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ヤマメとサクラマス

平成元年。

当時は中学一年生。
それまでにいた小学校は稀有なマンモス校で、全校生徒は約2000人もいた。
一方で、入学した中学校は全校生徒でも500人程度だ。
これまでは給食センターでわしゃーっと一斉に洗われていたじゃがいもが、ホテルの厨房でそこそこに洗われるようになった感じだ。基本的には、じゃがいもとしての自覚がある良い子ちゃんだったと思う。

自分は肌がとても白かったので、外見的には目立っていた。今は40代となり、それなりに薄汚れているが、当時は驚きの白さ。
小学校の卒業アルバムにある、水泳の授業中に撮った集合写真で、一人だけ日光を反射してまぶしく輝いていた。いま見ても、ちょっと恥ずかしい。

そんな肌の白さは異端となり、いじめる理由になったのだろう、まさに平成元年にいじめを受けていた。思い出すのも忌々しい、なかなか陰湿ないじめだったと思うが、学校の中で自分を支えてくれたものが二つあった。

ひとつは音楽。吹奏楽部がとにかく楽しかった。
今までになかった、大人がやるものをやらせてもらえるような感覚や、合奏でひとつのものを作っていく過程。いわゆるコンクール強豪校ではなかったが、皆で和気藹々、夢中になって練習していた。

もうひとつはある同級生の存在。同じクラスの、運動部の男子生徒だった。
いつも自分のことを気にかけてくれ、部活の終了時間が近い日には二人で一緒に帰ることもあった。自分とは全く違うタイプで、中学生にしては体格がよく、堂々としていて、小学校から野球一筋、みたいな感じだ。

教室で、勉強教えてくれよ、楽器できるのすごいなぁ、と話しかけてくる。
我が家とは違う方向なのに、彼は遠回りして一緒に帰ってくれる。
帰り道で、目をキラキラさせながら話してくる。
いじめられて自尊心を失っていた自分には、この上ない救いだった。

時々、休み時間に彼が肩を揉んでくれるというのでお願いすると、いつも自分の背中に硬いものが当たっていた。自身を同性愛者だとうすうす自覚していた自分だったが、当初は他者から初めて向けられた性欲に戸惑った。だが、嫌悪感はなかった。

この頃、自分は同性愛についても親から既に教育を受けていた。というより、性教育の本が自室に徐ろに置いてあった。「読んでおけ」というメッセージだ。
そこには「思春期の男性には一時的な同性愛が生じる」とあり、女性に性欲を向ける罪悪感を緩和する過程で、外見が女性的な同性に恋をすることがある、と説明されていた。当時の自分は色白、髪の毛はサラサラ、女子に羨ましがられることもあったので、おそらく彼もそうなのだろうと納得した。

その「スポック博士の性教育」という本は、セックスの際に気をつけること、セックスと愛は同じものか、女性は男性の性欲の犠牲になるな、デートとはいかなるものか、など、読みごたえ満点だった。中学1年生には内容がやや重かったが、翻訳を介したフィルターでも効いていたのか、直接的な表現は少なかったように思う。

その中で、30年経った今でも忘れられない一文が、
「同性愛のひとたちは、じぶんたちが差別されていると感じているので、
   あまり幸せではありません」だ。


自分も本当は彼のことが好きだったと思う。でも常に一定の距離を取った。「今日は親がいないから、うちに遊びに来ないか」と誘われても断った。性的な事態が進展する可能性もゼロではないし、それが、のちのち彼の人生の汚点になると考えた。

サケ科の魚は、海に出る降海型と、生まれた川や湖で一生を終える陸封型とで、大きく異なる生育をみせるそうだ。
いま思えば「俺のことはいいから、あなたはそのまま間違えずに育ってください」という、一歩引いた姿勢だったのだと思う。ヤマメとサクラマスは、幼魚のうちは同じでも、それぞれ別のものに育っていく。

のちに皆が大人になった頃、彼がデレデレの子煩悩な父親になったと聞いたとき、それでよかったと思った。少なくとも自分は彼の人生を汚さなかったと、勝手に安堵した。

平成元年、自分の本当の気持ちは音楽にぶつけていた。楽器はおっそろしく上達し、顧問の先生と同級生を驚かせた。嬉しかった記憶はあまりない。
同じような経験は高校まで続き、自分自身のセクシャリティと、その葛藤をぶつけるための音楽は、切っても切れないものになった。

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