍しかったこともあるのだろう。彼らからしたら未知なるアウトサイダーだったのだろう。わたしは転校初日に「ガイジン」と呼ばれた。

机の周りを複数人に取り囲まれて「英語喋ってみろよ、ガイジン」という辛辣なコトバにもお望みとあらばとただただ英語で返した。暴力には暴力では返さない。もしかしたら幼心に芽生えはじめていた『多様性』という考え方が、それを受け止めない人間は少なからずこの世には存在し、彼らとどうコミュニケートしていくのかが大切なのかということを教えてくれたのかもしれない。逆にナマイキにうつっただろうが。

結果、帰国子女×双子という属性がプラスされた弟たちはわたしなんかよりも辛辣な暴力を受けその地を離れることをわたしたち家族は決めざるおえなかったのだが、その事に挫けることもなく元来の気の強さもありすくすくと表向きは明朗で活発な子として育っていった。

そして時代は昭和から平成に切り替わる。

平成元年、わたしはいつのまにか14歳になっていた。
相変わらずナマイキだったとおもう。なんなら狡猾さも持ち合わせていたかもしれない。いま思い返すとそうでなければ自身を保てなかったのかもしれない。第二次性徴を迎え、より自分が「ナニモノ」なのかを自覚されつつあったあのとき。その顕著だったのが平成元年だったなと振り返る。

世間なのかわたしがいた狭い社会かは定かではないが、まぁセクシャルマイノリティの人権なんて二の次の時代で。とにかく面白ければいい揶揄してもいいそもそもセクシャルマイノリティなんて周りにいるの?みたいな社会状況だった記憶がある。なによりゲイもセクシャルマイノリティもどちらかというとあの頃のわたしにとって優しかったであろうコトバを耳にすることは一度もなかった。

またテレビの情報がほぼすべての翌日の会話の情報源だったような時代だから、セクシャルマイノリティを題材といえば聞こえが良いがただただソレを揶揄したバラエティーの翌日なんかは、濃いめの大きい男性的な顔なのに中性的な物言い仕草のわたしは格好のからかいの対象だった。

平成元年に限らないけれど、いまでもときどき「ねぇなんでそんなオネエみたいな話し方するの?」というチェーンソーでいきなり玄関真っ二つにして土足で踏み込んでくるような不躾でお里が知れるような質問を受けることがあるのだけれど、平成元年の中学生の頃から、なんなら生まれたときから、一切わたし話し方やしぐさは変わっていないし意識もしていない。

なのに「オカマ」という簡単に笑いがとれてかつ相手を揶揄するにはもってこいなショートワードが思春期まっさかりの男子中学生に突きつけられ続けたことに、きっとわたし、どこかで傷ついていたんだとおもう。

だから、いつのまにか「男は女がスキ。女は男が好き。」という固定観念を強制されるそんな環境で、ワタシの中で静かに『自分ルール』が生まれていったんだとおもう。

他責ばかりで清廉潔白な素振りを見せてきたが、この頃わたしもわたしで『肉欲』については咎められてもなんら言い訳のしようが無い状態になっていた。

「女の子とも男の子ともキモチいいことはキモチいい」

吉田栄作がでてきそうなトレンディドラマの影響かいま思い出しても相当に大胆だったわたし。つれづれつづりで下ネタってどこまでオッケーかボスにまだ聞けていないからここでは綴らないけれど、前述したとおり近所でも評判の美少年だったわたしだったからでしょうね、あぁ美少年だったからでしょうね、キモチいいことたくさんしたとおもう。とはいえ平成元年よ、インターネットで「中学生のセックス指南」とか気軽に検索できて実行できちゃう時代じゃないからね、フェザータッチくらい、フェザータッチ。

そんな肉欲には正直だったわたしだったけれども
・女の子とは、付き合うし気持ち良いこともする
・男の子とは、ただお互いに気持ち良いことだけする
みたいな『自分ルール』があった。

多様性のある環境で生まれ育ちながらも、もしかしたら根っこでは自身のセクシャリティを受け止め切れていなかったのだろうか。たまたま殿方にすべての概念を壊すような愛の囁きをされなかったからだけなのだろうか。それとも自身の性的指向に気付かないふりをしていたのだろうか。

いま振り返ればそれは自分がゲイであることを否定していたというよりも、セクシャリティ自体を単純に理解していない、というより理解できていなかったのかもしれない。それだけ情報が乏しい時代だったのだ。繰り返すけどインターネットなんて気軽につかえるような時代じゃなかったから。

「だれかを愛することに性別や人種の制限はないんだよ」
中学生がそういう風に少しでも思えるような社会ではなかったのだもの。

肉欲に奔放に生きながらも、わたしはこの『自分ルール』にこの先15年以上も苦しむことになるのだが、それはまた、別のつれづれつづりで。

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